私より研究を優先した夫の本心 ~「白い結婚のはずが、どうしてそんなに溺愛なさるのですか?」~
「私は魔術研究のため、家を空けることが多くなる……いや、ほとんど帰らないと思ってくれ」
「ほとんど、ですか……」
結婚式の翌朝。
旅装に袖を通した第一王子アストレアは、そこまで言ってから手元の革手袋を引き上げる。ためらいも飾りもない口調だった。
エリスが目を覚ましたとき、寝台の片側は冷えていた。
その代わり、部屋の隅に置かれた机だけが妙な存在感を放っていた。開きっぱなしの本が何冊も積まれ、数式を書き殴った紙が端からこぼれ、燭台の蝋は半ばまで溶け落ちている。
初夜を過ごした夫婦の部屋というより、徹夜明けの研究室だった。
(噂どおり、研究一筋ということですね……)
異性に興味がない男だと、結婚前から聞かされてはいた。その話が、今朝の光景ひとつで綺麗に裏づけられてしまった。
「すまないが、研究を止めるつもりはない」
「止めてほしいとは申しません」
「そうか。理解してもらえたなら助かる」
それだけ言うと、アストレアは机の上に置いてあった手帳を懐へ差し入れた。花嫁を残して旅立つ夫の顔ではない。今日の天気でも確かめるような調子で、淡々と支度を整えていく。
その横顔を見つめたまま、エリスは裾の上で指を重ねた。
「では、行ってくる」
「ええ。行ってらっしゃいませ、殿下」
夫であるアストレアと交わした会話は、それが最後になった。
最後といっても、共に過ごした時間は結婚式を含めてもわずかしかない。
政略結婚だ。愛を期待していたわけではない。
それでも、ここまで徹底した白い結婚になるとは思っていなかった。
扉の前で一度だけ振り返り、アストレアは短く頷く。そのまま部屋を出ていく背を見送ってから、エリスはようやく息を吐いた。
窓辺に寄る。王城の中庭では、すでに馬車が待っていた。ほどなくしてアストレアが乗り込み、馬車は門へ向かって動き出していく。
細い窓枠を握る指先に力が入る。
(仕方ありませんわね……私は魔術を使えない出来損ないですもの)
結婚してもらえただけでも十分。
そう思うことにした。
そうでもしなければ、胸の奥に落ちた冷たさを持て余してしまう。
けれど、去っていく馬車を見つめる目は、なかなか窓から離れず、初夜よりも研究を選んだ不器用な王子の横顔が、妙に頭に残るのだった。
●●●
エリスが魔術を使えないと知ったのは、十歳の誕生日だった。
「さあ、開けてごらん」
父が笑い、母が期待に満ちた眼差しを向ける。
深紅のリボンをほどくと、中に収まっていたのは銀の装飾が施された魔導書だった。子どもに与えるには贅沢すぎる一冊。表紙に刻まれた紋章が燭台の光をはじき、きらりと光った。
「まあっ!」
エリスは思わず声を弾ませた。
そのころの彼女は、周囲からもてはやされていた。
公爵家でも群を抜く魔力量。容姿も頭の出来も申し分ない。教師たちは口をそろえて天才と評した。
「エリス様なら、すぐに高度な魔術を使えるようになるでしょう」
「まさに才女ですな」
読書も好きだった。文字を追うのは苦ではない。むしろ好きだった。
だから、魔導書だって当然読めると思っていた。
「私、すぐに覚えてみせますわ」
胸を張って本を開いた、その瞬間だった。
「あ……」
文字が、読めなかったのだ。
視線を滑らせるたびに形が崩れ、意味を結ぶ前にばらばらになる。こめかみの奥を針で突かれたような痛みが走り、思わず本を閉じた。
「どうした、エリス?」
「もしかして難しかった?」
両親がのぞき込む。
エリスは本を抱えたまま、何度か目を瞬かせた。
「……読め、ません」
「そんなはずはないだろう」
父が眉をひそめると、母はすぐに侍女へ命じた。
「もっと初歩的なものを持ってきて」
運ばれてきたのは、子ども向けの入門書だった。
魔術の才が乏しい者でも理解できるよう、簡単な術式だけが載っている本。誰でも読めると評判の、ごく薄い一冊。
