嫌だ
「敵かァ? ……いや、そういう事か」
「く、来るなっ!」
グレン小隊長は、半ば眠りから覚めたばかりとは思えない鋭さで周囲を見回し、敵影がないと確認すると――次の瞬間には、わたしたちを見下ろしていた。
その視線は、雨より冷たく、刃物のように鋭い。レオン二等兵が怯え、懐へ手を伸ばす。銃を抜こうとする――が。
「馬鹿野郎」
乾いた声音とともに、何かが風を裂いた。
「がっ――!」
レオン二等兵が動いた瞬間には、グレン小隊長のつま先がすでに目前に迫っていた。
鈍い衝撃音とともに、レオンの身体がわたしの上から弾き飛ばされる。泥を巻き上げ、闇の中へ叩きつけられたレオンは、声すら出せずに身体をくの字に折り曲げた。
「お、おぇ……っ……」
腹に受けた衝撃が大きすぎたのか、レオン二等兵から、嗚咽のような声が漏れる。
そして、わたしは、押しつけられていた圧力から解放され、喉が大きく空気を吸い込んだ。ひゅう、と情けない音が出る。それでも、肺に新しい空気が満ちていく感覚が、あまりにも鮮明で――生きている、と理解できた。
「チッ、力を強くしすぎたか……」
低く、わずかに苛立った声が耳に落ちる。
それはレオンに向けられたものではなく、自分自身への独り言のようだった。
「ごほっ……っ……ぁ……」
レオンは泥の中で咳き込み、腹を押さえながら必死に呼吸しようとしている。
錯乱していたはずの目は、痛みと恐怖で揺れていた。グレン小隊長はゆっくりと一歩、レオンへ近づく。その足音は重く、雨音さえ飲み込んでしまいそうだった。
「……何をしていたか、自覚はあるんだろうな」
「……っ!」
レオン二等兵は、腹の痛みに必死に耐えながらグレン小隊長を睨みつけるが、その程度のことで怯む小隊長ではない。むしろ、一度睨まれたことにより、機嫌が悪化したようにも感じられる。
「セラ、どこまでされた?」
「未遂ですけど……」
結果的には、殺人未遂と強姦未遂。でも、その時点で軍規に違反している。でも、軍規ではそれだけで重罪になってしまう。
どれだけわたしが庇おうとしても、もうグレン小隊長に見られており、それを隠ぺいすることが出来ない。もう、どうしようもない……どうしようもないんだ。
「未遂か、ならいい。それなら、これからも戦える」
「……そういう人ですよね。小隊長は」
小隊長は、どうやらわたしが妊娠することによって、兵士が一人少なくなることを心配しているらしい。……うん、予想通りだ。それ以外の理由で心配されてしまったら、逆に怖くなってくる。
良くも悪くも、戦争に勝つことしか考えていない人。それが、グレン小隊長なのだから。
それに対して、レオン二等兵は、グレン小隊長を睨んでいるものの、何もすることが出来ていない。
先ほどの蹴りで、取り出そうとした銃は、手が届かないほど遠くに飛ばされ、手元に武器が残されていない。彼に出来ることと言えば、必死に許しを請うことだけだろう。……でも、結果になんて、わかりきっているんけど。
「う、うるさいなぁ」
レオン二等兵とグレン小隊長が黙って向かい合い、世界が雨の音だけで満たされた時、ようやくルークさん達が目を覚ました。出来れば、もう少し早く起きてほしかったけど、そんなことを言ったって、現状は何も変わらない。
あぁ、ほんと……どうするのが正解だったんだろう。わたしは、こんなことになってほしくなかったのに。
「わっ、セラ。お前……大丈夫か? ついに露出狂に目覚めたのか?」
「……うるさい」
「うるさいって言われた!?」
シス伍長が、レオン二等兵によって、服装を乱されたわたしを見て、余計なことを言ってきたけど、今はそれどころじゃないんだ。今から起きるのは、仲間の一人の処刑。何故こんなことが起きてしまったのかと言うと――全部、わたしのせいなんだ。
「セラ、グレン小隊長……」
「文句あるのか?」
「いいえ、軍規ですので」
