呪い
「雨が、降ってきたな」
「……はい」
夜が明けた。 敵兵が来ないことを確認し、わたしたちは交代で眠りにつき始めていた。
その最中、空がゆっくりと雲に覆われていき、ぽつ、ぽつ、と冷たい滴が土の上に落ち始める。
最初は気のせいかと思うほど弱い雨だったが、すぐにその気配は確かなものになった。
湿った空気が塹壕の中に流れ込み、血と土の匂いを薄めていく。
それなのに、胸の奥の重さだけは、雨でも流れてくれなかった。
「セラ……」
「なん、ですか?」
すると、ルークさんがわたしに声をかけてきた。
その声には、わたしに対しての気遣いのようなものが含まれていて、どこか申し訳ないと思ってしまう。けれど、どう返事をしたらいいのだろうか。全部、わたしが悪いのに、ルークさんに、さらに心配をかけてしまうなんて。
でも、そもそも、間違えてたんだ。
わたしは、自分のことを一人の兵士だと自覚していたが、先輩たちから見れば、十四歳の少女にしか見えない。いくら一人で抱えようとしても……抱えられるはずがない。
雨脚が少し強くなり、塹壕の壁を静かに叩く。その音が、胸の奥のざわつきをさらに際立たせる。
「セラ、本当に……大丈夫か」
ルークさんの声は、雨よりも柔らかくて、逃げ場がなかった。
気遣いだと分かっている。
でも、その優しさに触れた瞬間、心のどこかがきしむ。
「……大丈夫です」
そう答えるしかなかった。答え方が分からない。
弱音を吐く場所なんて、最初からどこにもない。
「はぁ……ちょっとマシになったんだなと思ってたが、まだまだ子供なんだな。セラは」
「ルークさん……?」
すると、ルークさんが大きい溜息を吐き、呆れ半分でわたしの頭をガシガシと撫でて来た。
もう……子供じゃないから、やめてほしい。
「る、ルークさん!?」
「馬鹿。まだ子供なんだから、一人で抱えるな」
「子供じゃなくて、一人の兵士で……」
「いいや、セラはまだ子供だ。一人の兵士と呼ぶには、まだ早すぎるよ」
「……そんなこと、ないです。わたしは……」
言い返そうとした言葉は、喉の奥でつかえて出てこなかった。
雨音が強くなり、ぽつぽつと落ちる滴が、まるでわたしの声を奪っていくみたいだった。
「いいや、まだ兵士ではない。でも、それでいいんだ。兵士なるってことは、人でなしになるってことだから、子供のままでいいんだよ」
ルークさんが、優しくそんなことを言ってくる。
でも、それを受け入れることなんて、到底できやしない。だって、わたしはすでに人でなしだ。ルークさんがどれだけ否定したとしても、その事実だけは、永遠に変わらない。
そう、人でなしなんだ……アインが自分の命を捨ててまで守った人は、とんでもない、人でなしだったんだ。
「わたし、ルカが死んだ時、なにも思わなかったんです」
わたしは、恐る恐る……まるで、懺悔をするように言葉を紡いでいく。
「本当なら、わたしはルカに手を伸ばすことが出来たはずなんです。でも、嫌な予感がして……自分の命の方を優先した。なのに、今この瞬間までずっと、わたしは正常に動くことが出来たんです。こんなの、人でなしでしょう? 普通、自分のせいで、後輩が死んだら、もっと悲しまなくてはいけないはずなのに」
懺悔しても、ルカの死に対して、何の感情も浮かんでこない。罪悪感はある。でも、それだけ。
何が正解なんだろう。この胸を苦しませる何かはあるのに、それが何なのかもわからず、解消する手段すらも知ることが出来ない。
「……セラ」
ルークさんの声が、雨音の向こうから静かに落ちてきた。
責めるでもなく、慰めるでもなく――ただ、受け止めようとする声だった。
「それだけで、十分なんだ」
「えっ」
その声は、ルークさんの声にしては、信じられないほど、冷たくて、冷酷だった。
「死者に対して、それだけ思えるだけでいい。俺なんて、誰かが死んでも、それを引きずることが出来なくなってしまったんだから」
