正美、教室へゆく
少し間が空いてしまいました。評価をしていただけるとありがたいですw
さて、教室のドアを開けてまず驚いた。坂上くんの席って、窓側の列の前から三番目なんだけど、いつもだったら全然分からない――てか気にもとめない。
でも、今日は違った。教室の中に入るなり、あれが坂上くんの席なんだとすぐに分かった。
花瓶が置いてあるのだ。白い菊の花。
「本日は?」
「晴天なり」
――とうとう来たわね、教室。
「うん、そうだね」
――分かる? あれが坂上くんのいつも座ってた席よ。
「……うん、何となくそんな気がする」
――ちょっと近寄ってみる?
「何だか怖いな」
――あはは、怖じ気づいてどうするのよ。
「この教室の風景にも見覚えがあるよ」
――だんだんと記憶が蘇ってきたのね。
取りあえず、わたしは自分の席に着くことにした。まあカバンを持ったままダイレクトであの花瓶のある席に向かったら、みんなに何て思われるか分からない。
わたしは座り慣れた椅子へと腰掛ける。そう言えば学校の椅子って、みんな同じに作ってあるはずなのに、何故か自分の椅子じゃないとしっくりこなくなってくるのよね。どうしてかしら。
わたしがカバンを脇に掛け終わると、後ろの席から声が掛かった。
「正美ちゃん、おはよう」
「おはよう」
彼女は、わたしの友人の一人。名前は……。
あ、そうだ、テストに使っちゃお。
「本日は?」
「え、何?」
「あ、なんでもないの。あはは……」
笑って誤魔化すわたし。佳奈の時と同じだ。
「晴天なり」
坂上くんの声が聞こえたので、わたしは苦笑いをやめた。
「島田さん、合い言葉を挟むタイミングが下手だね。これじゃ合い言葉を決めた意味がないじゃん」
――う、うるさいわよ。
「アレだね。思ったことはすぐやっちゃうタイプでしょ?」
――そ、そんなことないもん。
でも実際のところ、図星かも。
「まあいいや。で、何の用? だいたいの想像は付くけどね」
――この子のことは覚えてる?
わたしは両肘を机に置いている彼女をちらりと見た。佳奈ほど派手じゃないけど、暗い子じゃない。むしろリーダーシップがあって、はきはきと物事を言える人間だ。家庭科で使う裁ちバサミみたいに、何でもザックリと切れる性格。
「……うーん、ごめん」
――謝ることないわよ。けど……。
「けど?」
――坂上くんって、女の子苦手だった?
「ぐふ! なにゆえに?」
――あんまり覚えてないから、佳奈のことも、千里のことも。
彼女は、名を浜松千里という。
「に、苦手じゃなかったと思うけど……」
――ふふふ、冗談よ。わたしだって、男子のことは何も分かんないもん。
「そ、そっか、冗談か」
――あれ? 意外と真に受けちゃったってことは……もしかして気にしてたのかもね。
「ねえ、正美ちゃん?」
ビクッとわたしは身をすくめた。どうやらわたしには反省というものが欠けているようだ。また坂上くんとの話で我を忘れていた。
千里から見れば、自分との話の途中であさっての方向を向いて、しかも薄気味悪く微笑んでいる人にしか見えないだろう。
「は、はい! 何でありましょう」
「どうしたの? 何ていうか……その」
前述したとおり、千里は何でも真っ直ぐに示してくれる。変化球を知らないのだ。
「変だよ?」
う、言われてしまった。弓道みたいにストーンと的を射抜かれてしまう。
「そ、そうかな?」
「うん、変」
千里は今日も長い髪の毛を後ろで束ねている。短くするとボーイッシュに見えるからいやなんだって。わたしは、そっちの方が彼女には似合ってると思うけどね。
「どうしたの?」
「あ、いや……何でもないの」
実は幽霊が取り憑いちゃってね、その幽霊とお話をしてたのよ。
わたしがそんなことを言ったとして、わたしのことをもっと変だと思わない人はいない。きっといない。しかも千里だし。誤魔化すしかないのだ。
「まあ……普通でいろって方が無理だけどさ」
千里は教室をぐるっと見回した。つられてわたしも見る。
その雰囲気は、この前のお葬式の雰囲気を引きずっているかのように沈んでいた。普段なら女子も男子もペチャクチャと話をする声が聞こえてくるのに、今日はそんなことが許されるような環境ではなかった。なるほど、佳奈が来たくなくなるのもうなずける。先生が来る前なのに全員が着席してるなんて、初めて見る光景だ。
「正美ちゃんだけニヤニヤしてて……変よ?」
「う……」
坂上くんに言われた通りだ。