「これなら大丈夫よ。落ち着いて」
母に手を添えられ、エリスはもう一度表紙を開く。
「っ……」
同じだった。文字が崩れ、頭が割れそうになる。
その症状は先ほどより酷く、吐き気までこみ上げ、エリスは本を取り落とした。
「お嬢様!」
侍女が駆け寄る。だが、床に落ちた本よりも先に視界へ入ったのは、父の目だった。瞳に滲んでいたのは、大きな失望だった。
「魔導書は、その魔術を習得できない者に拒絶反応を示すことがある。上位の魔導書なら珍しくはない現象だが……入門書まで読めない者など聞いたことがない」
「今日は体調が悪いだけよ。明日ならきっと読めるわ。ねぇ、エリス?」
母はそう言って笑みを作った。けれど、その声の端は震えていた。
翌日も、その次の日も、魔導書を読めなかった。
周囲の期待が失望へ変わるのは早かった。昨日まで「天才」と褒めていた大人たちが、今度は声を潜めて囁き合う。
「魔導書を読めなければ魔術が使えぬではないか」
「惜しいことです」
「公爵令嬢としての価値は残る。縁談の駒にはなるでしょうな」
魔術は、魔導書に記された術式を頭の中へ描き出すことで発動する。
つまり、魔導書を読めなければ、魔術は使えない。
それは、この国では致命的だった。
どれほど膨大な魔力を宿していても、術として扱えなければ価値はない。気づけば、陰でエリスを出来損ないと呼ぶ声は、以前よりずっと大きくなっていた。
そんなエリスのもとに、ひとつの縁談が持ち込まれる。
「結婚相手は第一王子だ」
父が書類を机に置く。エリスは思わず顔を上げた。
「……アストレア殿下?」
「ああ」
第一王子アストレア。
魔術研究の世界で知らぬ者はいない名だ。若くして幾つもの論文を発表し、王都の学者はもちろん、隣国の研究者まで彼の名を口にする。
だが社交の場にはほとんど姿を見せない。体が弱いからだとも、研究以外に興味がないからだとも噂されていた。
「殿下に、結婚の意思があるのですか?」
「それは分からん。だが、私の見立てでは王家の意向だろうな」
父は書類の端を指先で軽く叩いた。
「殿下には跡継ぎが必要だ。いつまでも研究ばかりしているわけにもいかん。だから王家は、公爵家へ話を持ってきたのだ」
「なるほど……」
これは家にとっても悪い話ではない。魔術を使えない娘を差し出すだけで、王家との縁を強められるからだ。
「嫌か?」
そう問われ、エリスは少しだけ黙った。考えたところで、答えが変わるわけではない。
「嫌と言っても、どうにもなりませんもの」
「そうだな」
それで話は決まった。
結婚式の日。アストレアは外国での研究から戻ったばかりだった。
大聖堂は豪奢に飾られ、天井からの光が花嫁衣装の刺繍を照らす。祝福の言葉はいくつも耳に届くのに、祭壇の前に立つ二人のあいだには妙なぎこちなさがあった。
正面から見たアストレアは、息を呑むほど整った顔立ちをしていた。白い肌、長い睫毛、作り物めいた美しさ。けれど、目の下には薄く疲れが浮かんでいた。
「殿下」
小声で呼ぶと、彼の肩がぴくりと揺れた。
「どうかしたか?」
「緊張していらっしゃるのですか?」
問いかけられたアストレアは、しばし黙り込む。やがて、ひどく真面目な顔で答えた。
「女性と結婚するのは初めてだからな」
「それは皆そうでは?」
思わず笑みが零れる。その反応に、アストレアの耳が少しだけ赤くなる。
「女性に慣れていない、という意味だ」
「ふふ……失礼いたしました」
「笑うところか?」
「少しだけ」
聖堂の中央、神官の前だというのに肩が震える。不謹慎だと分かっていても、研究書に囲まれて生きてきた人らしい返しがあまりにも真剣で、こらえきれなかった。
アストレアは不満そうに前を向いたが、その横顔を見ているうちに、胸の中に好ましい印象が残る。
(案外、かわいいところがある人なのかもしれませんね)
