塹壕と訓練
次の日、わたしたちは塹壕を補修する作業を行っていた。
昨日の突撃で敵の指揮官を殺すことはできたが、代わりに多くの死傷者が出た。そのせいで、今日は休養という名目で、崩れた塹壕を直す羽目になったのだ。
とはいえ、わたしたちは運がいいほうだった。本来なら、補修中は敵の狙撃を覚悟しなければならない。
けれど昨日、敵の指揮官が倒れたことで向こうは混乱しているし、今は別の隊が少し離れた場所で突撃している。そのおかげで、敵兵はわたしたちの塹壕に戦力を割く余裕がないらしい。
(死ぬ可能性は昨日より低いけど……これはこれで地獄だな)
スコップを握った瞬間、手のひらがじんと痛んだ。昨日の突撃で潰れた豆が、まだ皮膚の下で生々しく疼いている。
握るたびに、じわっと血が滲む感覚があった。
でも、手を止めるわけにはいかない。
ここが崩れたら、次の砲撃でわたしたちはまとめて土の下だ。
「いてっ、マメ潰れた!」
ただし、横にいる馬鹿は例外とする。
「アイン、男なんだからまじめにやって。力あるんでしょ」
「いや、あるけどさぁ……痛いもんは痛いんだって」
「でも、しっかりしてよ。これって連帯責任なんだから」
今日の朝、小隊長から手を抜いたら全員まとめて罰を与えると言われた。
あの人は初日にわたしたちを殴るほど容赦がない。だから、何があっても罰だけは避けたかった。
「そっか、それならちゃんとやらないとな」
「最初っからやれっての」
わたしたちは再び地面を掘り始めた。でも、わたしの体重は軽く、筋力も少ない。
スコップを振り下ろすたびに身体がふらつく。
(……力が足りない)
わかっていたことだ。孤児院では重労働なんてなかったし、軍の訓練もまだ数日。それでも、やらなきゃ死ぬ。
土はただの土じゃない。これまでの血が混ざっているのか、鉄の匂いが鼻を刺す。湿った泥は重く、スコップを押し込むと、ずるりと足元が滑った。
「っ……!」
膝をついた瞬間、泥の冷たさが太ももに染み込んだ。その冷たさが、逆にここが戦場だと突きつけてくる。
今はまだ突撃しか経験していないから、この塹壕のありがたさを理解しきれていない。けれど、昨日の銃弾の雨を思い出すと、ここがどれほど命を守る壁なのか、嫌でも理解できる。
(……これがなかったら、一瞬で蜂の巣なんだ)
背筋がぞくりとした。
泥の冷たさよりも、もっと深いところが冷える。胸の奥に、氷みたいな塊が落ちていく。
(死ぬのって……こんなに近いんだ)
喉がひゅっと細くなる。呼吸が浅くなる。心臓が、泥の中で跳ねるみたいに早く打つ。
わたしは歯を食いしばり、スコップを押し込んだ。
「お疲れ様、ちゃんと作れたか?」
「はい、終わりましたよ。それで、今から訓練なんですか」
「そうだな、すぐにグレン小隊長のところに行こうか」
塹壕を補修し終えた後、わたしたちはルークさんに報告しに行った。
塹壕を作っていたせいで、腕は腕は上がらないし、走ることさえ難しい。肩は鉛みたいに重く、手のひらはひりひりと焼けるように痛む。
泥で重くなった軍靴を引きずるたび、足首がぎしりと軋んだ。
(……もう限界なんだけど)
本音ではその場に倒れ込みたかった。
でも、そんなことをしたら、あの小隊長に何をされるかわからない。
「ほら、行くぞ。小隊長は待つのが嫌いなんだ」
ルークさんも、疲れているはずなのに歩幅が乱れない。背筋はまっすぐで、泥に汚れた軍服が妙に頼もしく見えた。
わたしとアインは、その背中を追いかけるように歩き出す。
「訓練って……何するんですかね」
アインが軽い調子で言う。
「おそらく、身体がまだ動くか確かめる訓練だ。昨日も小隊長一人で突っ込んで、誰も追いつくことが出来なかったから、それが不満なんだろう。……かなり辛いから、覚悟しとけよ」
