仲良し三人組
太陽は沈み、教室の影が濃く大きくなっていく。
遠くから聞こえる踏切の断続音が耳障りに響き、通過する電車の大地を揺さぶる音が頭を震えさせる。
夕暮れの校庭では、部活動の生徒達が片付けを始めていた。校舎に人影が少なくなった時間帯に、三人の少女が人目を気にして集まっていた。
「誰も、いない?」
「うん、大丈夫みたい」
「うわぁ、ドキドキするねぇ」
一人暢気な事を言っているが、残りの二人の表情は浮かない。極度の緊張に、極地の緊迫。
薄い茶髪に染めている、ショートの関石佐奈が隣にいる新立鯨に問いかける。
「ねぇ。本当に、今から見つかっちゃいけないの?」
問われた鯨は、丸い眼鏡を押し上げながら緊張気味に答える。
「う、うん……儀式に参加する人間以外、ダメだよって柚希ちゃん止めて」
暇だったのか、鯨のおさげ髪で遊んでいた北原柚希は、両手のおさげを鯨の頭に添える。
「角!」
「うっさいバカっ! ちょっとは緊張感持ってよ!」
「う、うぅ~さなちゃんが怒った~」
「……あんまり騒ぐと、見つかるよ」
僅かな囁きさえも、廊下の反対側にまで響いていきそうな空気。
周囲は静寂に包まれており、窓から差し込む赤い光が淋しさと胸の奥から湧き出る不安を増していた。長い間教室で様子を伺っていた三人だったが、先ほどのコントのおかげか、幾分か緊張は和らぎ互いに頷きあうと、目的地へと歩を進めるため教室を出た。
最終下校時刻を過ぎている中、佐奈、鯨、柚希の三人が残っている理由は至極簡単な事だった。
まだ高校に上がっていない人は想像してもらいたい。
現在高校生なら考えてもらいたい。
もう高校を卒業したのなら思い出してもらいたい。
あの頃あの歳あの心、何を夢見て笑って泣いて怒って蔑んで、どんな風に過ごしていたのかを。
世界なんてまだまだ見れるはずもなく、他人の心の中でさえ考える事が難しかった幼い時代。
学生という枠組みで世の中に守られていながらも、世の中を批判して得意気になって、気怠い日々を過ごしていた日常。
大切な事を大事と理解せず、悔む思いを未来に携え、それでも刹那の今を楽しんでいた時。
そんな時代が、人間にはあるのだ。
何も解っていない、何も解らない、正解と知っていても間違った方を選択してしまう、そんな愚かで賢い時代が。
この三人も例にもれず、世間一般の女子高校生。
三人は今、『おまじない』をしようとしていた。
それはこの学校に古くから伝わる、何年も受け継がれているおまじないだった。
昔、とある女学生が殺されたらしい。それも、想い人に。無念なのか、怨念なのかは解らないが、女学生が死んでから、学校では度々『良くない事』が起こった。階段から落ちたり、窓が外れ近くの生徒に落ちたりと、不幸が続いた。当時の学生たちは声を揃えて、無関係な者は嬉々と、関係ある者は恐恐と、『呪いだ』と言った。殺された、信じ愛していた人に殺された、女学生の呪いだと。
ある日、女学生の親友が花と線香を持って、殺害現場にやってきた。供養。涙を零し、想う言葉を告げ、悼み願った。それから暫くして、不幸な出来事は収まった。それだけでなく、女学生の呪いを恐れ誰も近づかなかった中、唯一供養した親友に、幸運が訪れた。
以来、女学生は『呪いの対象』から『願いを叶えてくれる対象』に変わっていった。
「っていう話だけど、どこまで本当なのかねぇ」
鯨の説明を聞いた佐奈が、半信半疑に答える。よくある七不思議レベル。過去を調べてみたら、誰も死んでない事が発覚し完全な眉唾ものとして扱われるような、そんな拙いレベル。
けれど、恋する少女は強かった。強いというより、おかしかった。
「でも、先輩の友達の後輩のお姉さんの弟さんの隣のクラスの人が、お願いしたら、恋人できたって言ってたし」
「おぉ! 凄いねぇ~」
柚希が瞳を輝かせて鯨の話に乗る。柚希はどこか天然というか、知恵が足りないというか知識がないというか、知能が残念というか、つまりは馬鹿とアホを混ぜた感じの子だった。