結婚式は滞りなく終わった。
夜になり、新しい夫婦のために用意された部屋へ通される。天蓋つきの寝台、香り高い花、磨き込まれた燭台。誰が見ても完璧な初夜のための部屋だった。
けれど、アストレアは寝台に近づこうともしない。
「少し研究用のメモを残したい」
「今からですか?」
「思いついたことを忘れたくない」
ペンを取る手に迷いはなかった。エリスは寝台の端に腰を下ろし、その横顔を見つめる。
「殿下」
「何だ?」
「本当に魔術研究がお好きなのですね」
アストレアは紙から目を離さないまま答える。
「それしかしてこなかったからな」
「それしかですか……」
「それ以外は、たいてい後回しで済んだ」
あまりにもあっさりしていて、笑いが漏れる。
「では、私はずいぶん後回しにされておりますね」
その言葉に、彼はようやく顔を上げる。珍しく返答に詰まり、口を開きかけて閉じた。
「……その、悪気はない」
「分かっております」
そう返すと、彼は少し考えてから視線を落とした。
「なら、助かる」
不器用な人だ。
けれど、その不器用さは嫌ではなかった。
結局、その夜を一緒に過ごすことはなかった。エリスが先に寝台へ入り、アストレアは夜更けまで机に向かっていた。紙をめくる音とペン先の擦れる音が、灯りの落ちた部屋に長く残る。
翌朝。彼は研究のために旅立っていった。その背中を呼び止めることは、エリスにはできなかった。
●
それから、エリスはアストレアの屋敷で暮らすことになった。
王城の離れにあるその屋敷は、王族の住まいらしく何もかもが行き届いていた。与えられた部屋も広く、寝台はひとりで使うには大きすぎるほどだ。窓辺には刺繍入りの長椅子まで置かれている。
「すごく豪華なお部屋ですね」
荷ほどきを手伝っていた侍女にそう漏らすと、彼女は胸を張った。
「当然です。アストレア殿下のお屋敷ですもの」
「王家の方のお住まいだから、ということですか?」
「それもありますけれど、殿下ご自身が莫大な財をお持ちなのです」
侍女は畳んだドレスを箪笥へ収めながら、どこか誇らしげに続ける。
「魔術研究の成果で得た権利料が、もうとんでもない額でして。新しい術式に魔道具、数え始めたらきりがありません。おかげで、私たちの給金まで他家の何倍も多いんです」
「アストレア様は使用人にも気前がいいのですね」
「意外でしたか?」
「研究以外には無頓着な方だと思っておりました」
「無頓着なのは本当です。ですが、必要なところには惜しみません。そういうお方です」
きっぱりと言い切る声に、侍女の敬意がにじんでいた。
「皆さんに慕われているのですね」
「ええ。研究に夢中なこと以外は、完璧な雇い主です」
侍女はきっぱりと言い切ったあと、少しだけ笑う。
つられるように、エリスも肩を揺らした。
それからの日々は、驚くほど穏やかだった。
朝になれば侍女が髪を整え、食堂へ行けば温かな料理が並ぶ。昼は庭を歩き、季節の花を眺め、夕方には湯に浸かる。夜になれば誰にも急かされず、誰にも責められず、ただ寝台へ入ればいい。
第一王子の妻なのだから不思議はない。そう頭では分かっている。
けれど、公爵家で何不自由なく育った身でさえ、この屋敷の暮らしは行き届きすぎていると感じた。
人の手は隅々まで届いているのに、息苦しさだけがどこにもない。
そんな日が、いくつか過ぎた。
だから昼下がりに扉が叩かれたときも、まさかあんなものが届くとは思っていなかった。
「エリス様、お届け物です」
「届け物?」
侍女が盆の上に載せた包みを差し出す。
厚手の布にくるまれた、平たい箱だった。
「差出人は?」
「殿下からです」
「アストレア様から?」
布を解く手がわずかに止まる。それでも、そのまま結び目をほどき、箱の蓋を持ち上げる。
「――え」
中に収まっていたのは、一冊の魔導書だった。