その時のルークさんの言葉に、思わず息を呑んだ。優しい声で慰めてくれると思っていたわけじゃない。
でも――こんなにも乾いた声が返ってくるとは、思っていなかった。
「……引きずることが、出来なくなった?」
わたしの問いは、雨音にかき消されそうなほど小さかった。だって、アインが死んだ時、ルークさんは悲しんでくれていたじゃないか。
「そうだよ。もちろん、感情が枯れたわけじゃない。仲間が生き残ったら、嬉しく思うし、新兵が死んでしまったら、悲しいと思う。……そして、その死に意味を勝手につけて、心を安定させようとすることもある。でも、結局……それを受け入れてしまってるんだ」
ルークさんは、暗蓋を見上げた。わたしたちの頭上は、厚く黒い雲に覆われており、大きな水滴が、滝のように降ってきている。
でも、ルークさんの横顔を濡らしても、彼の表情を変えさせることはなかった。
「俺たちにとって、死はゴールなんだ。だから、長い間一緒にいた仲間が死んでしまった時は、祝福してしまうんだ。それが、喜ぶべきことじゃないって、わかっているはずなのにな。……これは、シスも、グレン隊長ですら、同じなんだ。ほんと、救いようがない人でなし」
その時のルークさんの顔は、一生脳裏に焼き付いている。
どれだけの幸せを感じても、どれだけの地獄を経験しても、長年前線で戦ってきた人の絶望は、呪いのように焼き付いて離れない。
「それに比べて、セラはまだ罪悪感を抱えることが出来ている。それは、俺たちがずっと前に手放してしまった感情。だから、それを無くさないでくれ。捨てないでくれ。身勝手なことだってわかってる。でも、セラは俺らにとっての光なんだから」
その言葉は、雨よりも冷たくて、重たかった。
歪んだ希望、永遠に届かぬ理想の心。それらが、複雑に絡み合って。わたしに襲い掛かってくる。
やめることは出来たのかもしれない。
わたしも、ルークさんのような兵士になることが出来たのかもしれない。
その道は、きっと楽であり、この苦しみから解き放たれるだろう。
でも……でも……今のルークさんの目を見たら、そんなことは出来なかったんだ。
人生を諦め、大事な物を失い、救いを待ち続ける虚ろな目。それを見てしまったから、わたしはわたしを捨てることが出来なかった。
あんなふうになりたくない。あんなふうに、何も感じられなくなるなんて、嫌だ。
「きっと、その道は辛いだろう。俺たちとは違って、仲間の死を一人ひとり背負って、きっと動くことすら出来なくなる。でも……それでもいいんだ。お前は、それを感じられるうちに、感じてくれ」
ルークさんの声は、雨音に溶けていくように低かった。諦めでも、期待でもない。
ただ、壊れた心の奥底から絞り出された、本音だった。
「わかり、ました。ルークさんの願いしっかり受け取りましたよ」
そう言った瞬間、自分の声がひどく遠く聞こえた。雨に溶けていくような、頼りない声だった。
でも、それだけでルークさんには伝わってくれた。この誓いは、きっと間違いなんだろう。だって、ずっと嫌な予感がしているから。
胸の奥が、じわりと重くなる。まるで、これから先の未来が、雨雲のように黒く垂れ込めているのが見えるようだった。
「ごめんな、本来は俺が励ますはずだったのに」
「大丈夫です。決心がつきましたから」
ルカの死の罪悪感は、未だ薄れていない。
アインの死とルカの死。きっと、これから先……わたしが背負っていく死は増え続ける一方だろう。でも、それで良いんだ。それが良いんだ。死を背負うことが出来ているということは、わたしが未だ人だということの証明になるのだから。
「じゃあ、見張りを続けるか」
「そうですね」
雨はやまない。むしろ、どんどん強くなっていく。
塹壕の地面は、もう泥に変わっており、全身が濡れて酷く気持ち悪い。
でも、その不快さすら――今のわたしには、ちょうどよかった。




