「正美、慌てる」
――ほら、学校が見えてきたわよ。
わたしは前方を指差す。
両側に住宅街を臨む先には、わたしが通う高校――私立明日葉高校がそびえ立っていた。最近設立された新設校なのだが、別に超進学校ってわけでもスポーツに力を入れてるってわけでもない。平凡でなんにもないわたしの生き方を象徴してるような学校……。あ、こんなこと言っちゃうと失礼かな。良いところもたくさんあるのよ? ほら、家から近いとか。
――じゃあ、また質問ね。坂上くんが通っていた高校の名前は?
「分かった、明日葉高校だ」
――お、正解。
「やった」
ここまで至る道のりで、わたしはいくつも坂上くんに質問をした。
そして分かったことは、坂上くんが覚えてる記憶と覚えていない記憶との境界線が曖昧だということだった。日本の首都は覚えていないのに、埼玉県の県庁所在地は覚えていた。担任の先生の名前は分からなかったけど、数学担当の教師については、奥さんの名前まで覚えている。
今の高校名も加えると、正解率は30%くらいだろうか。野球の打率くらいだ。
――教室に行ったら、もっと多くのことを思い出すかもね。
「そだね」
――思えば……わたしたちがこれから歩こうとしてるのは、坂上くんがかつて歩いていた道なのよ。だから、坂上くんの落とし物がいっぱい見つかるはず。きっとね。
「なるほど。なんだか楽しみだ」
――あはは。教室に行けばクラスメイトにも会えるわよ。坂上くんの未練の引き出しを開ける鍵、もしかしたら誰かが持ってるかもしれないわね。
「それを願いたいね……。あ、あとさ、島田さん」
――ん? 何?
「えーっとね、なんて言うか……」
――どうしたの? 何か言いづらそうね。
「こう言うのも変だけど、島田さんがあんまり明るいとさ……みんな戸惑うんじゃないかな?」
――え?
ちょっと考えてわたしは気付いた。
鏡を見なくても分かる。今のわたしの表情は、とても3日前にクラスメイトを失った女の子のものではないだろう。
坂上くんがわたしの中にやってきてからずっと忘れていたけど、坂上くんは死んでしまったんだ。
――なるほどね、みんなへの配慮も考えなくちゃ。
「そうそう。……ま、当の本人の僕が言うのも変だけどね。『坂上くんが死んじゃったんだから、もっと慎む態度でいなさいよ』って」
――あはは、坂上くんの所為よ。わたしが笑っちゃうのは。
「そっか。やっぱり僕たち、変なコンビだね」
――改めてそう思うわ。
わたしが苦笑いを浮かべていたとき、向こうの方で手を振っている女子生徒がいるのに気付いた。
――ほら、さっそくお出ましよ。鍵を持ってるかもしれない候補者がね。
わたしは彼女の元へと走り寄る。校門のところでわたしを待っている。
吉崎佳奈。ウェーブ掛かった茶髪は今日も健在だった。どこにでもいそうな、いわゆる今時の女子高生。ただ、ひとくくりにされるのは大嫌いらしい。わたしにはそれがどうしても分かんない。みんなが持ってるものとか、流行ってるものが大好きなのにね。
「正美、おはよ」彼女はスーパーボールが弾むような口調で言った。
「おはよ」
「ねー、ビックリしちゃったよね」
たぶん坂上くんのことだろう。
「う、うん」
「なんてゆーか、まー、ね」
「何?」
「んー、何でもない」
いつも思うんだけど、ホントにこの子との会話には脈絡がない。まあ、複雑な心境は分からなくもないけど。
「本日は……」
「へ?」
わたしのつぶやきに、佳奈は虚を突かれたような顔をする。
「ん、何でもないの」
あなたに対して言ったんじゃないから。
佳奈はまだ解せない表情をしている。
「……晴天なり」少し遅れて、坂上くんの声が聞こえた。
――坂上くん? いますかー?
「ちゃんといるよ」
――いつもより返事が遅かったから。
「だって、島田さん他の人と話してたからさ、僕に振られるなんて思わなかったんだよ」
――冗談よ、冗談。
「で、何の用?」
――うん、この子のこと。わたしの目の前にいる彼女のこと、覚えてる?
「知ってる。吉崎さんだ」
――意外。
「と言うか、昨日のうちに思い出しちゃったんだよね」
――あ、そっか。
わたしは思い出した。昨日の会話の中に、佳奈の名前も出ていたんだ。思えば、坂上くんがわたしの中に入り込んでしまった原因の一つに――今の段階では坂上くんの憶測だけど――彼女がいた。佳奈が葬儀の場で「正美!」と大きな声で呼んだ所為で、坂上くんの魂はわたしを居場所だと勘違いしてしまったのだ。そしてそのあと、坂上くんは記憶のほとんどを無くしてしまった……。
――どう? 彼女を見て何か思い出さない?