「ぬ~これは、頑張らないとねぇ!」
「柚希、飴あげるから黙ってて、ね?」
「わーい」
コロコロと上機嫌に飴を舐め始めた柚希を放っておいて、本題に戻る。
「それで、儀式に必要なものってなんなの?」
「まず絶対に三人でやる事。お願い事に関連するモノを用意する。好きな人だったら写真とか。後は儀式に必要な魔法陣の絵図」
鯨が見せたのは、言ったそのまま魔法陣のような、漫画にでも出てきそうな落書き。
「ふーん、誰かがお願い事を人為的にやってるなら、それで叶える為の道具が揃うわけね」
「もう、水差さないでよ」
「はは、ごめんごめん。それで?」
「ううん、それだけ」
「それだけ?」
「まぁ儀式の時やる事がいくつかあるけど、儀式の指定の場所と、後は他の人に見つかっちゃいけないってルールくらい」
「へぇ、随分簡単なんだね。それじゃあ昼間でも良かったって事?」
「昼間でもいいけど、儀式の場所が……」
言葉の途中に立ち止る鯨。目的地に着いたようだ。
場所は校舎の中にいくつもある空き教室の一つ。特別教室と言った方が正しいかもしれない。
通常、使う事はあまりないが、選択する授業で分かれる必要がある時などに使われる部屋だった。話の流れを考えるに、恐らく件の女子生徒が殺された場所なのだろうということらしい。
今回、おまじないをしようと言ったのは、他でもない、誰でも解るが鯨だった。
ありがちでありきたりな恋する少女。
自分が地味な部類に入る人間だと理解している鯨は、あまりそういった、色恋沙汰の話は好きでなかった。参加できないから、したくとも、自分なんかと諦めている鯨は、恋愛感情を持つこと自体、悪い事だと考えていた。臆病の延長ではあるが、いや、先ではなく後ろや下といった、進んでいない感情の行先なのだが、鯨は立ち止ることを覚えてしまった。
恋愛に対して臆病ではなく、立ち止る。
身動きが取れなくではなく、動こうとしない。
縁がないと、諦めていた。
だが、この何十億もいる人類の中で、人に恋することを諦められる人間は一体どれほどいるのだろうか。
人は誰かを愛する事を我慢できても、愛されることを耐えることはできない。
愛されることを耐えられても、愛することを我慢できない。
愛されてしまえば愛するしなかく、愛してしまえば愛されるしかない。
愛とは尊く、愛とは偉大だ。
鯨の短い人生では、その判断をすることができなかった。できなくても問題はなく、どんな種類の人間でも、根底に居続ける魔物のような感情に、鯨は喰われた。
一目惚れだった。
一目見て、奪われた。
心を、時間を、思考を、情熱を。
奪われ、欲しくなった。
恋に無縁で愛に幼かった鯨は、どう対処したらいいのか悩んで悩んで、相談して、色々な事を試して、その試みの一つとして、おまじないがあった。
実は、佐奈と柚希は鯨にとって一番仲の良い友人だったのだが、恋のおまじないとは伝えても、相手が誰かまでは伝えていなかった。柚希に言えばどこから漏れるか解ったものではなく、むしろ暴露するのと同義で、好きな人を紙に書き持ち歩きながら各所に挨拶するのと同様だ。歩く電光掲示板と呼ばれているのは伊達ではなく、時代の流れを感じるが電子の世界を使いさらに情報が拡散されていく。主にメールの際に、電話の際に、柚希は籠いっぱいのミカンに空の籠を乗せてひっくり返そうとするのとおんなじだった。
佐奈は黙ってくれると思ったが、言えない理由ができてしまった。鯨の好きな人の好きな相手が、佐奈だった。伝えるのが、卑怯だと思ってしまった。ここで知らなかったら、相談できたものを、知ってしまったら、言えない。プライドに、近い感情。だが、伝えないのが卑怯とは考えなかった。伝えてしまえば、不利な材料になる。鯨にとって、好ましくない事態になる可能性がある。懸念されるべきものは排除できるうちにするべきだ。
自分に都合のいい解釈をして、伝えるのが卑怯という卑怯な考え方を持って、口を紡ぐ選択をした。
「むむっ! た、大変だよ!」