素直にしまったと思う反面、何でも坂上くんの言った通りになるのが悔しい気持ちも湧いてくる。わたしは自分のことを、本当にひねくれてるな、と思う。
「あ、ごめんね……わたし、不謹慎だったわよね」
千里はフッと口元を緩める。
「まあ、わたしに謝られてもしょうがないけど」
それもそうだけど。
千里は頬杖を付き、小さなため息を一つ吐き出した。
「やっぱり嫌なものね……一人でもクラスメイトがいなくなるのって。そんなことは当たり前のはずなんだけど、実際に起こってみるまで分からなかったわ」
たぶん、それは全てのクラスメイトが感じていることだろう。
わたしはもう一度坂上くんの机の方へと目をやる。窓側の列の坂上くんの机。朝日が窓から射し込んで、例の花瓶がつやつやと輝いていた。
「あの花……」ふと、わたしは疑問を覚えた。
「ん?」
「誰が置いたのかしら?」
素朴な疑問だった。
千里はまた表情を崩す。
「わたしが用意したの」
「え、千里が?」
「何となくそんな気になってね。まあ、一応先生にも相談したけど。喜んでたわよ、シバセン」
千里はこういうことによく気付く。しかも彼女には行動力が伴っている。
わたしだったらどうだろうか? 自分を少し遠くから見てみると、そこには情けない自分しかいなかった。たぶん、何もしないままで残った月日を過ごしていただろう。坂上くんとは、わたしにとってそういった存在だったのだ。
もう一度、わたしは花瓶を見てみた。真っ白い――汚れのないその花びらは、死者の清らかな安らぎを祈っているようにも見える。
そう、生きている人間のすることは、死んでしまった人間の安眠を願うことなのだ。そんなことを思ったら、坂上くんに対する気持ちも変わる気がしてきた。わたしの中から早く出ていって、と思うよりも、彼が早く安らかになれますように、と思った方がいいに決まってるのだ。
わたしがそんなことを考えていると、教室の前のドアが静かに開いた。
教室の中へのそっと入ってきたのは、我らが担任教師の柴原先生だ。本名を柴原毅と言い、180センチ以上の巨体の持ち主だ。高校時代は柔道でけっこう有名な選手だったらしい。だが、性格にちょっと難がある。堂々としてれば威厳は勝手に付いてくるのに、いろんなことにやたらおどおどしている。暴力も嫌いと言っていたし、声も小さい。ただ、根がいい人なので、生徒からの信頼はけっこうある。みんなから“シバセン”と呼ばれてるのも、親しみの証拠だ。
「みんな……おはよう」
心なしか、今日のシバセンはやつれているようにも見えた。いつものつやつやのほっぺも、潤いをなくしている。
教壇の上でクラスを見渡すシバセン。
またしても、教室の中の空気は張り詰めていた。
「今日は、よく登校してくれたね」
あ、一人サボってます。
「何て言ったらいいのかな……僕も正直、ビックリしたとしか言えないよ。教師になって五年目になるけど、こんなことは初めてだから」
シバセンはうつむきながら語る。象のようなその瞳には、もう涙が潤んでいた。クラスの神妙な雰囲気はさらに加速される。何人化の女子は、鼻をすするような音を立てていた。
「でも、それだけじゃ駄目だよな。坂上のためにも……僕たちは何をするべきか考えよう。何かあったら、いつでも相談してくれ。みんなの悲しみは、先生も一緒に感じてるから」
顔を上げるシバセン。
「さて、じゃあ……いつまでもこんな調子ではいられないからな」
ずずっと鼻をすすると、シバセンは瞳をごしごし擦った。そして黒い出席簿を開き、出席を取り始めた。出席番号1番の男子の名を呼ぶ。安藤くんが、湿った声で返事をした。
………………
――どう? 坂上くん。
廊下にて。わたしは窓の外をぼうっと眺めている。真っ青な青空。理科の実験で先生が硫酸銅水溶液を見せてくれたことがあったけど、ちょうど同じような色をしている。その空に浮かんで、小さな雲が漂っている。海を進む小舟のように。
「うーむ、実はけっこう思い出してきたりして」
――お、やったじゃない。
わたしが廊下に出たのには理由がある。
一つは、佳奈と同じ理由。あのような雰囲気には、やっぱり耐えられない。
もう一つは、坂上くんと話をするため。わたしの、坂上くんと会話をしてる顔を他の人に見られるのは厳しい。何だあいつ? と思われてしまうだろう。まるで、禁煙スペースから逃げるヘビースモーカーの気分だ。取りあえず、窓を向いてればどんな顔をしてても問題ないはず。
「シバセン、いたね」
