(3)
無数の人の視線から逃れるために、ここまで必死に走ってきた大地は、はぁはぁと肩で息をしている。
その様子を、大地を助けたリーシェがじっと見ていた。
二人がいるのは、同じ造りでやけに目立っていた建物の一つである。その小さな家のとある部屋だった。綺麗に整頓された部屋の家具はやはり大地が普段使っているような物ではなくて、初めて見るような物が多くあった。
何よりも電球がない事に視線が行く。それでもカーテンを閉めている部屋は暗くなく、どこから明かりが来ているのだろうと思うほどだ。
二人がいるこの家は、リーシェの家だ。
家に入る際に、リーシェが「お母さんたちが出掛けてて良かったわ」と小さく零したのを、大地は聞いていた。
「助けてくれて、ありがとう」
ここはどこなんだろう、と改めて思いながら大地は感謝の気持ちを述べた。
「どういたしまして。私はリーシェよ。リーシェ・ウォルスあなたの名前は?」
「……工藤大地」
「……だいち? おかしな名前ね。ところで、あなたはなんであんな所でぼーっとしてたわけ?」
大地の名前を聞いて少し笑ったリーシェは、最初の疑問を大地に尋ねた。
「それが……」
大地は、言葉を詰まらせる。
自分の言葉を信じてくれるだろうか、という不安があったのだ。
「学校から帰ってたはずなんだけど、気が付いたらこの町にいて……」
「気が付いたら?」
「あ、あぁ」
ぎこちない返事を、大地は返した。
嘘や冗談を言っているつもりはないのだが、リーシェが信じてくれているのか分からなかったのだ。
「ふ~ん。見た事もない服着てるから、この国の人じゃないんだろうなってのは思ったけど。気が付いたら――、か」
どうやら信じてくれたみたいだ、と大地はほっとする。
しかし、リーシェが信じたということは、大地はやはり全く知らない場所に来ている事になった。
「ここはどこの国なんだ? 見た事もない場所ばっかで、自分がどこにいるのかも全然分からなくて」
少し泣きべそをかいたような声で、大地はリーシェに尋ねた。
「ここ? ここはエレナ王国よ」
「え、何だって?」
リーシェの声がよく聞き取れなくて、大地は聞き返す。
「だから、エレナ王国よ。それも知らないの?」
冗談が過ぎるわよ、というような表情をリーシェは見せてくる。
一方で、大地はリーシェから聞いた国名に疑問を感じていた。
(エレナ? 王国? そんな国あったっけ?)
エレナ王国という国名を、大地は聞いた事がなかった。
世界地図を思い浮かべても、そのような国はなかったはずだ。しかし、リーシェの言い間違いという事はないだろう。
「……エレナ王国?」
「そうよ」
本当に知らないの、とリーシェは大地に聞いた。
「あ、あぁ。聞いた事もない」
「どこの国の人でも聞いた事はあると思うんだけど」
記憶を失ってるのかしら、とリーシェは小声で呟く。それなら、気が付いたらこの町にいた、という事にも説明がつく、とリーシェは得心する。
その小声は大地には聞こえなかったが、リーシェが疑っている事は視線や表情で分かった。
(変なやつって思われた――かな)
「ごめん、本当に聞いた事がないんだ……」
真剣な表情で言葉を返す大地。
その様子を見て、リーシェは部屋の奥へと消えていった。
「……?」
いきなりリーシェが部屋の奥に行った事に、大地は不思議に思う。
何だろう、と疑問に感じていると、リーシェは何か大きな紙を持って戻ってきた。
「これを見て。ここがエレナ王国。今、あなたがいる所よ」
リーシェが木製のテーブルに広げたその紙は、地図だった。
どうやら世界地図のようだ。
しかし、地図には一つの大きな大陸が書かれているだけで、リーシェはその大陸の中央を指で示しているだけだ。
「これが……世界地図……?」
「……? そうよ。パンゲア、私たちが暮らしてる世界にたった一つの巨大大陸よ」
リーシェが持ってきた世界地図を見た大地は、あまりの驚きに表情を大きく変える。
(世界にたった一つの大陸!?)