突然、柚希が慌てた声をあげる。静寂さも相まって、余計に焦りの感情がせりあがってきた。誰か来たのか、鯨は不安と焦燥を胸に振り返る。
「ど、どうしたの!?」
「ひゃながくれた飴、中からガムが出てきたひょ!」
「………」
口を開け、舌の上に溶けかけの飴を見せてくる柚希。その馬鹿面を見せびらかす格好の柚希に対し、鯨は頬をひくつかせ、瞳が剣呑になっていくのを止められない。今にも掴みかかるか怒鳴り散らすか選択を迫られた鯨を見て、佐奈が慌てて間に入る。
「ほ、ほらさっさと中に入っちゃお!」
二人の背中を押し、佐奈は無理矢理に会話を中断させ扉を開けた。
特別教室は文字通り普通の教室と違い、限られた椅子と机しか出されていない。使わないモノは全部後ろに追いやってあり、特別教室と銘打ってあるが要は普通の教室を広く狭くしただけに過ぎない。名前負けとも取れる、拙い作りだった。
真剣な、シリアスな時に柚希が喋ると台無しになるため、今度は長持ちするぺろぺろキャンディーを佐奈は渡した。
「……佐奈って、珍しいモノ持ってるね」
「いいから黙って舐めてて」
はーい、と大人しくなる柚希。鯨は無視することにしたのか、一人黙々と作業を進めている。魔法陣の書かれた紙を部屋の隅に持っていき、置く場所でも決まっているのか、机などをどかし位置を調節している。
その様子を、佐奈は複雑な気持ちで見ていた。最初、鯨からこの話を聞いた時、あまりに嘘くさいなと感じた。嘘くさいよりも、バカバカしい。バカバカしいよりも、下らない。聞いた限りの事故や不幸も、偶然で片付けられるレベルで、また人為的にやろうと思えばできなくもないもの。そもそも、こういったおまじないみたいなのは、信じない事を前提にするのが普通だと思っていた。しかし、女子の間では常々こういった事が流行るというか、月毎に発生する恒例行事だった。
情報源は様々だ。雑誌に知り合い、先輩に後輩、最近ではネットの普及により、さらに探しやすくなっている。心のどこかで信じていないかもしれないが、藁にもすがる思いで、新しいお願いを叶えてくれるものを掘り出してくる。それに、それだけじゃなくて、佐奈は、それ以外にも乗り気になれない理由があった。
「よし、準備完了」
鯨がロウソクを一本、紙の上に立て好きな人の写真を裏返しに乗せる。どんなに頼んでも、佐奈に教えてくれない想い人。
「さ、ほら二人とも早く出して」
促されて佐奈と柚希は持ってきたものを取り出す。前もって何か用意しろと言われていたのだ。佐奈が持ってきたのはゴムの髪留め。大切な、大事な髪留め。柚希はお守り。身体健全と書かれた、赤に金の刺繍が入った綺麗な色彩。恋愛のおまじないだというのに、バカかと思ったがバカだったと思った。
チラリと鯨を見るが、自分の事で頭がいっぱいなのか、佐奈が出した髪留めに何も言わない。柚希がくれたものであるのに。佐奈は少し落胆しながらも、儀式を始める事にした。始めると言っても、後は簡単だ。お願いしますお願いします、どうか私の願いを叶えてくださいと、理不尽にも、不平等にも、赤の他人に自分を助けろと横暴にお願いするのである。
なんて傲慢。なんて勝手。
だがおまじないというのは、基本術者の思惑でしか進まず、終始自分勝手な願いを聞き届かせるためにある。
儀式はものの数分で終わった。盛大な効果音も壮大な光景もなく、カラスの鳴き声が廊下から聞こえるだけ。不気味に静か。気味悪い時間。他人任せの自分の願いは、つつがなく終了した。
「……終了?」
佐奈が恐る恐る、真剣に目を瞑り祈り捧げている鯨に尋ねた。鯨はしばし、神聖な教会で祈りを捧げるシスターの真似事をして、微動だにしなかったが、小さく、うん、と呟いた。
懺悔の嘆願は終わり、後は俗物的な塊の人間が鎮座する。
鯨は立ち上がると、使ったロウソクなどを仕舞い始める。後始末をし、帰るだけだ。
柚希の方を見ると、お祈りする為に口に咥えたぺろぺろキャンディーが抜けなくなり、四苦八苦していた。噛み砕くにも意外に固く、悪戦苦闘している。佐奈は見なかった事にして、鯨と一緒に後片付けを手伝った。