「うーん……。吉崎さんとはあまり話さなかったしな……」
――それはわたしたちも同じでしょ?
「そうなんだよね」
不意に、わたしは肩を叩かれてしまった。
「ねえ、正美ってば」
――あ、じゃあちょっと待ってて。
「了解」
わたしは佳奈の方へと向き直る。自分では意識してないうちに、彼女に横顔を向けていたらしい。そこでは、佳奈が不審そうな目つきでわたしを見つめていた。
「あ、どうしたの?」
「どうしたもこうしたもないわよ」
佳奈は不機嫌そうな表情になっていた。高校球児よりも焼けた――正確には、焼いた、か――小麦色の肌。長いまつげ。目元にも軽くシャドーが乗っている。スッピンのわたしの顔を横に並べると、やっぱり化粧をした彼女の方が大人っぽく見える。でも、佳奈が化粧を落とすと、それはそれで垢抜けた感じになって大人びて見えるのだ。不思議。
「急にそっぽ向いちゃって。ぼうっと空なんか見上げちゃってさ」
「え、ホント?」
「マ、ジ、で」
きっと坂上くんと会話をしてた所為だろう。心の中の声を聞くのに必死になって、どうやら外っつらはおろそかになってしまうようだ、わたしは。
そう言えば坂上くんと話してる時に第三者がいるなんて状況は初めてだ。また一つ、発見をすることができた。坂上くんと話すとき、わたしは自然に上を向いてしまうらしい。
ほら、なんとなく幽霊って浮いてるイメージがあるじゃない? その所為かもしれないわね。
「んー、まあ、それはいいとして」
「うん」
「シバセンに言っといて。あたし、保健室にいますって」
「何よ、またサボり?」
シバセンとは、うちらの担任の柴原先生のこと。決して、司馬遷ではない。
で、佳奈のサボり。口実はいつもこれだ。
「だってさ……ヤじゃん。正美はヤじゃないの?」
「へ? 何が?」
「あんたってホントいい性格よね」佳奈は呆れたように苦笑いを浮かべた。
「だから、何よ?」
ちょっとムッとしたわたし。ほっぺを膨らましてみる。坂上くんによく「面白い」と言われちゃうのも、少しは影響していたのだろう。
「雰囲気よ、雰囲気。あたしみたいに繊細な人は耐えられないの」
「何の雰囲気よ?」
「まだ分からないの? 坂上くんが――」
そう言いかけて、佳奈はやめた。
わたしの表情がハッと上下に広がるのを見たのだろう。
「そ、そっか」
「……インイン、メツメツってやつ? 駄目なのよ、あたし。おとといのお葬式もヤバかった」
確かに、彼女とああいったしめやかな雰囲気とはまさに水と油だ。でも、繊細とはちょっと違う気もするけどね。
「てなわけで、気が向いたら顔出すから。じゃ〜ね〜」
佳奈は校門からどこか別の方向へと走り出してしまった。もう夏も終わり秋の入り口に差し掛かろうとしているのに、彼女のスカートは一向に長くなる気配がない。それでも、あんなに大股で走っているのに……見えない。うまい、とわたしは感心する。
てなわけで、一人の知り合いが台風のように過ぎ去っていった。校門の前、ぽつんと残されるわたし。
そして、つぶやく。
「本日は?」
今度はさっきよりも早く、
「晴天なり」坂上くんが反応してくれた。
――あ、くると思ってた?
「そりゃ、ね」
――声に出した言葉は聞こえるんだもんね。
「うん、何となくだけどね」
――あ、何となくなんだ。
「えーっと……島田さんの声はやかましいくらい聞こえる」
――失礼ね。
むしろ、声がばかでかいのは佳奈の方なのに。
「吉崎さんの声は、やっぱり何となくだったな。お風呂の中から話してるみたいな」
――なるほどね。わたしと坂上くんは、心が通じ合ってる分だけよく聞こえるのかしら。
少し考えて、わたしはとんでもなく変なことを言っちゃった気がした。
――あ、いや、そういう意味じゃないのよ? なんてゆーか……その、ね。
「あはは、どうして慌てるのさ?」
――あ、べ、別に、慌ててなんかないわよ。
たはは、これは困ったと思った。心の中の会話って、思ったことがそのまま相手に伝わっちゃう。わたしを一つの工場としてたとえるなら、製品のチェックなしで出荷されてしまうのだ。
「ん、まあいいけどね。現に、僕と島田さんは心で通じ合ってるわけだし」
――ん、んー、まあ、そうだけど、そうだけどね。
「だったらどうして腑に落ちないような表情してるの?」
――だ、だって……。
それってなんか、恋人同士みたいじゃない。