四日目
四日目の朝は、やけに静かだった。
風の音も、兵士たちの話し声も、いつもより遠くに聞こえる。まるで世界そのものが息を潜めて、わたしたちを見下ろしているみたいだった。
「……行くぞ。前線だ」
ルーク上等兵の声は淡々としていた。昨日までと同じ声なのに、胸の奥がひゅっと冷える。
わたしたちは荷物を背負い、列に並んだ。アインは隣で、いつものように軽く笑ってみせる。
「大丈夫だって。今日は突撃じゃないんだろ?」
「……うん」
そう返したのに、胸の奥は冷たかった。二回の突撃で死にかけ、三日目は泥にまみれて塹壕を掘り、訓練では限界まで走らされて。
前線に戻ると、わたしたちは、昨日の夜のような普通の子どもじゃなくなっていた。
前線へ向かう道は、昨日よりも泥が深く、空気は鉄の匂いが濃かった。遠くで砲撃の音が響くたび、心臓が跳ねる。
やがて、視界の先にそれが見えた。
地面を深くえぐった、黒い溝。
何層にも積まれた土嚢。
湿った泥の匂い。
そして――その底で、うずくまる兵士たちの影。
今日は、ここで戦うらしい。
突撃のように一瞬で終わる戦いじゃない。 逃げ場のない、長くて、じわじわと削られていく戦い。
塹壕の縁に立った瞬間、湿った空気が肺にまとわりつき、背筋がぞくりと震えた。
足元の泥は深く、踏み込むたびに靴が吸い込まれそうになる。土嚢の隙間からは、乾ききらない血の匂いが漂っていた。
(昨日とは、全く違う)
昨日は、あくまで補修のために、泥を掘り、土嚢を積み、崩れた壁を直しただけだった。
その時は、前日に敵の指揮官が殺されていたことや、他の隊がわたしたちの代わりに突撃していたこともあって、珍しく安全なタイミングだった。
それに、補修した塹壕は前線より一つ後ろの位置にあったから、敵からの射線も通りにくかった。
けれど、今日は違う。
敵はもう混乱していないし、疲れも癒えている。
霧もなく、空気は澄みすぎていて、こちらの動きが全部見透かされているようだった。
「アレン、セラ。やるべきことはわかっているよな?」
ルーク上等兵が、わたしたちに呼びかけてくる。怒っているわけでも、焦っているわけでもない。
ただ、淡々と、必要なことだけを告げる声。
その静けさが、逆に怖かった。
「まずは見張りだ。頭は絶対に出すな。昨日までの突撃とは違う。ここでは、顔を上げた瞬間に死ぬぞ」
アインが小さく息を呑むのがわかった。わたしの喉も、ひゅっと細くなる。
突撃は怖かった。でも、あれは走って、撃って、倒れて、終わる。けれど、塹壕戦は違う。常に死の危険に晒され、その恐怖に耐え続けることが求められるのだ。
ルーク上等兵は、わたしたちの反応を確認するように視線を走らせた。その目は、昨日までの訓練のときよりもずっと鋭い。
ここでは、甘さが命取りになると知っている目だった。
「いいか。見張りは退屈な仕事じゃない。敵も同じようにこっちを見ている。向こうの狙撃兵は、常に俺たちの命を狙っているんだ」
淡々とした声なのに、言葉のひとつひとつが重く刺さる。
「動くときは、必ず壁に沿ってだ。影を作るな。音を立てるな。銃はすぐ撃てるようにしておけ。……それと」
ルーク上等兵は、わたしたちのすぐ近くの土嚢を指で軽く叩いた。
その表面には、乾いた泥の中に、いくつもの小さな穴が空いている。
「塹壕は決して安全じゃない。だから、一秒たりとも気を抜くな。もちろん、俺たちもいるが、お前たちも兵士なんだから、しっかりと自分のなすべきことを為せ」
「「はい」」
そうして、わたしたちにとって、初めての塹壕での戦闘が始まった。
この時に初めて、突撃する恐怖では無く、突撃される恐怖を味わったのだ。
この塹壕に来て、六時間ぐらいたった時だった。
急に大地が揺れ始め、土嚢の山がぱらぱらと崩れ落ちた。
「っ……!」
反射的に身を縮める。次の瞬間、耳をつんざくような轟音が響き、塹壕全体が大きく震えた。
泥が跳ね、細かい砂が雨のように降り注ぐ。
「伏せろ!」
ルーク上等兵の怒鳴り声が飛ぶ。わたしは言われるより先に、地面に身体を押しつけていた。
心臓が暴れ馬みたいに跳ねて、呼吸がうまくできない。
(砲撃……!?)