ドアを少し開け、辺りを伺い誰もいないのを確認する。コソ泥のように抜き足差し足で教室を出て、一目散に下駄箱に向かう。未だにキャンディーが抜けない柚希が、佐奈に助けを求めてきたので強引に抜いてやった。
「いっひゃ!? う~痛いよ~」
「はいはい、いいから黙って舐めてて」
「あーい」
抜けなくなった記憶はどこかに置いてきてしまったのか、それとも舌を出して舐めるのをはしたないと淑女の嗜みでも心得ているのか、涎を垂らしながらまた咥える。舐めきれば抜けるだろうと佐奈は放っておくことにした。雀の鳴き声を背景に、先を行く鯨の後を追う。
「……え?」
強烈な自然さで、不自然に違和感が襲ってきた。
メリーゴーランドに実際の馬を使い、背と腹を貫き血だらけの状態でありながらも、施設そのものとしては間違っていないような、そんな理不尽な奇妙さ。
前方を見れば鯨が階段へと向かっており、後ろを振り返れば柚希が抜けなくなったキャンディーと格闘している。なんらおかしいところはない。不自然さはなく、全くの自然。だが一度感じ取った異質はそう簡単に拭えず、今度は注意深く、人物以外を焦点に見渡す。変なモノは何もない。ちゅんちゅんと、清々しい朝を知らせる雀の鳴き声を聴覚が感じ取る。
異質さに異常さを。窓の外を見た。
世界は赤色に塗り潰されており、景色からは人の姿が消えている。
情景は何も映さず、その中で鳴き声が響く。
窓から見た外の中ではなく、窓を見る中の中から。
ちゅんちゅんと、雀の鳴き声が。
「く、鯨!」
声を荒げ前を行く鯨を呼び止めるが、建物の中で声が響き反響するにも関わらず、こちらの声が届いていないのか振り返らない。徐々に階段を降りていき、背が断続的に消えていく。慌てて後を追うも、背後から誰かが倒れる音が聞こえた。見ると、柚希が何もないところで転んでいた。何もない、足を引っかけるようなものなどない、廊下で。
まるで誰かが、足を掴んだために、転んでしまったように。
「いた~い」
腹を打ったのか、さすりながら起き上がる柚希は別段普通だった。足元を見るが、何も変わりはなく、ただ単に転んだだけのようだ。
「……何やってんの」
「う~さな~」
特に怪我もしていないようなので、佐奈は柚希を無視し、鯨の後を追う。階段を降りようと顔を覗かせた瞬間、硬直した。
眼前に広がる漆黒の螺旋階段。
豪奢な赤絨毯が敷かれ円状の階段が延々と、下りだけでなく上りにさえ存在しており、サメの歯を連想させる階段の数に形状が飲み込まんと、喉奥に凶悪な終焉が隠れていると認識させられる闇の腹。底が見えない、赤黒い闇。
「な……なに、これ……」
突然、学校の階段が中世に出てくるような豪華な階段に変質したことも驚きだが、それ以上に、階段の終わりが見えないことの方が恐怖を感じる。地獄へと続く階段、そう彷彿させるのに十分な威圧を伴っていた。
知らぬうちに、一歩後ずさる。驚異を感じ、脅威を感じた。ここから先は、足を踏み入れてはいけないところだと、知らなく解らないのに理解させられる。知恵がなくとも、知識が教えてくる。無理矢理頭の中に情報を突っ込まれた感覚。強引なダウンロード。ウィルスだと理解していても、止める手立てがない醜悪な悪意。本能どころの話じゃない。そんなモノはとっくに麻痺し、正常に作動していなかった。
「さな~? くじらちゃんいた~?」
浮ついた足元が、柚希の声で現実に戻され着地するも、事態の好転には繋がらない。
そうだ、鯨がこの階段を下って行ったのだ。助けに行かなくては。
頭では動けと、踏み出せと命令していた。心も早く行けと急かしている。それ以外の何かが、体の奥底にある何かが、佐奈を縫いとめていた。
汚く醜い、本性より赤裸々な根本。
動かない。動けない。動きたくない。吐息激しく、呼吸が苦しい。胸倉を掴み、自分を奮い立たせる。
怖くない、怖くない、怖くない、怖くない怖くない怖くない怖くない怖くない怖くない怖くない怖くない怖くない怖くない怖くない怖くない怖い。
