シュガーキューブ
本当は、声の高い男なんて嫌い。
女々しい感じがするじゃないの、気持ち悪い粘着質な声がわたしの鼓膜を揺さぶるのかと思うと吐き気すらしてくる。今までの人生の中で、会ってきた嫌いな人間達が揃いも揃って甲高い声をしていたせいかもしれない。
あなただけが、たったひとり、世界の中でその例外。
「随分伸びたな」
髪、色抜きまくりだな、と笑いながら彼の指がわたしの頭に触れる。
透明にそして少し高い声。色抜きまくりだよ、とわざとぶっきらぼうに答えてみる。心臓のドキドキが響いてしまわないように、必要以上の大きな声で。
彼は知らない、わたしが髪を伸ばすその訳を。
わたしも言わない、言うのは悔しいからだ、まさか彼の昔五年も付き合っていた女の人が、ひどく長い髪をしていたからだなんて、それを真似してだなんて、絶対に。言わない。
「お前、色が白いんだから黒髪のが似合うのに」
「そんな事ないもん、茶色い方が可愛いもん」
「その顔じゃタカが知れてる『可愛い』だけどな」
力を込めない平手で彼の頬を叩く。彼の言葉の語尾がまだひらひらと空間に漂っているうちに。
「すぐに手を出すな、乱暴女」
「あんたの頬より今ので傷付けられたわたしの心のが痛いわ」
「お、なんか恰好良い事言うじゃん」
「でしょ、今見てるドラマで主人公が言ってた……あ、ネタバラししちゃった」
彼の笑い声が響くのは、やはりその音程が高めのところで設定されているからなのだろうか。声が似るのは骨格が同じだからと聞いた事があるけれど、声の高低はどうやって決められているのだろう。不思議。
「バカだな、」
でも髪は良い匂いだな、と彼がわたしの後ろ髪を束ねて掴み、自分の鼻へと近づける。もう付き合い始めて一年以上が経つのに、未だにそんな彼の行動に胸をときめかせてしまう自分は、他人から言われるまでもなくバカだと思う。
「ちょっと、オヤジ入ってるよ、その行動」
だから言わない、彼が気に入っている香水がグリーンブーケの香りを基調としているから、シャンプーもわざわざ似た匂いのものを探し回って使っているだなんて。
わたしは彼に言っていない事が多すぎると思う。恥かしくて言えていない事が多すぎる、とても、とても。携帯のストラップに紫色の鈴を付けているのはそれが彼の好きな色だからだとか、スカートしか穿かなくなったのは彼が女らしい恰好の人が好きだからなせいだとか、彼がやっているからという理由だけで興味のなかったサッカーをテレビで見るようになっただとか、言わない。絶対に言わない、そんな、わたしばかりが彼を好きだなんて、彼を好きで仕方がないなんて、悔しいから、絶対に、言って、やらない。
わたしばっかりが、好きだなんて。
そう思ってしまうのは、どうして彼がわたしと一緒に居るのか、いまいちの確信と実感と理由が分からないからだ。
一度聞いたら、嫌いじゃないから、と言われた。
だけれど、嫌いじゃないなんていう言葉が通用するほど、わたしはお子様で単純じゃない。愛してると囁けとは言わない。言わないけれど、鈍感なわたしは態度で示されてもあまり気付けない。それに、感情を表にあまり出さない彼は、宇宙人ぐらい理解不可能な存在としてわたしの目に映る。
好きと言って。
好きだと言って、わたしにそれを分からせて。
それは我侭かしら、ただの、我侭なのかしら。
「宇宙人、好き?」
「は?」
「宇宙の人よ、地球人じゃない人」
「そんなの考えた事もない、好きか嫌いか? 害がないならどっちでもない、ああ居るんだな、の認識だけ」
わたしの事もそうなのかな。
認識、あ、居るな、って、思うだけなのかな。
「なに、ブス顔」
鼻を摘ままれた。
可愛くない顔がますます可愛くない、だなんて。