頭では理解しているのに、身体が追いつかない。
突撃のときとは違う。
敵の姿が見えない。
どこから撃たれているのかもわからない。
ただ、空から死が降ってくる。
「セラ、大丈夫か!」
アインの声がすぐ横から聞こえる。でも顔を上げることができない。
上げた瞬間に、何かが飛んでくる気がした。
地面の震えが、少しずつ強くなる。砲撃は一発じゃ終わらない。
続く。
何発も、何十発も。
塹壕の奥から、誰かの悲鳴が聞こえた。
それが誰なのか、確かめる余裕なんてない。
「ちっ、一昨日の魔導隊の生き残りか」
ルーク上等兵がそんなことを呟く。
そして、砲撃が止まると同時に、無数の足音がわたしたちのところへと迫ってくる。
最初は雨粒みたいに小さな音だった。けれど、それはすぐに大きな音へと変わり。地面が震えるほどの振動になったのだ。
「撃て!」
「はい!」
塹壕から顔を出した瞬間、冷たい風が頬を切った。
その風の向こうに、泥を蹴り上げながら迫ってくる敵兵の影が見える。
(近い……!)
思ったよりもずっと近かった。突撃のときに走った距離より短い。
ほんの数秒で飛び込んでこられる距離だ。
「撃てって言っただろ! ためらうな!」
ルーク上等兵の怒号が背中を叩く。わたしは震える指で引き金を引いた。
銃声が、鼓膜を破るような衝撃とともに響く。肩が跳ね、腕が痺れ、視界が一瞬白くなる。
「っ……!」
撃ったのか、撃たされたのか、自分でもわからなかった。ただ、銃が後ろへ跳ねた感覚だけが残っている。
けど、手を止めることは許されない。一発ごとに狙いを定めて、素早く引き金を引かないと、敵兵が塹壕内へと侵入してしまう。そうなれば……わたしが死ぬのも時間の問題だ。
「ちっ、入ってくるぞ!」
わたしたちは、必死に敵を殺していた。けれど、人数差という現実は努力や根性なんて簡単に踏み潰してくる。
撃っても、撃っても、次の影が現れる。倒れた兵士の後ろから、別の兵士が泥を蹴り上げて走ってくる。まるで尽きることのない波みたいに。
(止まらない……!)
焦りで手が震える。銃を構える腕が重くなり、肩が痛む。
引き金を引くたびに、身体が後ろへ跳ねて、狙いがずれる。
「セラ、下がれ! 飛び込んでくるぞ!」
ルーク上等兵の怒号が響いた瞬間、塹壕の縁を越えて、影がひとつ落ちてきた。
泥が跳ね、銃がぶつかり、誰かの叫びが混ざる。敵兵が、ついに塹壕の中へ――。
「こっちにこい」
「はい」
塹壕はS字に蛇行しており、もし侵入されてしまえば、角待ち出来るような仕組みになっている。
しかし、角待ち出来るから安全という話ではない。敵もそれを理解しているから、警戒しながら進んでいくため、わたしたちが死ぬ可能性は大いにある。
(侵入されたのは、ここだけかな?)