表紙が目に入っただけで、全身から熱が引いていく。喉の奥がきゅっと狭まり、息が浅くなる。
「これは……本当にアストレア様から?」
「はい。間違いございません」
侍女も箱の中をのぞき込み、それからエリスの横顔を見た。
「想定外の贈り物でしたか?」
「ええ……」
唇がうまく動かない。指先で本の角に触れ、すぐ離す。
「私は魔導書が読めません。そのことは、アストレア様にお伝えしていたのですが……」
「でしたら、なおさら不可解ですね……」
侍女も困ったように眉を寄せた。
嫌がらせ。その言葉が頭をよぎる。
けれど、すぐに打ち消した。
研究馬鹿ではある。人付き合いも上手とは言えない。だが、わざわざ人を傷つけるために何かするような人には見えなかったからだ。
「……少しだけ、試します」
エリスは魔導書を膝の上へ置くと、表紙に指をかける。
それだけで、昔の痛みがじわりと蘇る。十歳の誕生日に床に落とした入門書と、父の失望した目を思い出し、喉がひりついた。
それでも勇気を出して開いてみる。
「――――っ」
文字は理解できず、視界が揺れ、こめかみの奥で脈打つ痛みが広がっていく。
「エリス様!」
侍女の心配する声を受け、ようやく本を閉じる。息を整えながら、表紙を押さえ込む指に力が入った。
「やはり、読めませんね」
分かっていた結果ではあるが、それでも、ほんの少しだけ期待していた。
もしかしたら。たった一冊だけなら。
そんな甘い望みが、痛みと一緒に潰れていく。
侍女が心配そうに顔をのぞき込む。
「お水をお持ちいたします」
「お願いします……」
侍女が急いで部屋を出る。
その背を見送ってから、エリスは閉じた魔導書へ視線を落とした。
「どうして私に魔導書を……」
問いかけても、答える相手はいない。
「何をお考えなのですか、アストレア様……」
●●●
夕刻。
西日が長い廊下を橙に染めるなか、エリスはひとりで屋敷の中を歩いていた。届いた魔導書のことが頭から離れず、部屋にじっとしている気分になれなかったのだ。
角を曲がったところで、見覚えのない青年と目が合う。年は二十代半ばだろうか。細身の体に質素な研究衣をまとい、腕には分厚い書類を抱えている。
青年はエリスに気づくと、すぐに一礼した。
「奥様、お初にお目にかかります」
「ええと、あなたは?」
「グレイスと申します。アストレア殿下の助手を務めております」
助手と聞き、エリスは思わず青年の抱えた書類へ視線を落とす。
紙束の端には細かな書き込みがびっしりと並んでいた。余白まで数式で埋まっている。あの散らかった研究机を思い出させる筆跡だった。
「殿下の研究を支えていらっしゃるのですね」
「支えている、というほど立派なものではありません。雑用と記録整理と後始末が主な仕事ですから」
「後始末?」
「殿下は思いつくと、周囲の片付けまで頭が回らなくなりますので」
「……それは大変そうですね」
「ええ、とても」
即答だった。しかも真顔だ。
「ただ、あの方の研究が世に出る瞬間を間近で見られるのは、他では得られない役得でもあります」
グレイスの言い切る声に迷いはない。愚痴の形をしていても、その奥には敬意があった。
エリスは一歩、彼に近づく。
「ひとつ伺っても?」
「何でしょうか?」
「私宛に魔導書が届きました。あれを運んでこられたのは、グレイス様ですね」
「はい。殿下からお預かりして、こちらへ」
「では聞かせてください。どうしてアストレア様は、読めない私に魔導書を?」
問いかけると、グレイスは少しだけ目を伏せた。それから、困ったように肩をすくめる。
「天才の考えることは、正直なところ私にも分かりません」
「そうですか……」
「ですが、悪意はないはずです。言葉は足りず、配慮もありません。説明に至っては、期待するだけ無駄な方ですが、それでも、優しい人ではありますから」
「…………」
エリスが黙ると、グレイスはその沈黙を埋めるように続けた。
