雨
「シス伍長、大丈夫ですか?」
「いいや、まだ何とかなってる。でも、もうそろそろヤバいかもな。セラも気を付けろよ」
「気を付けたところで、何とかなるんですか?」
「それもそうだな」
二日が経った。それでも、わたしたちはまだこの塹壕にこもり続け、泥と血の匂いが混ざった空気の中で、敵兵の突撃を食い止めていた。
雨は止む気配を見せず、地面は完全に泥へと変わり果てている。それなのに、敵兵は足を取られながらも、まるで壊れた玩具みたいに同じ動きで突進してくる。
泥に沈んだ足を引きずり、銃を構え、叫び声を上げながら。見ているだけで、正気を失いそうになってくる。
「レオン、レン伍長、まだ大丈夫か?」
「……」
「えぇ……一応、ですけど。塹壕とは、ここまで地獄みたいな環境だったのですね」
ルークさんが、新人であるレオン二等兵とレン伍長に声を掛けている。
レン伍長は、かなり参っている様子ではあるものの、軍学校卒なこともあり、何とかこの状況に耐えることが出来ていた。しかし、おそらく一般家庭から軍に来たレオン二等兵は、返事すら出来ないほど参っており、見ているだけで心配になってくる。
けれど、わたしはレオン二等兵に声を掛けることすらしなかった。
それは、レオン二等兵とあまり仲が良くないからという理由もあったのだが、何を話していいのか分からなかったからだ。わたしにとって、レオン二等兵はたちは、初めての後輩であり、こんな状況も初めてだ。だから、正解がさっぱりわからない。
それともう一つ、わたしも限界にかなり近かったという点だ。
「こんな大雨、年に一回くらいしか来ねぇよ」
「そうですか……。初めての塹壕が、これということはかなり運が悪かったのですね」
「どんまい」
そう、二日前から天候がずっと悪く、常に冷たい雨が、上空から降り注いでいるのだ。
もちろん、雨が降っていない時の塹壕も地獄なのだが、雨が降っている時の塹壕は、地獄と表現すら生温いほどの環境になってしまう。
まず、雨宿りが出来ないという点だ。塹壕には、屋根が無く、雨水を遮る物が存在しない。そのため、朝も、昼も、夜の寝ている時すらも、常に身体が雨水で冷やされ、体調を崩しやすく、身体を温めることすら出来ないという最悪の環境が出来上がってしまう。
他には、地面が泥になることによる問題や、塹壕足と言う寒冷や湿潤、不衛生な環境に長時間晒されることによって起きてしまう症状など、普通の塹壕では起きない問題が数多く存在する。特に、塹壕足は最悪、足を切断する可能性もあるため、本当になりたくない。
「終わってほしいですね、これ」
「ほんと、この時期だけは、戦闘をしないって協定を結んでほしいくらいだ。特に、感染症になったりする可能性もあるから、本体ここに居るべきじゃないんだよ」
「うわっ、それもありましたね……」
大雨のせいで、糞尿や血液が雨水と混ざり合って、塹壕の中に入ってくることもある。そんなことになってしまったら、そこから感染症が広がるのは時間の問題だ。
今のところ、わたしたちがいるところは、比較的清潔な状態だ。だから、他のところに比べたら、感染症になる可能性は低い。ただ、それでも普段の塹壕に比べたら、間違いなく不潔であり、感染症になる確率はどうしようもなく高かった。
「おい」
すると、グレン小隊長がわたしたちの方にやって来て、泥を踏みしめる重い音を響かせながら立ち止まった。
「シス、兵の状況を教えろ」
「突撃なら無理ですよ。かなり何人か塹壕足になってしまいましたし、この状況で走ることが出来る人を集めたところで、人数が足りません」
「そうか」
どうやら、グレン小隊長は、敵の方へと突撃出来ないかと考えていたらしい。
けれど、こんな状況で突撃なんて、出来るはずもない。それは、グレン小隊長も察していたようで、ほんの一瞬だけ、眉間に深い皺を刻んだ。
「小隊長、これはいつまで続くんですか?」
「今朝、通信機で明日交代するという連絡が来た。一度、夜を超える必要があるが、そこまでだ」
「やっとか。敵兵の動きはどうだと思いますか?」
「自分で考えろ」
グレン小隊長は、即答した。
けれど、珍しいことに……本当に、珍しいことに、そのあと言葉が続いていたのだ。
「おそらく、もう敵兵の突撃は無い」
「え? 本当ですか?」
「あァ、さすがにコンディションが悪すぎる。こんな状態で突撃すれば、泥でこけて格好の的になるのがオチだ。しまいに、この塹壕の中にはオレがいるってわかっているんだから、ここまで届いても逆に殺されるだけだと分かっているだろうよ」
「……めずらしいですね。グレン小隊長が説明をするなんて」
ルークさんが苦笑混じりに言うと、小隊長は鼻で笑った。
「フン、戦力としては期待してねェが、せめて知能だけはオレに追いついてもらわねェと、勝てる戦闘も勝てねェからな。少なくとも、シスやレンはこのくらいのことが分かるようになれ。シスの場合は、分かった上で聞いてきたんだろォけどよ」
「ははっ、バレていましたか。レンやセラにとって、良い教育になると思ったんでね」
どうやら、シス伍長がこんな質問をしたのは、わたしたちに教育をするためだったらしい。
でも、どうしてわたしとレン伍長なんだろうか。レン伍長に教育するのは当然だ。何故なら、軍学校と言う場所に通っていて、今では伍長と言う立場になっているんだ。期待されている部分も、かなり大きいだろう。
しかし、わたしまで含まれているのは、意味が分からない。
レオン二等兵が含まれているのなら、まだ新兵という括りになっていることがわかるのだが、シス伍長はレオン二等兵のことを言及しなかった。つまり、教育しようとしたのは、わたしとレン伍長だけであり、わたしも期待されているということだった。
(でも、どうして?)