わたしたちがいる場所は、グレン小隊長がいる場所を中心とすると、左側に存在している塹壕である。そのため、敵が突撃してきたのも、この左側の区画だけ――そう思いたかった。
けれど、塹壕の構造は複雑だ。S字に曲がり、枝分かれし、どこからでも侵入されうる。
ひとつ突破されれば、隣の区画にもすぐ波及する。
「セラ、集中しろ。考えるのは後だ。アレンは、他の場所から敵が侵入しないか警戒してくれ」
ルーク上等兵が低く言う。
その声は怒っているわけではなく、ただ生き残るために必要な声だった。
「敵が広がってるかどうかは、俺たちがここを押さえてからだ。まずは、この角を死守する」
「……はい」
返事をした瞬間、また足音が近づいてきた。
さっきよりも重い。複数だ。
(来た)
「お前ら、少し伏せろ」
ルーク上等兵が小さく呟き、身を乗り出さずに手榴弾を角の向こうへ放り込んだ。この塹壕は、味方が作った区画だ。
どこが曲がり、どこが狭く、どこに死角があるのか――敵よりも、わたしたちのほうが把握している。
だからこそ、こういう戦い方ができる。
直後、角の向こうで鈍い爆音が響き、泥と破片が飛び散った。
空気が震え、胸の奥まで衝撃が響く。
「よし、行くぞ」
「はい!」
その衝撃が収まるより前に、わたしたちは侵入してきた敵の方へと、駆け出していく。
塹壕内は、蛇行していたり、地面が血や汗のせいで、泥のようになっている部分があり、かなり走りにくかったものの、ここで少しでも遅れてしまうと、手榴弾を使った意味が小さくなってしまう。
そして、S字の角を曲がると、爆発によって死んでしまった数人の死体と、腕や足などを無くしたが一命をとりとめた敵兵が二人いた。
彼らは、わたしたちの存在に気付くと、すぐに銃を持ち、わたしに標準を定めようとする。けれど、わたしたちは最初から銃を構えていた。だから、初動に決定的な差が存在する。
乾いた音が二つ。わたしの銃身とルーク上等兵の銃身から。
それらの銃身から放たれた銃弾は、敵兵の脳天を食い破り、赤い噴水を作り出す。そして、彼らの身体がぐらりと揺れ、そのままゆっくりと地面に崩れ落ちた。
(殺したんだ……)
塹壕の外にいる敵を撃った時に比べて、人を殺したとより実感してしまう。
もう、躊躇いは無くなってしまったが、罪悪感はまだ溜まっていく。それは、泥の底に沈んでいく石みたいに、じわじわと重くなっていった。
「セラ、止まるな。次が来る」
ルーク上等兵の声が、現実へ引き戻す。塹壕の中に入って来た兵士は殺した。けれど、まだ敵兵はわたしたちの塹壕に向けて走ってきており、一秒たりとも気を抜いてはいけない。
アインも、それを理解しているようで、銃を握りしめながら、塹壕から顔を出して敵兵を狙っていた。
撃つ。撃たれる。それらを数時間も続けているうちに、時間の感覚がどこかへ消えていった。
太陽が動いているのかどうかもわからない。空が明るいのか暗いのかすら、もう意識の外だった。
ただ、銃声と叫び声と、泥の匂いだけが延々と続く。
「弾、残ってるか!」
ルーク上等兵の声が飛ぶ。
その声を聞いて、わたしは震える手を必死に動かしながら、弾倉の中を確認した。残っているのは、たった三発。
(……もう、こんなに)
胸の奥がひゅっと縮む。
けれど、補給なんて望めない。
今はただ、目の前の敵を止めるしかない。
「三発です……!」
声が震えていた。
でも、ルーク上等兵は短く頷くだけだった。
「十分だ。無駄撃ちするな。狙えるやつだけ撃て」
その言葉は冷たく聞こえたけれど、責めているわけじゃない。
ただ、生き残るために必要なことを言っているだけだ。
アインも弾倉を確認し、息を呑む音を漏らした。
「俺も……あと五発」
「……ちっ。敵はまだ止まらねぇのかよ」
そんな会話をした時だった。
「おい、ルーク」
「シスか。小隊長のところにいたはずじゃ?」
ルーク上等兵が振り向く。
シス伍長は肩で息をしながら、泥だらけの顔で首を振った。
「その小隊長から伝令だ。弾がもう持たねぇ。このまま撃ち合ってもジリ貧だ。だから――突撃して敵を散らす。ついて来いってよ」
「了解、こいつらはどうする?」
「ああ、新兵たちもだ。人数が必要だってさ」
シス伍長の背中が泥の向こうに消えていくのを見送りながら、わたしは喉の奥がひどく乾いていくのを感じた。
突撃……この銃弾の雨の中を、この身一つで。
「……突撃、か」
アインが小さくつぶやく。
その声は震えていたけれど、逃げる気配はなかった。
「怖いのは全員同じだ。だが、ここで止まったら終わりだ」
ルーク上等兵は淡々と言いながら、銃の泥を手で払った。
その仕草が妙に落ち着いていて、逆に胸が締めつけられる。
「セラ、アイン。突撃は一瞬だ。考えるな。走れ。撃て。倒れたら俺が引っ張る」
わたしは小さく頷いた。
足が震えているのが自分でもわかる。でも、もう戻れない。
塹壕の奥から、グレン小隊長の怒号が響いた。
「全員、前へ! 準備しろ!」
その声は、銃声や爆音よりもずっと大きく、胸の奥に直接叩きつけられるようだった。
「行くぞ」
ルーク上等兵がわたしたちに目を向ける。その目は、恐怖を押し殺した兵士の目だった。
わたしは銃を握り直し、泥の中で足を踏みしめた。