「それに殿下は、奥様のことを大切に思っておられます」
「……私をですか?」
「殿下はよく、エリス様との思い出を話しておられました」
「思い出ですか……」
「意外でしたか?」
「というより、殿下とお会いしたのは結婚式の日が初めてです。語るような思い出なんて……」
「初めて?」
今度はグレイスの方が目を丸くした。
「……そのように聞いておられたのですか」
「違うのですか?」
問い返すと、グレイスはしばらく黙り込んだ。言っていいものか迷っている顔だったが、やがて観念したように口を開く。
「殿下は、幼い頃に奥様に親切にしてもらったと話していました」
「……は?」
「初恋の相手だ、とも」
意味が分からなかった。
「待ってください。今、何と?」
「初恋の相手だと」
聞き間違いではなかったらしい。
「そんな話、初めて聞きました」
「ですが、殿下より直接お聞きしましたので、間違いありません」
「本当に?」
「ええ。今回の縁談も殿下自身から申し込んだそうですよ」
冗談を口にした顔ではない。むしろ、なぜエリスが知らないのかと戸惑っている顔だ。
エリスは結婚式の日に見せた、あのぎこちない横顔を思い出す。あれがただの人見知りではなく、別の意味を含んでいたのだとしたら。
「なので奥様が幼い頃から天才だったとも聞いております。魔導書を送ったのは、奥様なら読めるかもしれない。そう期待なさった結果なのかもしれません」
「期待、ですか……」
長らくエリスとは無縁の言葉だった。
魔導書を読めず、魔術も使えない。そうして切り捨てられてきた身に、まだ何かを期待してくれている。
それだけで、胸の奥に灯がともる。
けれど、その灯りはすぐに苦々しさを連れてきた。
魔導書を読めない事実は変わらないからだ。
「申し訳ない気持ちになりますね……」
「期待されるのは、お嫌ですか?」
「嫌ではありません。ただ期待には応えられませんから……アストレア様に魔導書を送っていただいても無理だとお伝えください」
グレイスはしばらく黙っていたが、やがて深く頷く。
「承知しました。きちんとお伝えします」
「お願いします」
「では、失礼いたします」
「ええ」
グレイスは一礼し、そのまま廊下の向こうへ去っていく。
エリスはしばらく動けずに立ち尽くし、やがて自分の袖口を握っていた指に気づくのだった。
●
二週間後。また屋敷に届け物があった。
「……今度も、ですか」
「はい」
運んできたのはグレイスだった。両腕に抱えた箱を見た瞬間、エリスの肩がわずかに強張る。
「中身を伺っても?」
「おそらく、奥様のご想像どおりかと」
エリスは箱を受け取る。
前回より、ほんの少し軽い。気のせいかと思いながら蓋を開けると、やはり中に収まっていたのは魔導書だった。
「あれ?」
それでも、以前と違うものがあった。
魔導書の上に、一通の封筒が載っていたのだ。
「手紙ですか……珍しいこともあるものですね」
エリスは封を切り、紙を開くと、そこには見慣れないほど簡潔な筆跡が並んでいた。
『前回はすまなかった。次はこの本を読めるかどうか試して欲しい』
「アストレア様らしい文面ですね……でもまぁ、好意的に考えるとしましょう」
研究で忙しい彼が、手紙を送ってくれたのだ。その事実だけで十分だった。
「……試すだけ、試してみます」
「奥様、どうか無理はなさらず」
「駄目だと思ったら、すぐ閉じますので、安心してください」
そう言って、エリスは魔導書を膝の上へ置く。
指先はなかなか伸びなかったが、ひとつ息を吸い、そっと表紙を開く。
「――――ッ」
反射的に閉じそうになった手を、今度は止めた。
頭が痛むが、前回ほどではない。
「奥様?」
「……大丈夫です。まだ耐えられます」
呼吸を整え、もう一度ページへ視線を落とす。
相変わらず、文字そのものはうまく追えない。
けれど、今回はそれだけではなかった。