一度意識してしまえば、後はどうすることもできなかった。恋心が止まらないのと同様に、恐怖心は体を蝕み支配していく。
足を、手を、胸を、頭を、脳を、神経を、想いを。淫らに斑に侵していく。
体中を舐り弄び、声なき悲鳴をあげさせられ、苦悩に苦悶する。階段を覗く位置からそれ以上、佐奈は一歩も踏み出すことができなくなっていた。その様子を見ていた柚希は、不審そうに背後から階段を覗き込む。
「どうしたの~? ん……すごーい、お城の階段、みたいだねぇ」
「う……うぁ……」
「……うぅ~でも、ここ恐いぃ……違う階段使おうよぉ」
柚希の言葉に、気づかさせられる。そうだ、この階段が使えないのなら、違う階段から行けばいいだけのこと。知らぬ間に飲まれていた。異質な状況により、正常な判断を狂わさせられた。鯨を助けたいという考えを降りたくないにすり替え、目的を助けるから降りるに置き換えた。結果を無視した過程の重視。何も解決に繋がらない決断であったが、佐奈はともかく柚希はそもそも付き合うつもりがなかったので、反対側の、もう一つの階段から降りるため移動する。
気が付くと、鯨は一人で階段を降りていた。振り返っても誰もおらず、しょうがないと階段を登り戻るが、そこには誰もいなかった。
「あれ?」
驚かせようと隠れているのかもしれないと思い、一応辺りを見渡すが、視界の中には見つけられなかった。儀式が終わったため、他の人に見つかっても心配はないのだが、それでも早く帰りたい気持ちがあった。いつもなら付き合ってもいいのだが、今日はさっさと一人で帰ってしまおうと、柚希は下駄箱を向かう。緊張していた為か、若干の疲労も覚えていた。
夕暮れに長く伸びる影を背景に、カラスの鳴き声が背後から聞こえる。
歩きながら考えることは想い人。果たして本当に効くのか、効くとしたらいつからだろうかと、不安と期待が入り混じった、複雑な感情を制御できず、表情に浮かんでは消えていた。朝登校してまず彼の姿を探すし、授業中ふとした時に目で追ってしまう。初恋ではないが、それでもここまで、人を好きなった事は、好きだと思い知らされた事は初めてだった。
だから、何としてでも、彼を振り向かせたい。それだけの情熱があるのなら、告白すればいい、と考えるのだが、どうしても断られた時の事を考えてしまう。否、断られるのが明白だからこそ、今はできない。
彼が好きなのは、佐奈なのだから、断られるのは当たり前だ。
友情と、恋慕の板挟みに苦しみながらも、少し想われている佐奈に対し嫉妬し、諦めるべきだと想い人に八つ当たり気味の言葉を口にしてしまう。
大事な友人であり、憎むべき恋敵。相容れない感情。
鯨は未だ、この気持ちを整理できずにいた。解決する為には佐奈がいなくならなければならない。佐奈がいるから、彼は鯨に振り向かない。だから鯨は『おまじない』にまで頼って、彼の心変わりを願ったのだ。悶々と思考の荒波に意識が飲まれていく中、鯨は延々と降りていく階段の不可思議さに、気づけない。
柚希は佐奈と一緒に別の階段から下に向かっていた。別の階段は当然、何の変哲もない普通の階段。螺旋階段は緊張による白昼夢だと思い込むことにした佐奈は、無言で歩き出す。柚希が道化を演じて佐奈に声をかけても、関心はもう一人の友人に向いているようで、おざなりな返答しかしない。次第に柚希も会話を諦め、黙って後を付いていくだけになった。
一緒にいるのに、いつも佐奈は柚希を見ずひとりになる。
いないのと一緒だと、柚希は理解していた。
柚希はバカな子だった。
柚希はアホな子だった。
会う人みんなに言われ、呆れ顔と苦笑を持って接してくる。
親からも、友からも、見知らぬ大人からもそのような扱いを受けていくうちに、気づいた。
自分はバカだから、バカじゃないとダメなんだ、と。
バカである事を強要させられる。アホである事を望まれる。
