2 お客様は、64万332円、支払いを延滞していますね
店主は大きく深呼吸した。まるでトライアスロンの最中であるかのように心臓が荒れ狂っている。
店主は落ち着かなかった。さながら、風俗と間違えて、教会に入ってしまったかのように、バツの悪い気分だった。
実際、店主は過去に、教会に入って悔い改めようとしたら、風俗に入ってしまったことがあった。アムステルダムでのことだ。あそこでは、教会の隣に風俗店があるのだ。
「いやはや……プライベートな電話が職場にかかってくるとは困りモノですな、ハナコさん」
店主は、ちょっとした不都合に出くわしたジェントルマンらしく溜息を漏らす。
助手の視線が痛い。
「……この電話、レディにはちょっと刺激が強そうなので、ハナコさん、少しコーヒーブレイクでもとってらしてはいかがかな?」
店主は、ふと思いついた口調で助手に勧めるが、
「レディじゃないので、お構いなく」
冷たい返事が返ってくる。
レディじゃなけりゃ、一体何なのだろう。店主は疑問に思った。
助手の視線が痛い。
「あの……ハナコさん、いつも頑張って働いていらっしゃるので、お給料をアップさせていただきたいのですが」
店主は申し出る。
「時給五千円」
助手がストレートな返事を返す。
「あの……時給三千円くらいで--」
「時給六千円」
「わかりました」
店主は同意した。
助手の鋭い視線がなくなり、店主は多少、楽に呼吸ができるようになる。
店主は気を取り直して保留ボタンを解除した。
「お待たせしました。ええと、何の話でしたっけ」
『請求です』
電話先のシモヤマは言った。
「請求!?」
店主の顔色が紫っぽくなる。
店主は、請求するのはともかく、されるのは大嫌いであった。
『ピンキー・パラダイスの会員登録の際の規約に基づきましてですね、登録料を速やかにお支払いしてくれないと、こちらもサーバー維持料とかで日割りで料金かかってきちゃうわけなんですよ。お客様の場合は、うわー! すごい日数、支払いを延滞しちゃってますねー! 四ヶ月前に登録されて、そのままにしておいたでしょ?』
「き、気になるお値段は?」
『64万332円ぴったしとなっていますね』
「64万!?」
店主がオクターブ高い声で叫ぶ。
『いいえ、64万332円です』
「日本円ですか? それとも、ジンバブエ--」
『ジンバブエで円を使っているわけないでしょう? ったく、頭悪いですね』
「ご、ごめんなさい」
店主は蒼白な顔で言いながら、下痢を我慢している人間のように上体を折り曲げる。
代行サービスというのは、高価なサービスであった。
「64万って……」
店主は助手へ目をやる。
助手が帳簿を開いて、何でも屋の今月のアガリを見せてくれる。
14万。純益ではない。ここからいろいろ引かれるのである。
店主の額に脂汗が浮いている。
「ちょっと、今は手元にお金が……月末ですし……」
『困りますねー。早急にお支払いいただかないと。こちらも、ねえ、ピンキー・パラダイス様からの信頼というものがありますし、あちらの方もサーバー維持とかが大変になっちゃっているんですよね』
「あわわわ……」
『このままお支払いいただけませんと、悪質未納者ということで、ブラックリストにのってしまうわけなんですよ。そしたら、大変なことになりますよ、タナカさん』
「ブ、ブラックリストですか。なんだか柔道の黒帯みたいで格好いいですね」
『いや、それはいいんですけど、とにかく早くお金を振り込んで欲しいのですよ!』
「いや、でも、急にそんな、大金……」
電話の向こうで心底疲れ果てたような溜息が吐かれた。
『分かりました、当社の方も可能な限りの譲歩をさせていただきましょう。ピンキー・パラダイス様の登録を解除する際に、サーバー会社さんのほうに直接お願いして情報を消してもらうんですね。そのデータ操作料金が、だいたい50万でできるのですね。仲介料が発生しないぶん、安くなるのです。本当はこういうことしちゃいけないんですけど、タナカさんの人柄を見込んで、ここは当社も清水のステージから飛び降りさせていただきます。お支払いいただくのは、だいたい50万でいいです』
「はあ」
だいたい50万? 随分な、どんぶり勘定だ。もしかしたら相手のシモヤマ氏はお金持ちなのかもしれない。だから、端数の小銭に興味なんかないのだろう。店主は頭の隅で思う。だが、今は払わなきゃならないお金が安くなったことが重要だった。
『これは人情的な値引きなんですよ、タナカさん。普通のお客様には絶対しないんですからね』
「ありがとうございます」
店主は感涙にむせび泣きながら、ぺこぺこと頭を下げた。
『では、これでいいですね。50万で解除の方の処理の方をさせていただきます』
「じゃ、わたくしは入金の方の実施の方をすればいいのですね」
店主の声が弾む。
14万も安くなった! 月収分浮いたわけだ! ついてる!
ふと我に返る。
助手が帳簿を示している。アガリの部分を蛍光ペンで強調してくれている。
アガリは14万。
「じ……実を言うと、50万も手元にないわけでして……」
『はあー!? 50万もないんですか? ったく、支払う気あるんですか?』
「ごっごっごご免なさい。家族親族駆け回って金集めてでもお支払いしたいのですが、親がいわゆる新興宗教にハマって、家財全部を寄付しちゃって--」
『あーはいはい、いいです。いい消費者金融紹介しましょう。三カ所も回れば、50万ぐらい、すぐ引っ張れますから』
シモヤマ氏は、良心的にも彼の馴染みの金貸しを教えてくれる。
電話は切れた。