「……え」
文字を読めないはずなのに、映像が浮かんできたのだ。
「どうなさいました?」
「書いてある文字は分からないのに、内容だけが頭に入ってきます」
「内容が?」
「ええ。見えているのに読めない、ではなくて……読めないのに分かる、という方が近いかもしれません」
自分で口にしながら、その奇妙さに戸惑う。
これまで一度もなかった感覚だった。
けれど、長くは続かなかった。
目の奥が熱を持ち始め、こめかみが鈍く脈打つ。
「……一度、閉じます」
「はい。今はそれがよろしいかと」
本を閉じると、エリスは背もたれへ体を預ける。机の上に魔導書を置くと、グレイスがそれを一瞥する。
「その本、実は殿下ご自身が書かれたものです」
「アストレア様が?」
「はい。既存の魔導書では合わないからと。それと、奥様が自分の才能に気づいていないとも口にされていました」
「私の才能ですか……」
公爵令嬢としての教育なら受けてきた。礼儀作法も学問も、それなりに身につけている。
けれど、今の文脈での天才は、そんな意味ではないはずだ。
「どういう意味でしょうか?」
「私にも分かりません」
手掛かりが得られず、再び魔導書へ手を伸ばす。
今度は少し長く読もうとしたが、やはり途中で目の奥が悲鳴を上げた。
「……だめですね」
本を閉じ、指先で表紙を撫でる。
悔しい、というより、申し訳なさが先に立った。
「お返事を出します」
「殿下にですか?」
「ええ。今度はこちらから」
便箋を机から取り出し、ペンを取る。
少し迷ってから、文字を綴った。
『やっぱり読めません。魔導書はもういいので、今度は楽しいお話をしませんか』
そこまで書いて、手が止まる。
グレイスが黙って見守っている気配がした。
もう一行、書き足す。
『美味しい紅茶を手に入れました。一緒に飲めたら嬉しいです』
書き終えてから、封を閉じると、グレイスに手渡す。
「では、お願いします」
「確かにお届けします」
手紙を受け取ったグレイスが一礼する。
部屋を出ていく背を見送りながら、エリスは机の上の魔導書へ目を戻した。
読めなかった。
それでも、前とは違った。
そして今、アストレアへ送ったのは断りの言葉だけではない。
会いたい、という気持ちが、たしかに一行まぎれ込んでいた。
●
手紙を出してから、返事はなかなか届かなかった。
「遅いですね……」
「殿下もお忙しいのでしょう」
侍女はそう言って紅茶を置いたが、エリスの視線は窓の外へ向いたままだ。庭の向こう、門へ続く小道には誰の姿もない。湯気の立つ茶器に手を伸ばしても、指先がふれるだけで止まってしまう。
一日、また一日と過ぎていく。
今日も来ない。
そう思っていた日のことだった。
扉が叩かれ、侍女が箱を抱えてやってくる。見慣れた装丁を目にした瞬間、エリスは立ち上がりかけた足を止めた。
「……また魔導書でしょうか」
「そのようです」
箱を受け取り、そっと蓋を開ける。
中に収まっていたのは、予想どおり魔導書だった。だが、その上には前回と同じように一通の手紙が添えられている。
エリスはすぐに封を切ると、文面に目を通す。
『私が手紙を出すのは、これが最後になるかもしれない』
『頼みがある。この魔導書を読んで欲しい』
「……最後?」
手紙を持つ指先に、じわりと力がこもった。
最後。その二文字だけが、紙の上でやけにくっきり見える。
危険なことに巻き込まれたのだろうか。
それとも魔導書を読めないエリスに、とうとう見切りをつけたのか。
どちらにしても、この短い文だけでは何も分からない。
エリスは手紙を机に置き、その隣の魔導書へ目を向けた。
手がかりは、もうそれしかなかった。
「エリス様」
控えていた侍女が、おそるおそる声をかけてくる。
「もしよろしければ、私が代わりに中身を確認いたしましょうか」
「……良いのですか?」
「ええ。少し興味もありますので」