――うん。
「あんな熊みたいな人は忘れられないよ」
――あはは、怒られるわよ。
「うーん……でも、いいこと言ってた。僕は感動しちゃったよ」
――わたしも。シバセンのこと、ちょっと見直しちゃった。もっと頼りない人だと思ってたけど。
「だけどさ、何か複雑な気分だよ。当の僕があんな話を聞いちゃうとね」
――それもそうね。
「どんなリアクションすればいいのか分からないね。まさしく別世界のことなんだな、て実感しちゃったよ」
そうなんだね。坂上くんがいるべき場所は、この世界でないのだ。わたしと変な形で繋がってしまっているものの、こっちの世界へは干渉できない。坂上くんが大声で叫んだとしても、それはわたしの心にしか響かないのだ。
そして、わたしも同じような事態が起きている。
坂上くんとこの世を結ぶ中間地点となってしまったわたしは、坂上くんの死を千里やシバセンのようには感じられない。
そう、わたしもまた、彼女たちとは違う世界を生きているような気分になっているのだ。
「でもさ、予想はしてたけど」
――うん。
「みんな、暗いね」
――そ、そりゃそうよ。
今更ながら、坂上くんって、何かが足りてないような気がする。気の所為なのかもしれないけど、感覚がズレてるような感じが否めないのだ。
もっとも、わたしは生前の坂上くんをほとんど知らないし、それ以前に、対象比較のしようがない。自分の死について周囲が悲しんでいる時にどういう反応をするべきなのか、を。
――人が死ぬっていうのはそういうことなのよ。
「うーむ、ずいぶんと上から語るね」
――何よそれ。嫌み?
「そうじゃないけどさ」
坂上くんがわたしの中にやって来てから、今までこんなムードになったことはなかった。わたしと坂上くんの意見がぶつかり合っているのを感じる。
でも、坂上くんが何をこだわってるのか、わたしにはおぼろげながら分かる気がした。
今のわたしが気に掛かっているのは、坂上くんのひょうひょうとした態度。だけど、坂上くんにとってはそれが普通の神経なのだ。現世と切り離された坂上くんにとって見れば、みんなの落ち込んだ様子はなんにも心に響かない。それは坂上くんにまだ意識があるから、とかそういう理由じゃなくて、もっと深い意味で。
もう別世界のこととなってしまったから、関わり合おうという意識が枯れてしまったのだ。
……人が死ぬっていうのは、そういうことだから。
「ん、まあいいや」
――ケンカしても始まらないしね。
死んでもいなのに、わたしは坂上くんの気持ちが分かる気がする。坂上くんの言う通り、わたしたちはやっぱり気が合うのかもしれない。分かってるから、むしろ、わたしの意見との衝突が起きてしまうのだ。わたしは、坂上くんとの立場が違うから。
「で、これからどうする?」
――うーん、どうしましょうね。行動を起こすには早すぎる気がするけど。
「そうなんだよね」
ショックから立ち直るのに、数日という時間は短すぎる。今のみんなの心は、飴細工のようにもろくなっているのだ。こんな状況で、生前の坂上くんのことを根ほり葉ほり聞かれたら、誰だって不快に思ってしまうだろう。
――聞き込み調査は、まだ自粛ね。
「それがいいと思う」
――今わたしたちがすることは、坂上くんの落とし物を一つでも多く探すことね。どんな小さなことでも、何に繋がってるか分からないからね。
ここでわたしは変なことを思い出してしまった。
この前に見たテレビ番組で、マジシャンがマジックをしていた。彼はいろんな色のハンカチをパッと消してしまい、それをポケットの切れ端から一気に取り出した。いつの間にか結ばれていた七色のハンカチの先からは、万国旗まで飛び出してきた。
あんな風に、坂上くんの記憶も一気に出てくればいいのに。
――じゃ、そろそろ教室に戻らないと。
「うん」
――何か思い出したら言ってね。どんなささいなことでもいいから。
「分かったよ」
坂上くんに別れを告げ、わたしは教室のドアをくぐった。空気が湿った空間にわたしは身を投じる。相変わらず雰囲気が重い。黒いもやが浮かんで見えるようだ。
もう少し明るくしたら? なんて言ったら、きっと軽蔑されてしまうだろう。
わたしだけが知っていてみんなが知らないことなんだから仕方ないんだけど、やっぱりそんなことを思ってしまう。
でもね、ほんのちょっとだけは晴れ間があってもいいんじゃないかな。曇り空じゃ、心が暗くなるばかりだよ。
ね、本日はこんなに晴天なんだからさ。