小学校の頃、テストでたまたま良い点を取ったことがあった。珍しく勉強したところが出て、上手い具合に覚えていた。褒めてもらえると幼いながらの純粋な感情に、決定的な傷跡を残したのは言うまでもなかった。
初めて見た高い点数を見て、喜んだのは柚希一人。
テストを返した教師はカンニングを疑い、点数で負けた友人は敵意を向けてきた。
両親は自分で点数を書き変えたのではと、信じようともしなかった。
誰にも信じてもらえない。
誰もが信じない。
彼らが信じるのは、柚希が『バカ』である事だけ。
柚希がバカであるうちは、誰もが呆れ、けれども優しくしてくれた。
『バカ』でない柚希には何の価値もなく、また意味も取り除かれる。
柚希は一人にならない為に、生きるため必死に『バカ』になった。
中学に上がりテストでは赤点ぎりぎりに調整し、わざと間違え正解にならないよう努力した。何も書かなければ教師は怒り、選択問題など、下手をしたら正解してしまうのを防ぐため、勉強し間違いを見つけていく。
庇護される為にバカになる。
柚希は自分の役割に気付いた。優越感を与え、安心感を与える事が、柚希に求められていることだと。
バカにされていくうち、『バカ』にも種類があることを理解する。本当の馬鹿は、人を不快にされる可能性を孕んでおり、柚希は思考し相手が求めている返答と態度、相手よりも劣っているところを述べるべきタイミングなど、必死に学習していった。
それはまさに、生物が生き残る為の手段。
外敵から身を守る為、長い世代で培われる進化の過程。
それを柚希は、たった一代で、たった数年で、成し遂げたのだ。
高校に上がる頃には、柚希は完璧に同年代の人心を理解していた。
こういうタイプの人間はこう言えば満足してくれる。
このタイプは反論しちゃダメで、こっちは適度に反論しないと満足しない。
人はある程度、仮面をつけ生きている。職場、家族、友人と、使い分けている。親しい人にしか見せない一面など、見せるべき相手を見定めて付け替えるのだ。それを、柚希は個人の単位で行っていた。
範囲を限定するのではなく、行為を最適化した。
職場だったら一人一人に合わせて。家族なら父親と母親と分けて。友人ならば個々に違いを出して。最初の頃、ストレスを感じてはいた。何故こんな事をしなくてはならないのだと、バカである事を強要させられなければならないのだと。ぶつけようのない苛立ちと、当たり前の不合理。中学の頃は、学校で笑い、家で笑い、一人で泣いていた。中学も終わりになる頃には、もう平気だった。簡単な事だった。心に穴を空ければいい。大きくなくていい、適度に流れ出るぽっかりとした穴があればいいのだ。ストレスが溜まるなら、漏れ出る穴があればいい。それからは驚くほど何も感じなくなった。仕事と同じだ。金銭を貰っているのだから、嫌な事でも耐えなければならない。思考するのではなく、理解すればいいだけの話になった。英語の文字列がどうしてappleがリンゴになるのか、AとPを繋げる意味は、Aにどんな意味が内包されているのかなど考えていたら、覚えることはできない。
生きる為の対価。
割り切ってしまえば、簡単。
「あれ?」
下駄箱についた佐奈が、不思議そうに辺りを見渡す。生徒の気配はなく、無人の廊下が冷気を片手に歩み寄ってくる。視界はすでに赤みを感知できなくなっており、漂うのは広がった闇の寒気だけ。鯨の靴を確認するとまだ残っており、校舎から出ていない。先に降りたはずの鯨が、いない。
「もしかして、引き返しちゃったのかな」
「ん~そうかもねぇ~どうするぅ?」
柚希は尋ねるが、佐奈の行動など手に取るように解る。佐奈は柚希よりも鯨が好きだ。一緒に帰るのなら、学校にいないのならともかく、いるのなら鯨と一緒に帰る。だから柚希は、都合よく使われる。「私、もっかい戻ってみる。柚希はここにいて、鯨が来たら連絡頂戴」
「あぃ~解ったよぉ」
柚希が返事を最後まで聞かず、佐奈は駆け足で来た道を戻っていった。
「……待ってるよ……バカみたいに」
心の重さに比例して、動かす足も速くなっていく。