冗談めかした言い方だったが、エリスの顔を見る目は真剣だった。
「お願いします」
侍女は一礼し、慎重に魔導書を手に取る。
机の上へ置き、そっと表紙を開く。
「っ……!」
次の瞬間、本を取り落としかける。
「大丈夫ですか!」
「申し訳、ありません……」
侍女は咄嗟に机へ手をつき、もう片方の手でこめかみを押さえた。
「目が回ります……文字を見た途端に……」
「そこまで?」
「はい……こんな魔導書、見たことがありません」
顔色が目に見えて悪い。
エリスはすぐに侍女の腕を支え、椅子へ座らせた。
水を飲ませると、侍女はようやく息を整えた。
その横で、机の上の魔導書だけが何事もなかったように閉じている。
(私以外でもこうなるなんて……どれほど難解な本なのでしょうか……)
あれほど侍女が苦しむ顔を見た直後だ。
手を伸ばすのは怖い。
けれど、ここで引けば、何も分からないままだ。
「今度は、私が試してみます」
エリスは魔導書を引き寄せる。
表紙に触れた瞬間、昔の痛みが蘇り、呼吸が浅くなった。
それでも開いてみる。だが予想された結果とは違った。
「え……」
痛くない。
目の奥が焼けるような感覚もない。
文字は崩れず、滲まず、そのまま意味を結んで頭へ入ってくる。
「読める……頭痛もない……」
思わずこめかみに触れる。
あれほど魔導書を開くたびに襲ってきた痛みが、今日はどこにもなかった。
「読めます!」
ページをめくる。
次も、その次も。文字は崩れず、するすると頭の中へ収まっていく。
だが決して内容が簡単なわけではない。
この魔導書に記されていたのは、回復魔術。
魔力で肉体を修復し、損傷した組織をつなぐ高度な術式だ。術者を選ぶ難解な内容のはずなのに、引っかかるところがひとつもない。
「どうして、こんな……」
呟いたところで、控えめなノックの音が響いた。
「エリス様、グレイス様がお見えです」
「通してください」
返事をすると、扉が開き、グレイスが足早に入ってくる。
部屋の中央で足を止めると、エリスの手元の魔導書に目を留め、そのまま息を呑んだ。
「読めたのですね」
「グレイス様……説明してください」
エリスは魔導書を抱えたまま顔を上げる。
グレイスは短く目を伏せ、それから姿勢を正した。
「奥様の才能は、常人とは逆です」
「逆?」
「簡単な魔導書は読めないのに、難解な魔導書なら読めるというものです」
「そんなことが、ありえるの?」
「現に、今こうして読んでおられます」
言われて、エリスは納得する。
難解な学術書なら読めるのに、子ども向けの絵本は受け付けない。そういう人も世の中にはいる。
エリスは魔導書に対して、その特性が極端に現れる人間だったのだ。
「殿下は、ずっとその可能性を疑っておられました。だから魔導書を送り続けたのです」
「……では、この手紙の『最後になるかもしれない』というのは」
「その件は私から説明するより、直接、殿下にお会いになって確かめられるべきかと思います」
グレイスは一歩近づく。
「私が奥様を殿下の元へとご案内します」
グレイスの誘いに、エリスが力強く頷くと、侍女は外套を取りに走る。
すべての謎を解くために、エリスは夫の元へと向かうのだった。
●●●
研究所に着いたのは、日がすっかり傾いた頃だった。
王都の外れに建てられたその建物は、屋敷というより要塞に近い。石造りの壁は無骨で、窓が高い。
「アストレア様は本当にここに?」
「はい、間違いありません」
先を急ぐグレイスの背を追い、研究所の奥へ進む。
廊下には魔道具の灯が一定の間隔で並び、床には運び込まれた資材の箱が積まれていた。人の気配はあるのに、やけに静かである。
いちばん奥の扉の前で、グレイスが足を止める。
「こちらです」
「……入っても?」
「はい。ただ、どうか取り乱されませんように」
そう言われると余計に嫌な予感がする。