そんな大陸は聞いた事がない。
大地が知っている世界には大陸が六つあって、その大陸に約二〇〇もの国がひしめきあっているものだ。たった一つしか大陸がなく、そこに七つの国しか存在していない世界に、大地は驚愕を隠せないでいた。
(こ、これは……俺の知ってる世界じゃない!? じゃあ、ここはどこなんだ……っ!?)
「どうしたの?」
そんな大地を見て、リーシェが心配する。大地が本当に記憶喪失なのではないか、と信じ始めているのだ。
「い、いや……」
この世界が、自分がいた世界だと分かっても、大地は納得が出来ない。
いきなり世界が変わったと思うよりも、これは夢なんだと自分に言い聞かせる事のほうがよっぽど簡単だった。
けど、
(意識もはっきりしてるし、これは夢じゃない……)
困惑している自分がいながら、そう冷静な判断も出来る自分がいた事に、大地は驚く。
「……こ、ここは俺がいた世界じゃないみたいなんだ……」
「……?」
大地の告白に、リーシェは首をかしげた。
「どういうこと?」
「そ、その、上手く言えないんだけど、見せてもらった地図を俺は知らない。俺が知ってる世界地図ってのはこんな感じなんだ」
そう言って、大地はパンゲアという大陸が載っている地図を裏返して、そこに自分が知っている世界の地図を書き始めた。
大地が紙の裏に地図を書いている間、リーシェはじっとその様子を見続けた。その表情は大地と同じように、次第に困惑したものへと変わっていく。
「これが、俺の知ってる世界だ」
大地が書きあげた世界地図は、先ほど見たパンゲアとはあまりに違う。
一つの大陸が大きく書かれていたパンゲアと違って、大地が書いた世界地図は隅に巨大な大陸があった。
「……これが、あなたが知ってる世界?」
「あ、あぁ」
「ごめんなさい。私は、この世界を知らないわ」
困惑した表情のままのリーシェは謝る。
その表情や声色から本当に知らないのだろう。そう思った大地はもう一つリーシェに尋ねた。
「地球っていうのも知らない?」
「ち、きゅう?」
(そ、そんな……っ!?)
今度こそ確信に変わった。
リーシェの反応を見て、大地はここが自分がいた国どころか地球ではない事も知る。となると、
(俺は国どころか世界も飛んだのか!?)
そう考えると、大地の口から笑いが出た。
国を越えただけなら、帰る方法は当然ある。しかし、世界を越えたという事になると、どうやって元の世界へ帰ればいいのか全く分からない。
パンゲアという巨大な大陸が書かれた地図を見て、大地はここが異世界なのだと初めて実感した。
「だ、大地……?」
いきなり奇妙に笑いだした大地を見て、リーシェは戸惑っている。その様子には気付かないで、大地は途方に暮れた。
「……世界を越えたなんて、どうやって元の世界に帰ればいいんだよ。……っ、はは――っ」
自虐が込められた笑いに、リーシェは背筋がゾクッとする。
見慣れた町で右往左往している人を見つけて親切心で助けた事が、これほど大きな問題を抱えている人だとは思わなかった。
大地がパンゲアやエレナ王国を知らないという事も、彼が書いた地図を見れば一目瞭然だ。そして、彼が書いた世界をリーシェは知らない。その事が、大地がパンゲアに何らかの方法で来たという事を表している。リーシェにはそのように思えた。
(けど、どうやって……?)
それはリーシェにも、もちろん大地にも分からなかった。
この世界の事を知っているリーシェは思い当たる節を探すが、どれも現実味がない。というよりも、そんな事が本当に出来るのだろうか、という疑問が先にあった。
それでも。
「……こっちに来れたって事は帰る方法もきっとあるって事よ。だから、探そう? あなたがいた世界に帰る方法を」
リーシェは笑顔を見せて、手をさしのばす。
いつもの親切心が大きな問題を呼びこんでしまった、とリーシェ本人も思う。しかし、項垂れている大地を見て、リーシェは放っておく事など到底出来なかった。
「……あ、ありがとう」
視線を上げた大地はリーシェを天使のように感じ、縋るようにその手を取った。