正美、ケンカする
「島田? 何してるんだ?」
訝しげな表情を保ったまま、彼はわたしの方へと歩み寄ってくる。
……困った。
今のわたしは、死んだ坂上くんの机の中を覗き込もうと身をかがめている女子、にしか見えないのだ。とっさにいい言い訳が見つかるはずもなく、慌てふためいたわたしは椅子を思い切り倒してしまった。動揺が次の動揺を運んでくる。完全なパニック状態だ。
「……どうした? そんなに慌てて」
「あ、いや、その……」
首を交互に振るのだが、それが何を意味しているのか、彼にはまったく分かっていないだろう。だって、わたしにも分からないだもん。
――た、助けて。坂上くん。
「え、僕?」
――あなたしかいないでしょ!
「そう怒鳴らなくても……」
――早く! 何か助言をちょうだい。
「素直に言っちゃえば?」
――「坂上くんの机を覗こうとしてました」って? そんなこと言えないわよ。
「何で?」
――だって……。
わたしはもう一度彼の目を見やった。真っ直ぐ、わたしのことをじっと睨んでいる。
安藤くん。安藤新一くんだ。
彼は坂上くんと仲が良かった。休み時間にはいつも話をしていたし、中学校も一緒らしい。とても気が合う様子だった。
坂上くん……たぶん、安藤くんのことも忘れちゃっているんだと思う。
言えないわよ。このクラスで、坂上くんがいなくなって一番悲しんでいるのは……きっと安藤くんだから。
――ふ、不謹慎な人だって思われちゃうでしょ。
「うーん……そっか」
――ほら、早くいい案を出して。
「……じゃあ、コンタクトを探してたってことにしたら?」
――こ、古典的ね。まあいいわ。この際、仕方がないわね。
わたしは息を大きく吸い込んだ。これから水に潜るみたいに。嘘を言ってる時の気分はいいものじゃないからね。一気に吐き出すように、わたしは言った。
「あ、あのね、安藤くん。コンタクトレンズをなくしちゃって、それを探してたのよ。誰かが来るとは思わなくてね、ちょっとビックリしちゃっただけ。あはは……」
「そ、そう。だったらいいんだけど……」
勢いに任せてまくし立てたわたしに圧倒されたのか、安藤くんはぎこちない様子でうなずいた。
しばらく沈黙が訪れる。遠くの方では、野球部が「オーッ」とか言ってる声が響いてるけど。
「……島田」安藤くんはつぶやいた。
「はい?」
「お前はさ……明るいよな。羨ましいよ」
え?
安藤くんは隙間風のようなため息を一つつくと、わたしに背を向けた。そして自分の机に向かうと、彼の荷物を肩に引っ掛けた。そのまま、安藤くんは教室を後にしようとドアに近付いてゆく。
「あの、安藤くん」
「何だ?」
彼は振り返ると、寂しさの滲んだ瞳をわたしに向けた。
わたしは言った。
「坂上くんって……どんな人だった?」
一瞬で、安藤くんは無表情になった。驚きもしない。動揺もしない。ただ、ぺらりと剥がれ落ちてしまったように表情を失った。
わたしは思った。本当に悲しい部分を突かれたときは、人ってこういう顔をするんだ。
しばらくの間、真空になったみたいな沈黙が訪れた。
「……それを聞いてどうするんだよ」
彼はようやく口を開く。
投げやりな、ため息のような口調だった。
「え……ちょっと気になって」
また沈黙。
そいて、安藤くんは淡々と言った。
「いい奴だったよ。断言できる。あんなにいい奴はいない。いつでも他人のことばかり考えて……損ばかりしてた」
彼はわたしに、またくるりと背を向けた。
そして、わたしではなく、黒板をただ見つめて、
「あいつが死ぬなんて、世の中は間違ってる……」そう言った。
………………
「ねえ、何であんなこと聞いたの?」
わたしは薄いオレンジ色に染まった通学路を歩く。脇に目をやると、わたしと同じように下校中の小学生がけらけらと笑いながら走り回っている。
――……安藤くんのことね。
「そうだよ」
坂上くんはきっかけさえあれば記憶を取り戻すことができる。だから、初めは忘れていた安藤くんのことも思い出したようだ。わたしの口から、彼の名前が出た瞬間に。
安藤くんを思い出したってことは……生前の坂上くんにとって、彼がどんな存在であったのか、それも思い出したことになる。
だから……、
「安藤にあんなこと聞くなんて、いくら何でも非常識じゃないのかな」
――おっしゃる通りです。
「だったら、どうしてあんなこと言ったのさ」
――だってわたし……なんにも知らないんだもん。
「へっ?」
――坂上くんのこと。わたしは一つも知らないのよ。わたしが知ってる“坂上くん”は、こうやってわたしに取り憑いたあとの坂上くんなんだもん。
「それで、知りたくなったから聞いたってこと?」
――そうよ。悪い?
あの時、本当に無意識のうちに口に出てしまったのだ。
坂上くんって、どんな人だった? と。
「あは、開き直り?」
――開き直ってなんかないわよ。
「そういうのを開き直りって言うんだよ」
――そんなんじゃないって言ってるでしょ!
わたしの近くでじゃれあっていた男の子たちが、びくりと身をすくめてわたしを見つめた。
どうやら、声に出して叫んでしまったようだ。カッと顔が赤くなる。
「……どうしたのさ」
――どうもこうもないわ。
「うーん、なんか機嫌が悪いみたいだね」
――そ、そんなことない。
「僕、少し邪魔みたいだ。それじゃ、またね」
――え? さ、坂上くん?
坂上くんの気配はふっと消えてしまった。
冬の朝、吐いた白い息が見えなくなってしまうように、あっけなく。