夜
「おい、全員揃ったか?」
その声は、空気を震わせるほどの圧を帯びていた。
わたしたちが駆け寄ると、グレン小隊長は腕を組んだまま、鋭い視線で一人ひとりを確認する。
「……よし」
短くそう言っただけで、場の空気がさらに張り詰めた。
ルカは緊張で喉を鳴らし、わたしの背中にぴたりとついてくる。
(やっぱり……ただ事じゃない)
胸の奥の嫌な予感が、さらに強くなる。
グレン小隊長は、わたしたちを見渡しながら口を開いた。
「今、夜襲があった。そのせいで、他の隊が壊滅的な被害を受け、俺たちは今からその救援に向かう。準備を急げ」
その言葉は、戦場の現実そのものだった。
わたしがここに来てから、このようなことは初めてだった。しかも、ルークさんやシス伍長のような、わたしよりもずっと前からいる人たちでさえ、その表情に驚愕が浮かんでいて、ただならぬことが起きたということを理解させられる。
でも、その後の行動は早かった。先輩たちはすぐに気持ちを切り替えて、武器などを準備し始めていたし、わたしも未だ驚きが身体から抜けきっていないのにもかかわらず、身体が勝手に縦鼻を進めていた。
どうやら、わたしは戦場という物にいつの間にか適応していたらしい。初めてのこと関わらず、ここまでのことが出来るなんて。
でも、それはわたしたちだけだった。
後輩たちは、みんなの動きについて行けず、右往左往してしまっている。あのレン伍長ですら、準備をしようとしているものの、焦りや共学で腕が震えて、上手く準備が出来ていないのだ。ルカやレオンのような新人が、わたしたちについてこれるはずがない。
「ルカ、レオン、急いで準備をしてください! グレン小隊長に置いて行かれますよ!」
だから、わたしは急いでそう口にした。
何故か敬語になってしまったけど、言葉が伝わるのならそんなことはどうでもいい。今、何よりも重要なのは、急いで準備をさせて、戦場に連れていくことだ。
……初めての前線が、こんなことになってしまうのは、少し気の毒に思うが、戦場とは理不尽そのものなのだ。このくらいのことは、対処してほしい。
「――っ」
わたしの声を聞いて、ルカやレオンは気を取り戻したように顔を上げ、慌てて装備に手を伸ばした。
どうやら、自分たちのすべきことを理解して、出遅れた分を取り戻そうとしているらしい。新人と先輩の差があるため、追いつくことは出来ないだろうが、その遅れはまだ許容内のはずだ。
「えっと、弾丸は……」
「ルカ、これでしょ」
「あっ、セラさん、ありがとうございます」
わたしは自分の準備を終えた後、後輩達のサポートに回った。
グレン小隊長の考えだと、新人がわたしの足を引っ張ったと見なされる行為かもしれないが、わたしには後輩たちを見捨てることは出来なかったのだ。
「行くぞ!」
わたしたちの縦鼻がある程度終わったのを見て、グレン小隊長は短く、しかし鋭く言い放った。その声は、夜の空気を切り裂くように響いき、わたしたちに緊張感を与える。
ルカはまだ震えていたが、必死に銃を抱え直し、レオンは悔しさと恐怖を押し殺すように歯を食いしばり、レン伍長は深く息を吸って覚悟を決めていた。
(誰も、死なないでよ……)
胸の奥で、どうしようもない嫌な予感が渦を巻く。
アインの死以来、わたしの勘は妙に鋭くなってしまい、嫌な予感だけは外れなくなった。だからこそ、今はそれが何よりも怖い。
それでも――足は止まらない。
わたしたちは、夜の闇へ向かって歩き出した。焦げた匂いが風に混じり、遠くで火の手が上がっている。照明弾の白い光が断続的に空を照らし、影が揺れるたびに心臓が跳ねた。
こうして、わたしたちは進軍した。
夜中の戦闘、それは何回か経験したことがある。けれど――慣れることなんて、絶対にない。
夜中の戦闘は、昼間と違い、視界が極端に狭くなる。闇の中では、敵の姿どころか、味方の位置さえ曖昧になる。銃声や足音に常に神経を尖らせていなければならず、気づいた時には、もう致命的な距離まで近づかれていることだってある。
だが、それは相手も同じだ。明かりをつければ位置を晒すだけだから、互いに闇の中を手探りで進むしかない。
そのため、敵の意表を突けるという利点はあるものの、同時に“運”の比重が昼間よりもはるかに大きくなる。
だから夜戦は、リスクが高い。あのグレン小隊長ですら、滅多に選ばない戦法だ。
「セラさん……」
「しー、声を出したら駄目です」
ルカが不安そうに話しかけてきたが、それは夜戦で絶対にしてはいけない行為のひとつだった。
この距離で声を出せば、敵に位置を悟られ、一方的に撃たれる。気づいた時には、もう致命傷を負っている――そんなことは珍しくない。
最低なことを言うようだけれど、もし撃たれるのがわたしやルカ、レオンのような新人なら、まだ何とかなる。
けれど、シス伍長やグレン小隊長のような人が倒れれば、その瞬間に部隊の指揮が途切れ、全員が殺される可能性があるのだ。
(だから……絶対に声を出しちゃ駄目)
わたしはルカの肩にそっと触れ、暗闇の中で目だけで合図を送った。
