正美、放課後になる
放課後となった。六限ある時間割を全てこなし、わたしは学業の鎖から解放されることとなったのだ。
相も変わらず、教室の中の空気は沈んでいた。飛び交う言葉も少なく、笑顔などはほとんど見られなかった。
特に会話もなく、生徒たちはそれぞれの場所へと散ってゆく。
重い空気を除けば、いつもの放課後の風景だ。部活をしてる人は部活の集まりへ。委員会に所属してる人は委員会へ。そして、何も予定もなく暇を持て余している人――ていうか、わたしのことだね――はぶらぶらしながら自宅へと。そうして、また明日の朝に会うまでみんな違った生き方をすることになる。
結局、佳奈は学校を全部サボった。気分屋な彼女のことだ、明日も来ないかもしれない。
ひとけがまばらになってゆく教室の風景を眺めながら、わたしは合い言葉をつぶやいた。
「本日は?」
「晴天なり」
と言っても、もう西日が傾き掛けているけどね。これから秋が深まると、あっという間に夕暮れになっちゃうようになる。
――何か久しぶりね、坂上くん。
「うん、結局は朝から話さなかったね」
――そうね。体育とかあったし……わたし気付いたわ、授業っていろいろ忙しいのね。今更だけど。
「普段はぼうっとしてるからじゃないの?」
――失礼ね、違うわよ。
「あはは。まあ、僕の方は何かあっという間だったな」
――そうなの?
「うん、島田さんと話してないと……時間の流れが急になるような気がするんだよ」
――確かに、することがないもんね。
「そうなんだよね」
――どうなの? その時の坂上くんの状況は。
「うーん……ホントになんにもなく時間が早送りになる感じ、かな」
――ふむ。
「ほら、強く意識しないと周りの情報が入ってこないんだよ。強く意識しすぎちゃうと、島田さんの心の中まで入り込んじゃうから気を付けないとだけど」
――じゃ、なるべく話をしましょうよ。
「え? 別にいいけど……」
――何か疑問でも?
「い、いや、疑問ってわけじゃないけど」
――ほら、坂上くんのためよ。
「僕のため?」
――坂上くんが“坂上くん”でいられるのは、この時間だけなんだから。わたしと会話をしてる時だけ、ね。
「……そうか。そうだね」
そう言うと、坂上くんは一つため息をついた。そのため息が何を意味してるのか分からなかったけど、わたしは何故か寂しい気分になってしまっていた。
もうすぐ夕方がやってくる。そんなことを予感させる冷たい風が、窓からわたしの髪の毛を揺すっていた。秋の夕暮れって本当に物寂しい。昔の人がよく歌に詠むわけも、少し分かる気がした。
「正美ちゃん、じゃあね」
思わず、わたしは軽く上下に揺れた。意表を突かれたとはこのことだ。ぼうっと窓の方へ思いを馳せていたら、真っ直ぐな彼女の声がわたしの無防備な心を揺さぶったのだ。
「あ、うん、じゃね」
「今日はずーっとぼうっとしてたね? やっぱり変よ」
そう言い残して千里は教室を後にしてしまった。別れ際に言うセリフがそれですかい……。わたしは苦笑いを浮かべた。
千里はテニス部に所属している。スカッと爽やかな彼女にぴったりのイメージだ。
わたしはまた教室を見渡す。みんなの足がいつもより早い。いつもならぐだぐだと男子も女子も談笑しているのに、今日は逃げるようにいなくなってしまった。まあ無理もないか。
そんなこんなで、教室の中はついにわたし一人になった。でも、実は狙ってたりして。
――ねえ、これで調査ができるわよ。坂上くんの机。
「あ、だから帰らなかったのか」
――わたしもいろいろと考えてるでしょ?
よし、わたしは意を決して立ち上がった。目指すは窓側の机。同じ教室の中、距離にしたら半径十メートルくらいだろうか。今日はとても遠く見えた。白い菊。それ以外、何もない。
――坂上くんの荷物は……やっぱりないわよね。
「うん、ないね」
――親御さんが持っていったんでしょうね。
「そうだね」
――そう言えば、親御さんについては何か思い出さない?
「うーん……残念ながら」
まあ、無理もないことだと思った。わたし今まで、彼の両親に繋がるような情報には触れていない。
坂上くんの記憶探しは、地面に埋まった野菜を掘る作業に似ている。ちょっとでも顔が見えていれば――きっかけさえあれば、すぐ掘り起こすことができる。でもこれがないと、掘り出しようがない。
――ゆっくり思い出しましょ。特に……家族みたいに大切な人たちはね。
「大切な人……大切だった人、だね」
――……あ、ごめん。
坂上くんの声は、悲しそうになってしまった。
「ううん、別にそういう意味じゃないけど」
わたしは少しの疑問を覚え始めていた。坂上くん、どうかしたのかしら? あの、脳天気で楽天家の坂上くんじゃないみたいだよ。
「ごめんごめん、なんか変だよね。僕」
――変ってわけじゃないけど……。
「あはは、気にしないで」
――ま、まあ坂上くんがそう言うなら。
「それよりも、何か僕の痕跡は残ってないのかな?」
――ちょっと待ってね。
坂上くんにそう言われ、わたしは机の中を調べることにした。彼の言う通り、もしかして何か残っているかもしれない。
わたしが机の中を覗き込もうと腰をかがめた、まさにその刹那だった。
「何やってるんだよ?」
突然響いた男の人の声に、わたしの心臓はきゅっと縮まった。