期待されている理由に、心当たりが全くない。
身体能力は、レオン二等兵よりも優れているが、それも今だけだ。後二カ月もすれば、きっと追い抜かれる。かといって、頭脳が優れているというわけでもなく、シス伍長とグレン小隊長の話にはついていけない。だから。期待されているはずがないんだ。
そんな時――
「よかったな、セラ。期待されてるってよ。それに、グレン小隊長は少なくともと言ったから、きっとセラに対しても期待してると思うぞ」
「ルークさん?」
急にルークさんが、頭をガシガシと撫でて来た。正直、やめてほしい。
連日の雨のせいで、わたしの髪はガサガサになっており、ルークさんが手を動かすたびに、指が引っ掛かって顔ごと動いてしまう。
「ちょ、ちょっと……痛いですってば。それに、期待される理由なんて……」
「いいや、普通にあるぞ。何せ、セラは勘が鋭いんだ。勘ってものは、何年も戦っている兵士でも、手に入れることが出来ない奴はざらにいるんだ。だから、もっと自分のことを評価していい」
勘がいいってことは、自覚している。でも、それだけで期待されているとは到底思えなかった。だって、わたしの勘は、わたしだけしか助けない。もっと勘が鋭かったのなら、ルカはきっと今でも生きていたはずなのに。
「そう、なんですかね」
「そうだよ」
けれど、こんなことを言ったって、何も解決しない。死んでしまった人は、もう二度と帰って来ない。だから、わたしは言いたいことを堪えて、ルークさんの言葉に小さくうなずいた。
たぶん、ルークさんも、わたしの内心には気づいているでも、何を言ったところで慰めにならないことも、きっと分かっているのだろう。
だから、それ以上は踏み込んでこなかった。
「それで、グレン小隊長はいつまでここに居るんですか」
「あァ? どこにいても良いだろ。こっちの方がマシなんだから」
「うわぁ。権力乱用だ」
そんなことを話している間にも、シス伍長とグレン小隊長は軽口を交わしていた。
正直、グレン小隊長が軽口を交わすなんて、思ってもいなかった。だって、いつも何処か焦っており、理不尽な暴力はしないものの、かなりキツい体罰をしてくる人物だったからだ。
そのため、部下からの軽口なんて、絶対に許すことは無く、軽口を言った瞬間に暴力を振るう……そんなイメージを持ってしまっていた。
でも、実際は予想よりも穏やかであり、取っ付きやすい人物に思える。もちろん、今までの体罰のせいで、碌に話しかけることは出来ないし、何より今の状況に参っているだけで、普段のグレン小隊長の方が本性なのかもしれないからだ。
「オレは寝るから、明日になったら起こせ」
「……予想が外れる可能性を考慮しましょうよ」
「足音か、銃の金属音が聞こえたら、一瞬で起きる」
「はぁ、わかりましたよ」
グレン小隊長は、そう言って目蓋を閉じた。
足音と金属音で起きる……何年も前線で戦っているグレン小隊長ならば、それはきっと本当に出来ることなんだろうけど、それよりもずっと大きな音である話声で起きないのはどういう理由なのだろうか? それとも、何年も戦っていれば、身体が勝手に必要な音だけを拾うようになるのか?
けれど、そんなことは考えるだけ無駄なこと。
その後のわたしたちは、真面目に見張りを続けていった。