扉を開くと、部屋の中央には寝台が置かれていた。研究机でも、実験台でもない。簡素な寝台だ。その上に、アストレアが横たわっていた。
「え……」
言葉が出なかった。
顔色が悪く、唇にも血の気がない。長い睫毛を伏せたまま、ぴくりとも動かずに眠っている。
「どうして……」
「殿下はもともとお身体が強くありません。それなのに無理をなさった結果です」
社交に出てこないのは、体が弱いからだとは聞いていた。それが方便ではなかったのだと知り、エリスは驚きで目を見開く。
「殿下が魔術の研究に没頭したのは、奥様のためです」
「……私の?」
「奥様に才能があると証明するために、殿下は研究を続けてこられましたから」
胸が強く打つ。
「どうして、そこまで……」
問いは自然にこぼれた。グレイスは少しだけ目を伏せる。
「殿下は、よく口にされていました。根暗な自分に、ためらいなく話しかけてくれた唯一の人だった、と。心当たりはありませんか?」
エリスは記憶の底を探る。幼いころ、王城の庭で本を読んでいた少年がいた。近づいて声をかけたことが、あった気がした。
「まさか……あのときの……」
呟きは、最後まで形にならなかったが、グレイスは苦笑する。
「殿下にとっては、それだけで十分だったのでしょう。初恋相手の悩みを解消するためなら、生涯を費やしても惜しくない。あの方は、そういう人ですから」
エリスは寝台の上のアストレアを見る。
長い睫毛を伏せたまま、まだ目を覚まさない。彼の胸の内にあったものは知らないことばかりだが、今ようやく輪郭を持ちはじめていた。
「アストレア様は、研究馬鹿なのだと思っていました……」
「それは否定できません。ただそれ以上に――奥様一筋の、一途な馬鹿なのです」
冗談めいた言い方なのに、笑えなかった。
エリスは寝台の上のアストレアを見つめたまま、指先に力をこめる。
「……治す方法は、ないのですか?」
「それは私よりも奥様の方が詳しいはずです」
「私が……」
エリスは息を止める。彼の言葉に心当たりがあったからだ。
「回復魔術で……治せるのですね」
グレイスは黙って頷く。
その返答だけで十分だった。
「今度は、私が助けます」
寝台の脇へ膝をつくと、そっと手を伸ばす。アストレアの手に指先が触れるが、驚くほど冷たい。
その手を包み込み、目を閉じると、魔導書の内容を思い出す。
乱れた魔力の流れ、修復すべき箇所、そこへ通す力の道筋。ひとつずつ確かめるように意識を研ぎ澄ませた。
次の瞬間、掌から魔力を流し込む。癒しの輝きが広がり、やがて、アストレアの指先が、かすかに動く。閉じられていた瞼もゆっくりと持ち上がった。
「……エリス?」
「アストレア様!」
「……なるほど、私はエリスに救われたのだな」
状況を察したのか、アストレアは嬉しそうに微笑む。そんな彼の手の平をエリスはより一層力を込めて握りしめる。
「いえ、助けられたのは私です。あなたが私の才能を見出してくれなければ、私は非力なままでした……」
「夫婦だからな、当然のことをしたまでだ」
あまりにも迷いのない返しだった。
いかにもアストレアらしくて、エリスはとうとう笑ってしまう。目元は熱を帯びているのに、口元だけはどうしても緩んだ。
「本当に、あなたは……大馬鹿です」
「知っている」
真顔で言い切られて、今度こそ声が漏れた。
エリスは寝台へ身を寄せる。
するとアストレアが、ぎこちない動きで腕を上げた。力の入れ方が少し変で、どこか頼りない。それでも、その腕はきちんとエリスを受け止めていた。
「エリス、手紙で誘ってくれた紅茶の件だが……とても、楽しみにしている」
「私もです。今度は、逃がしませんから」
エリスの言葉にアストレアは苦笑いを浮かべる。幸せな空気に包まれながら、二人はハッピーエンドを迎えるのだった。
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