ルカは息を呑み、小さく頷く。
その時だった。
グレン小隊長が、急に前方へ向けてナイフを投げ、何かが呻き声と共にどさりと倒れた。
それは、暗闇の中で起きた出来事であり、何が起きたのかさっぱりわからない。でも、グレン小隊長が何かをしたことだけは理解できた。
「チッ、あの馬鹿野郎……ここまで攻められたのかよ。だから、オレの兵を増やせッて言ってんだ」
グレン小隊長は一瞬だけ愚痴を言った後、すぐにわたしたちに指示を出した。
「今から、オレたちは塹壕を取り返しに行く。だが、敵に見つかるまで発砲は禁止だ。出来るだけ見つからないように動け」
その言葉は、夜の森の空気をさらに冷たくした。この暗闇の中で塹壕を取り返す。それは、敵にとっても、わたしたちにとっても、多大な犠牲者が出る可能性のある一手だった。
「それには従うつもりですけど、こっちにまで来ている敵はどうするんですか?」
そんな時、シス伍長が、いつも通りの調子でグレン小隊長に質問した。
グレン小隊長は、以外にもそれに対しては怒りを見せず、淡々と説明する。
「放っておけ。塹壕を取り返せば、どうせ補給が無くなって、勝手にくたばるんだ。気にする必要はねェよ。それに、他の隊が後方を守るんだ。その程度の人数は無視していい」
「了解。塹壕を取り返す方法は?」
「いつも通り、突撃だ」
「好きですね、それ。ま、わかりましたよ。従います」
そして、グレン小隊長の手が、わずかに上がった。
その瞬間、わたしたち全員の呼吸が止まる。グレン小隊長の手が、闇の中でわずかに動くと同時に、わたしたち全員の身体が前へ傾く。
誰も声を出さない。出せない。夜の森は、息をする音さえ敵に届く。
湿った土を踏む足音が、胸の奥でだけ響く。外には漏れない。ただ前へ、ただ前へ。
木々の影が流れ、枝が頬をかすめる。冷たい空気が肺に刺さる。それでも走る。
腕が震え、喉が酷く乾くが、緊張しているのはわたしだけではない。ルカやレオン、それにレン伍長などの新人もそうだし、あのルークさんやシス伍長ですら、その表情は硬い。
けれど、誰も足を止めない。死ぬかもしれないと分かっていても、先に進むのが軍人の役目なのだから。
(あれが……)
しばらく進んだ時、松明の光のようなものが見えた。
そこは、わたしたちの仲間が使っていた塹壕であり、今は敵が制圧している塹壕だ。敵は松明で周りを照らし、夜襲を常に警戒している。そのため、このまま直進してしまうと、瞬く間に見つかってしまい、銃弾の雨を浴びせてくるだろう。
一般的に考えて、それは絶対に避けないといけないこと。
銃弾の雨の前では、どんな人であっても、瞬く間にハチの巣になってしまう。だから、この作戦は失敗に終わる――はずだった。
「行くぞ」
グレン小隊長の声が、小さく、されど力強く響く。
その一言で、わたしたちの身体は一斉に前へと傾く。
足が地面を蹴る。湿った土が跳ね、冷たい空気が肺を刺す。枝が頬をかすめても、痛みを感じる余裕はない。
「敵が来たぞ!」
敵兵も、もちろんわたしたちに気付き、銃口を向けてくる。
けれど、わたしたちの戦闘にいるのは、グレン小隊長だ。銃弾を叩ききることが出来る小隊長が壁になることによって、わたしたちまで銃弾が届くことは無く、止まらずに走り続けることが出来た。
(側面には、気を付けないといけないけどね)
銃声が闇を裂く。火花が散り、金属が弾ける音が耳を刺す。それでも、わたしたちは止まらなかった。
グレン小隊長の背中が、夜の中で揺るぎなく前へ進む。その背中がある限り、銃弾はわたしたちに届かない。
「止まるなッ!」
小隊長の声が、夜気を震わせた。その声に押されるように、わたしたちはさらに速度を上げる。
敵兵が松明の向こうで動く。銃を構え直し、こちらへ狙いを定める。光に照らされたその顔が、恐怖と焦りで歪んでいるのが見えた。
ルカやレオンも、しっかりとわたしたちに食らいついていて、問題なくここに来ることが出来ている。これなら、全員で塹壕の中に侵入することが出来るはずだ。
(もう、少し……)
足を踏み切り、身体を投げ出すようにして前へ。湿った土が跳ね、視界が揺れる。松明の光が一気に近づき、影が濃くなる。
あと少し、あと少しで塹壕の中に入ることが出来る。
――そんな時だった。
あの二歩で塹壕の中で入ることが出来るという時に、ルカが躓いて、こけてしまったのだ。
「いたっ」
「ルカ!?」
わたしは、急いでルカの方に手を伸ばした。ここはまだ塹壕の外。遮蔽物は何ひとつなく、敵から見ればただの的。それでも、迷いはなかった。
手が届く範囲なら、ルカを守ると誓った。
だから、わたしは必ず掴む――そう思っていた。
その瞬間、胸の奥がひどく冷たくなる。あの、嫌な予感だ。
いつもわたしだけを救ってきた、あの感覚。二カ月の戦場で、わたしの身体はその勘に従うように作り替えられてしまった。生き残るために、反射のように。
だから、わたしは――伸ばした手を、引いた。
そして、同時に、ルカの頭から鮮やかな赤色の花が、咲いたんだ。