言わないで、冗談でも傷付くから。
だって、わたしの一番可愛い顔は、あなたにしか見せていないつもりだから。
熱い紅茶をかけられて、とろとろに崩れてしまうシュガーキューブによく似た笑顔なんて。他の誰にも 見せてないんだから、あなただけなんだから。そういうのを分かってくれないなんて、ちょっと、わたしよりも鈍感すぎるよ、それとも気付いててわざと知らん振りしてるんなら。
知っててわざと気付かない振りでて笑っているのなら。
「ブス顔の女と付き合ってるなんて、あんたの趣味も大概最悪なんじゃないの」
「いいの、俺はマニアなの」
「なんの」
「お前の」
「は、」
わたしマニアって、何。
「……わたしのマニアって、何さ」
「なんか知らないけど、心奪われてるって事だよ」
「……ふうん」
ふうん。
何、それ。
そんな事、唐突ににんまり笑いながら言うの、ずるいよ、すごくずるい、わたし、ほら、もう、心臓が。
「わたしばっかがあんたの事好きなんだと思う」
「お、自惚れてんな?」
「今のセリフのどこが自惚れになんのよ!」
髪を、右の指で絡めて彼はくるくるとする。わたしの、茶色い髪。頭を撫でられて幸せになるのは、安心している証拠。嫌いな奴だったら、わたしは牙をむき出して怒鳴る。触らないで、と。怒鳴れないなら卑屈な愛想笑いをして逃げる、すみません髪触られるの苦手なんです。
髪に触れられるのが嫌いな女なんて、この世にひとりも存在しないのにね。
好きな人に髪を撫でられる事ぐらい、幸せでとろけてしまう事なんてないのにね。
「今度は何、」
「……何も言ってないわよ」
「もの欲しそうな顔してんじゃん」
「わたしマニアだったら、言わなくったって分かればいいじゃないの」
うん。
彼がにっこり笑った。
はっきり、うん、と言って。
「知ってる、うん、俺お前が言わなくても、その顔してる時だけは何を欲しがってるのか、ちゃんと知ってる」
後頭部を支えられて、押されて、バランスを崩すぎりぎりで、唇が、触れた。
「知ってる、その顔はキスして欲しい時の顔だから」
唇を尖らせて。
つつくように。
肌のすべてに、わたしのすべてに。
キス。
わたしは驚いて目を閉じて、でもそうすると彼の顔が見えなくて勿体無い気になってしまうのですぐに瞼を押し上げる。あたたかで、少し乾いている、彼の唇。
ずるいよ、そんなの。
ずるいよ、どうしてこんな時ばかり。
わたしの事、分かっちゃうの。
「髪、伸びたな」
キスの合間でそんな事を平然と言わないで、わたしは胸が高鳴っていて呼吸もままならないのに。
「でも、お前は短いのも似合うもんな」
もしも俺の好みの為に伸ばしてるんなら切ってもいいよ、なんて言う。
「髪の短いお前も好きだもん」
「どっち、が、自惚れ、」
てるのよ、の語尾は言えないままだった。
「絶対、わたし、ばっかが、あんたを、好き、」
「知ってる、ありがとう」
ずるいよ、ずるい、でも、だから好き。
男なんて本当にずるい生き物で、でもずるくない男なんて何の刺激もない訳であって、そうするとただのそこらに生息している雑草と同じなだけであって。
もう何度もしているはずなのに、どうしてこの人とのキスはわたしをときめかせるのだろう。こんなにも。どうしようもなく。
「……お腹空いた」
「あっ、お前ムードぶち壊しな奴だな」
「空いたんだもん、仕方ないじゃん」
嘘、本当はあなたのキスだけでお腹いっぱい。でも、悔しいからそんな事は言わない。
あなたがわたしマニアなのに輪をかけて、わたしはあなたマニアだよ、と言いたかったけれど、人のセリフで会話をするのは趣味じゃないのでやめておく。子供の意地っ張りになってしまいそうだし。
ただ、次のくちづけはわたしの方から、そっと。してみた。