どうやら、ルークさんも乗り気じゃないようだ。歩く速さはいつもと同じ……いや、ちょっとだけが速かったけど、口から出た言葉の節々に、不満と嫌気が含まれていた。
……どうやら、今からする訓練は、四年も従軍している人でさえ、嫌だと思える品物らしい。
(女だから楽にしてくれることは……あるわけないか。戦場は男女平等だしね)
少しだけ、楽にならないかなぁと期待したけれど、グレン小隊長は徹底的に平等だ。年齢、性別関係なく、わたしたちの能力しか見ない。
だから、わたしの訓練を楽にしてくれるとか、してくれるわけも無かった。
「ちっ、遅いぞ! 早く来い!」
訓練場に着いた瞬間、グレン小隊長の怒声が飛んだ。昨日の突撃であれほど暴れ回っていたはずなのに、息一つ乱れていない。
今日も朝から塹壕を作っていたはずなのに、どうしてそこまで元気なのだろうか。本当に、人間じゃない。
「整列!」
グレン小隊長の怒声が、乾いた空気を震わせた。わたしの背筋が反射的に伸びる。
疲れているとか、腕が上がらないとか、そんな言い訳は通用しない。
「昨日の突撃、誰も俺について来れなかったな」
その声は低く、怒っているというより呆れているようだった。
「前線の兵士が走れねぇ? 笑わせるな。走れなきゃ死ぬ。死にたくなきゃ、走れる身体を作れ」
胸の奥がぎゅっと縮む。否定できなかった。
昨日、わたしたちは全力で走った。それでも追いつけなかった。
「突撃は速さが命だ。遅れた奴から死ぬ。だから今から、お前らがどれだけ動けるか確かめる」
グレン小隊長は地面を指差した。
「走れ。昨日追いつけなかった分、今日で取り戻せ」
そうして、地獄が始まった。
「……っ……は……っ……っ……」
意識が遠のいていく。足の感覚はとうに消え、大地を踏みしめていることが自覚できなくなってしまっていた。
肺が勝手に暴れて、空気を求めて痙攣する。吸っても吸っても足りない。
喉の奥がひゅうひゅうと鳴り、胸が締め付けられる。
(息が……吸えない……)
視界の端がじわりと黒く染まっていく。地面が揺れているのか、自分が揺れているのかもわからない。
腕も、脚も、もう自分のものじゃない。ただ前に投げ出されているだけの、重い肉の塊みたいだった。
けど――
「ガキッ! 止まるな、走れ!」
グレン小隊長の怒声が聞こえた気がした。でも、言葉として理解できない。
音が遠くで反響しているだけだった。
(走れって、無理……)
視界が傾く。平面だったはずの地面が、急に斜面になってしまい、その変化に対応できなかったわたしは、その斜面を転がり落ちそうになる。
大地との接吻。重力という世界で生きる生物では抗うことが出来ない力に、身体が引きずられていく。
でも……
「あぶなっ」
「……あ、いん?」
地に墜ちる刹那、アインがわたしの身体を肩で支えた。アインの身体が接近し、泥の匂いと汗の匂いが混ざった空気が鼻を刺す。
それでも、地面に叩きつけられるよりはずっとましだった。
アインの腕がわたしの背中に回る。でも、その力は頼りなくて、わたしの体重を完全には支えきれない。
身体がずるりと滑り落ちそうになる。
「おい、しっかりしろって……!」
声が震えている。焦っているのがわかった。
「あり、がとう……」
「へへっ、言っただろ。助けるって」
アインが支えてくれた。その事実は、とっても嬉しくて、胸の奥がじんわりと温かくなるのを感じた。
けれど、これはただの自己満足。戦場の理不尽という物を、わたしたちは何も知らなかったんだ。
「おい」
グレン小隊長が、背後から低く声を落とした。怒鳴り声ではない。 むしろ、静かすぎて背筋が凍るような声だった。
アインの肩がびくりと震える。わたしを支える腕に、さらに力がこもった。
「しょ、小隊長……」
「お前、戦場でもそれをするつもりか?」
