「正美、登校する」
朝になった。今日は月曜日。今日から学校が始まる。
月曜の朝、目覚めの時。一週間の中で一番気が滅入る瞬間だ。
わたしはゆっくりと起き上がる。そして大きなあくびを一つ。二つの瞳に涙がたまって、視界が雨の日の窓ガラスのように滲んで見えた。
ベッドから立ち上がり、カーテンを開ける。すると、とっさに差し込んでくる朝の光。体温がじわっと暖められる感じがした。
今日も朝からいい天気。
「本日は……」わたしはつぶやく。
すると、待ってましたと言わんばかりに、
「晴天なり」
わたしの心は、彼の声によって軽く振動した。
心の中で、わたしも彼に言葉を投げ返す。
――おはよ、坂上くん。
「おはよう」
――いよいよね、学校へ行くの。
「そうだね」
――どう? 何か感想はある?
「感想といわれてもね……」
――まあ、複雑な気分ってところね。
「そうだね。まあ初めてのことだから、死んじゃうのって」
――ははは、坂上くんらしい意見ね。
「そうかな?」
わたしはクローゼットを開き、制服をハンガーごと取り出した。
そして、パジャマのボタンに手を掛ける……。
――じゃあ、今からプライベートね。
「了解」
それっきり、坂上くんの声はしなくなった。
これは昨日のうちに決めておいた約束。
わたしがお風呂に入る時、トイレに行く時、そして着替える時――これが大問題であることに気付いたのは、夜になってからだった。
我ながら間抜けだった。いくら姿が見えないからと言っても、声が聞こえる人にそれらの様子を見られるのは耐え難い。そりゃ、わたしだってお年頃の女の子ですもの。
さて、どうしよう。
そう考えたときに役立ったのは、例の合い言葉だった。
どうやら坂上くんは、強く意識をしないとわたしの声も姿も分からないらしい。だから悪いけど、わたしが“プライベート”な時は意識を消していてもらおう。そういうことになったのだ。
わたしは着替えを終了する。
ただの寝ぼけた島田正美から、明日葉高校2年3組24番島田正美へと変貌を遂げたのだ。なんちゃって。
ここで登場するのが、合い言葉。
「本日は……」
ややあって、
「晴天なり」坂上くんの声。
――はい、お待ちどおさま。
「いやいや、たいして待ってないよ」
――いやね、形式上よ、形式上。
「何だ」
――わたしが気を遣わなくちゃいけないなんて、そんな不条理なことはないでしょ?
「それもそうだね」
わたしは部屋のドアを開ける。
いつものドア。
今まで何百回と開けたドア。
でも、今日は違う。
だって、坂上くんと一緒に開ける、初めてのドアだから。
「……何か詩的な表現だね」
――うるさい。
………………
わたしは支度を済ませて家を出た。玄関を出るとき、お母さんが珍しく表まで見送ってくれた。今日に限ってどうしたのかな、って思ったけど、お母さんの言葉を聞いてすぐに納得することができた。
「正美……何て言ったらいいのか分からないけど、あまり気にしちゃ駄目よ」
「へ?」
「クラスメイトが亡くなったんでしょう? 気にするなって言い方は変だけど、動揺してるのはあなた一人じゃないのよ」
ああ、なるほど。坂上くんのことで、わたしが思い詰めてるんじゃないかと思ったんだ。お母さんったら、心配性なんだから。
「何かあったら、何でもお母さんに話してね。相談に乗るから」
「う、うん」
でも、そんな気遣いが嬉しかったりする。
「じゃ、行ってくるね」
「……気をつけてね」
わたしは駆け出した。
学校までの通学路。徒歩で約7分。自転車を使えばもっと早いんだけど、うちの学校の規則で、家が近い人は自転車は使ってはいけないらしい。まあ、遅刻しそうになったらそんなのに構ってられないけど。
しばらく歩くと、またわたしの中で声が聞こえてくる。
「いい母さんだね」
――やっぱり聞いてたんだ。
「あ、ごめん」
――いや、そういう意味じゃないけど。昨日言ってたわよね?
「何を?」
――心の声よりも、口に出した声の方がよく聞こえる、って。
「ああ、確かにそうだ。そう言ったよ」
――だから、わたしとお母さんの“声”での会話は、坂上くんに聞こえるんじゃないかなって思って。
「なるほど。実際、島田さんの声はよく聞こえたから」
――うーん、これは大きな収穫ね。
「どういう意味?」
――例えば、わたしが他の人から坂上くんについての情報を聞くとするじゃない? そんな時、いちいちわたしが坂上くんに伝えなくても、坂上くんが反応できるのよ。
「あ、そうだね」
――わたしが通訳をする手間がなくなるわけね。これは大きいわよ。これから、どんどん坂上くん情報を集められる。
「あはは、探偵みたいだ」
――名探偵、正美ちゃんね。
「じゃあ僕は有能な助手ってところかな?」
――いや、坂上くんは違うわよ。
「へ?」
――だって、坂上くんは依頼主でしょ?