ルークさんが、何が起きたのか察したようで、わたしたち二人を見るが、それ以上何も言わず、レオン二等兵から目を逸らした。彼も、分かっているのだろう。こんなことをしてしまった以上、彼を助けることは出来ず、見捨てるしかないと。
そして、シス伍長や他の先輩方も、ルークさんの言葉で何が起きたのかを察し、これから何が起きるのかを理解した。分かっていないのは、わたしよりも後に来たレン伍長だけ。
誰も、彼に説明することは無かった。
「言い残すことはあるか」
グレン小隊長が、レオン二等兵に重く問う。
「はぁ? あぁ、俺はあの女に誘われたんですよ。だから、罰するのはあっちにしてください。あんな女より、俺の方が役に立ちますよ」
レオン二等兵は、わたしを見て、憎悪と恐怖が混ざったような目で吐き捨てた。
そのどろっとした感情で、息が詰まる。でも、わたしはソレに耳を貸さなかった。
「何か言ったらどうだ? わたしを庇っていく男を見るのは滑稽でしたとか、馬鹿ばかっかりで扱いやすかったですとか。本心を言えよ、糞女」
だから、その言葉に傷ついていない。これは狂気に染まった男の戯言で、聞く必要のない言葉の羅列だからだ。……だから、だから、この痛みなんて無視してしまえ。こんな言葉で傷ついてちゃ、これからの戦いについていけないから。
ルークさん達も、その言葉を受けて、レオン二等兵に対して哀れみを向けていた。きっと、彼らもこうなった人を何人か見たことがあるのだろう。戦場のストレスに心を壊して、自暴自棄になってしまった人を……。
「はぁ、よくわかった。遺族には、息子さんは味方の足を引っ張って、何の意味も無く死にましたと伝えておくよ」
「は? 何言ってんの? 俺とそのクソ女、どっちの方を生かすべきか分かっているよな!? せめて、糞女は殺せよ! そうじゃなきゃ――」
「うるせェ! そんなの、セラに決まっているだろォが! お前のような諦めた奴が、これから成長するわけあるか! この戦場を見ろ、もう時間は残されてねェ、お前なんかの成長を待つ時間なんて、どこにもねェんだよォ!」
グレン小隊長の怒鳴り声が、塹壕内で大きく響く。
それはもはや雷のようで、今もなお振り続ける大雨と共に空気を震わせていた。
レオン二等兵は、その声に怯えたのか、泥の中で身体を縮めた。それでも、彼の口は止まらない。
止められないのだ。
壊れた心が、最後の抵抗のように言葉を吐き出している。
「ふざけるな……! 俺は……俺はまだやれる……! あいつより……俺の方が……!」
その声は、怒りというより、自分の価値を必死に証明しようとする、追い詰められた人間の叫び だった。
グレン小隊長は、そんなレオンを冷たく見下ろす。
「お前はもう戦えねぇよ。戦場に耐えるために、敵では無く味方に憎しみを向けるような奴は、いるだけ邪魔だからな。……じゃあな、二度と足を引っ張るな」
グレン小隊長の持つ軍剣が一瞬だけ煌き、赤い液体がレオン二等兵の身体から流れ出て来た。
死んだ。
死んだ。
死んだ。
その血液は、塹壕内の水を赤く染め上げ、流れるように奥深くへと流れていく。
この塹壕が、排水のことを考えた構造でよかった。そのおかげで、彼の血がこの場所に留まることはなかったんだから。
(違う、そうじゃないでしょ)
わかってる、わかってる。アインの死や、ルカの死とは違う。レオンは、わたしが殺したんだ。
アインは、わたしを庇って死んだ――でも、殺したのは敵兵。
ルカは、わたしが守れなかったから死んだ――でも、殺したのは敵兵。
けれど、レオンは……わたしが余計なことを言って、最後の引き金を引かせたんだ。だったら、彼を殺したのは、敵兵でもなく、グレン小隊長ではなく、この国の軍規でもなく、わたしの言葉が彼を殺した。
「グレン小隊長、そこまでする必要は……」
「あァ? 何か文句あるのか?」
少しの間硬直していたレン伍長が、やっと意識を取り戻し、グレン小隊長に声を上げた。