グレン小隊長の言葉は、氷みたいに冷たかった。怒っているわけでも、呆れているわけでもない。ただ、戦場の残酷さを突きつけているだけの声。戦場は、甘くない。後世の人から見れば、美談と言える話でも、戦場の人から見れば、銃弾一つの価値もない。
逆に、後世の人から見れば、残酷、残忍、悪とでも言うべき話は、戦場ではこれ以上ない美談として扱われる。そんな世界で……アインの行動は、とても褒められるものでは無い。
アインの喉がつまったように動く。返事をしようとして、できない。
「倒れた仲間を抱えて走る余裕があると思うか?」
「それは……」
「仲間を見捨てたら、死者は一人だ。だが、仲間を救おうとしたら、死者は二人。単純な算数だ。お前みたいなガキでも分かる話だろう?」
「でもっ」
アインが、グレン小隊長に歯向かおうとした、その瞬間だった。わたしの身体が、一瞬だけ重力に逆らい、背中に衝撃が走った。
「あいん……」
それは、アインも同じで、彼もまた宙に浮いて、地に打ち付けられたのだ。
そう……グレン小隊長に殴り飛ばされて。
「……っぐ……!」
アインが苦しげに息を吐く。その声が、わたしの耳には遠く、くぐもって聞こえた。
理解が追いつかない。でも、グレン小隊長の動きはあまりにも速くて、わたしの朦朧とした視界では追えなかった。
「お前、オレに逆らう気か。もう一度言うぞ。お前らは戦争に勝つための道具だ。オレが最大限活用してやるんだから、オレの言うことを破るな」
アインは地面に手をつき、震える腕で必死に身体を起こそうとする。
泥が指の間からこぼれ落ちる。
「……っ、こ……たい……ちょ……」
かすれた声。痛みと悔しさと恐怖が混ざり合い、言葉にならない。殴られた衝撃で、呼吸が乱れている。胸が上下するたびに、苦しげな息が漏れた。
それでも、アインは顔を上げた。泥にまみれた頬を歪め、必死にグレン小隊長を見据える。その目には――怒りでも反抗でもなく、ただ折れまいとする意地だけが残っていた。
グレン小隊長は、そんなアインを見下ろし、まるで壊れた部品を確認するような無表情で言った。
「言われたことしか出来ねェ道具に価値はない。だが、言われたことすら出来ねェ道具に価値はない。わかったか」
アインは、それでも反抗しようとして、口を動かす。けれど、アインもわたしと同じように、ずっと走っていたんだ。限界なんて、とうに超えている。
それに加えて、あの小隊長からの体罰だ。まだ十四歳の子供が耐えられるはずもない。アインは、身体から一瞬で力が抜けて、地面に倒れ伏した。
(わたしを……支えたせいで……)
胸の奥が、ぎゅっと縮む。呼吸はもうまともにできないのに、その痛みだけははっきりと感じた。アインの身体が、泥の上に崩れ落ちる音がした。
その音が、わたしの耳にはやけに重く響いた。
「ちっ、この程度で気絶すんのかよ。ルーク! さっさとこのガキを運べ。貧弱なガキもだ!」
「小隊長……まだ十四歳の子供ですよ。ここまで厳しくする必要はないじゃないんですか?」
「あァ? ふざけたことを言ってんじゃねェ。六年だ! 銃が戦場を支配するようになって、六年が経った! もう少しで、騎士の時代の古臭い考えが完全に消え、近代の銃に適応した戦略が出始める頃だ! それが、オレらバリエーヌか、スレブルグのゴミ共が先か分かんねェんだ! 先に出来上がったほうが、一瞬で戦場を支配する! だから、一秒たりとも、無駄に出来ねェんだよ!」
グレン小隊長の焦り。戦場の変化。その言葉の一つひとつが、わたしの頭の奥に、妙に鮮明に染み込んでいく。
本当なら、こんな状態で何かを理解できるはずがない。呼吸は途切れ途切れで、視界は揺れ、身体はもう自分のものじゃない。それなのに――心だけが、やけに冴えていた。
(じかんが……ない?)
その言葉が、胸の奥でゆっくりと沈んでいく。沈むたびに、何か冷たいものが広がっていくようだった。
そして……そのまま――わたしの意識は、闇に沈んだ。