わたしは朝日で満ち溢れているいつもの通学路を歩き続けた。
家から近いからなんて理由で決めてしまった高校までの道のり。だから今までは、誰かとおしゃべりをしながら歩くなんてことはなかったけどね。
――ねえ坂上くん。
「何?」
――確か、断片的な記憶しかないって言ってたわよね。ちょっとテストしましょう。
「テスト?」
――ほら、坂上くんがどれくらいのことを覚えているのか、とか。もしかしたら何かヒントが見つかるかもしれない。未練に思うくらいなことなら、記憶に残ってる可能性もあるでしょ?
「ああ、なるほど」
――じゃあ、あなたの名前は?
「坂上正美」
――うむ、聞くまでもないけどね。
「いや、あながち……そうとも言い切れないんだよね」
――ほえ?
「今は自分のことを“坂上正美”だって理解できる。でも、始めの方はそうじゃなかった。自分自身の存在が、まったく分からなかったんだ」
――ああ、確かそんなこと言ってたわよね。わたしの寝顔を見ているうちに、わたしのことと自分のことを思い出したって。
「そうなんだ。もしも何も分からなかったら、僕は島田さんに話し掛けてなかったと思う。どうして思い出したのかは分からないけど……」
――まあ、不思議なことも次々と起こると慣れちゃうものね。「どうして?」なんて思ってたらキリがないわ。
「そうかな」
――そうよ、そんなもんよ。だってそうじゃない? 今、わたしが生きていることだって……「どうして?」なのよ。説明なんかできないわ。この地球ってものが宇宙に存在しているのだって、「どうして?」でしょ? 頭のいい人は一つの答えを知っているのかもしれないけど、「どうして?」だけは消えることがないと思うわ。答えを見つけるってことは、次の「どうして?」も一緒に見つけちゃうってことだから。
「なるほど、島田さんって面白いね」
――お、面白い?
「だってさ、幽霊に取り憑かれたっていうのに……むしろ楽しんでるんだもん」
――た、楽しんでないわよ。
「あはは、嘘だ」
――うるさい! そうだったら、坂上くんも相当おかしな人よ。死んじゃったっていうのに、ずいぶんと明るくふるまえるものね。
「そう来たか……まあ、開き直っちゃったのかな? 落ち込んでても何の意味もないからね」
――なによ、楽しんでるのは坂上くんも一緒じゃない。
「はは、そうだね。何だかんだ言って、僕たち気が合うかも」
――うむぅ……。
「まあいいや。それよりも、話が脱線してる気がするんだけど」
――そうれもそうね。じゃあ……坂上くん。
「はい」
――日本の首都は?
「……あれ?」
――ヒント、“と”から始まる都道府県。
「と、と、と……栃木?」
――ざんね〜ん。答えは東京よ。
「あ、東京! 何で忘れていたんだろう……」
――栃木は覚えているのにね……。じゃあ次の質問。信号機の色で、“止まれ”の合図は? あ、ほら、ちょうどそこに信号があるじゃない。
わたしは歩行者用の信号を指差した。そこでは、赤い色をしたおじさんが“気をつけ”みたいな格好をしている。
「……うーん?」
――ヒント、赤か青のどっちかよ。
「青だ!」
――当てずっぽうでしょ?
「……ごめん」
――“青は進め、赤は止まれ”。小学校で教わらなかった?
「あ、そうだ! 思い出した」
――ホントに?
「ホントに。歩行者用の信号にはないけれど、“黄色は注意”だろ?」
――正解。本当に思い出したみたいね。
「うん」
――分かったわ。坂上くんは、記憶をなくしてるわけじゃないのよ。
「どういう意味?」
――わたしが答えを言うとすぐに思い出せるように……ちょっとしたきっかけさえあれば思い出せているでしょ? だから、完全に記憶を失ったわけじゃないってこと。たとえるなら……引き出しの鍵をなくしちゃったみたいな状態かしら?
「なるほど……引き出しの中身には異常なしってことだね」
――そ、つまりはそういうことね。
坂上くんがわたしに取り憑いた原因――坂上くんが残した未練。それを理解するためには、その引き出しを開けるための鍵が必要ということ。その鍵を探し出すことが、わたしたちの取りあえずの目標となったわけだ。
ちょっと1話あたりを短めにしてみました。