「彼を殺す必要は無かったはずです。無駄に人の命を失わせるのは、この戦場で――」
「お前は、アイツの命に価値があると思っているのか? 味方の足を引っ張る奴の命なんて、ゴミ以下の勝ちしかねェよ。戦場は綺麗事だけで回っていねェんだ。さっさと受け入れろ、坊ちゃま」
その言葉を聞いたレン伍長は、まるで胸の奥を殴られたように、わずかに息を呑んだ。
だが――引き下がらなかった。
むしろ、足を前に進め、グレン小隊長へと距離を詰める。
「……小隊長。私の祖父のことを忘れていませんか? 私がこの部隊に配属された理由は、貴方が部下の命を無駄にしているという噂があったからですよ」
「それがどうした? この件については、軍規に従ったまでだ。あの人だって、俺の行動を肯定するだろうな」
「いいえ! レオン二等兵がしたことは許されないことかもしれませんが、教育すれば立派な兵士にすることが出来たはずです!」
レン伍長は、性善説を信じすぎていた。わたしの目から見ても、レオン二等兵はどうしようもない状態まで追い込まれていて、もし生き残らせたとしても、すぐに死んでしまいうことは予想できたし、わたしの足を引っ張るどころか、この部隊全体を危険に晒すことさえ想像できてしまう。
それは、わたしが被害者だから、バイアスをかけて彼のことを見ているからかもしれない。 でも――それでも、個人的にレオン二等兵に対して恨みや憎しみは無かった。
ただ哀れで、悲しささえ覚えている。
だからこそ、レン伍長の言葉は、どこか遠くの理想論に聞こえた。
「お前は、兵士のことを何もわかってない。人間ってのは醜悪で、どうしようもない獣なんだぞ。それでも、理想をほざくってんなら、その理想に裏切られて死ね」
グレン小隊長の声は、雨より冷たく、刃のように鋭かった。その言葉は、レン伍長の胸を容赦なく突き刺す。
それでも、レン伍長は言い返そうとするが、その言葉はどれも理想論で、重みが無い。予想だけど、グレン小隊長とレン伍長の意見が合うことは、決してこないだろう。戦場で育った人と、学校で育った人……環境が違いすぎて、互いの常識を少しも理解していない。
だから、この言い合いは絶対に終わらない。
(どうして、こんなことに……)
レオン二等兵が死んだ。
グレン小隊長とレン伍長の意見が割れた。
もし、レオン二等兵に手を差し伸べようとしなければ。
もし、あの時わたしが逃れようとせず、レオン二等兵の愚行を受け入れていたのなら……こんなことはきっと、起きなかったのだろう。
(間違ってる。けど……)
胸の奥が、じわりと痛んだ。レオン二等兵の死を前にして、わたしの中で何かが軋む。
彼が犯したことは許されない。
でも、だからといって――こんな終わり方を望んだわけじゃない。
「ごめんなさいごめんなさいごめんなさい」
誰に謝っているのか分からない。
グレン小隊長なのか、レン伍長なのか、それとも――もう動かないレオン二等兵に向けてなのか。
でも、どれでもよかった。
ただ、胸の奥から溢れてくる言葉を止められなかった。
(わたしが……引き金を引いたんだ)
その思いが、雨より冷たく、重く沈んでいく。
視界が滲む。雨のせいなのか、涙のせいなのか分からない。ただ、世界がぼやけていく。
「もう……いやだよぉ」
世界が、ゆっくりと暗転していく。音が遠ざかり、雨音だけが薄い膜の向こう側で響いている。
グレン小隊長の怒鳴り声も、レン伍長の震える声も、ルークさんの気配さえも――全部、遠くへ押し流されていく。
胸の奥で何かがひび割れ、その隙間から、暗い水がじわじわと満ちてくるようだった。
(わたし……どうすればよかったの)
問いだけが、意識の底に沈んでいく。
そして――視界が完全に闇に飲まれた。
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