慣れ
「ちっ、もうこの季節が来たか」
アインが死んだ日から、もう二か月が過ぎていた。あれから何度も負傷はしたものの、致命傷だけは避け続け、生き残ってきた。塹壕戦の空気にも、少しずつ慣れてきている。
敵を殺すことに迷いを覚えることもなくなった。体力も筋力も、あの日のわたしとは比べものにならないほどついている。
――けれど、それだけだ。
経験という意味では、まだまだ未熟と言っていい。積み重ねたものより、足りないもののほうがずっと多い。そんな現実を、わたしは痛いほど理解していた。
「どうかしたんですか?」
急に季節に対して言及したルークさんに、わたしは尋ねた。今の季節は、雪が降るわけでもなく、夏の強い日差しで熱中症になるわけでもないため、嫌がる理由なんて無いと思っていたんだ。
けれど、それはわたしの勘違い。塹壕戦に置いて、最悪な天気のことを忘れていたんだ。
「どうしたって、もうそろそろ雨季が始まるんだぞ。雨の日の塹壕戦を忘れたか?」
「あー、そうでしたね。孤児院の時は、ずっと室内にいたので雨季のことを忘れてました」
そう、雨季だ。この世界には、前世の梅雨のように雨が続く季節があり、その間は空が何日も泣き止まない。
雨の日に起きる問題は数えきれない。まずは、塹壕の水没や泥濘化。泥は移動・戦闘・補給のすべてを妨げ、兵士の足を容赦なく奪っていく。そして最悪なのが、塹壕足だ。
塹壕足は、長時間湿った環境にさらされることで皮膚とその下の組織が損傷し、激しい痛みや腫れを引き起こす。放置すれば壊死に至ることもある。寒さ、湿気、不潔さ――塹壕の三拍子が揃えば、誰でも簡単に罹ってしまう。
他にも、雨水に混じった汚泥による感染症、壁が崩れて兵士が生き埋めになる事故……雨季の塹壕は、敵よりも先に兵士を殺すとも言われていた。
「塹壕足って、なったことあります?」
「軽症だとあるな。ただ、聞いた話だと重症化して足を切断した人もいるらしいぞ」
「うわっ……それだけは嫌だなぁ」
敵兵だけじゃなくて、季節までわたしたちの敵になるなんて思っていなかった。いや、もちろん敵兵も同じ雨の影響を受けるから、わたしたちだけが不利というわけじゃない。けれど、塹壕に身を置く者にとって、雨はそれほど厄介な存在だった。
ちなみに、今わたしたちが使っている銃は雨に強い。魔力で弾を射出する仕組みだから火薬を使わず、濡れても発射不良は起きない。せいぜい金属部分が錆びやすくなる程度で、しっかり手入れをしていれば、戦闘にはほとんど影響がない。
だからこそ、雨の中でも敵は平気で攻めてくる。銃が使える以上、彼らにとっても雨は“戦えない理由”にはならない。
――それが、何より厄介だった。
「お前ら、そんな暗い話ばっかしてんじゃねぇよ。もっと明るい話をしようぜ!」
「あ、シス伍長」
雨季の愚痴をルークさんとしていると、シス伍長がずかずかと歩いてきて、いつもの調子で口を挟んできた。
アインが生きていた頃、わたしはルークさん以外とはほとんど話さなかった。けれど今では、隊にいる全員と自然に会話できるようになっていて、なぜか妙に可愛がられている。
理由を聞くと、妹みたいでかわいいとか、戦場の唯一の癒しとか、そんなことを言われる。正直、よく分からない。
「明るい話って戦場に無いだろ」
「相変わらずルークは固いな。楽しさってものは、探せばいくらでもあるんだよ。例えば、あの衛生兵は可愛いとか」
「あのな……その話でセラが楽しめるわけないだろ」
「あ、それはそうだな」
ルークさんと、シス伍長がそんなことを話している。
衛生兵の可愛い子って、前世は男だったから気持ちは分かるけど、今の私では楽しめそうにないな。
「じゃあセラちゃん、お前は何か楽しい話あるか?」
「え、わたしですか?」
「そうだよ。ほら、最近あった嬉しいこととか、面白いこととか」
急に振られて、わたしは言葉に詰まった。戦場で楽しいことなんて、考えたこともなかった。
「……特に、無いです」
「セラ、気にするなよ。コイツが悪いんだから」
ルークさんが呆れながらシス伍長の肩を叩く。二人のやり取りを見ていると、胸の奥が少しだけ温かくなった。
――まぁ、こうやって誰かと話すこと自体が、楽しいと言えば楽しいのかもしれない。
前はそんなふうに思ったことなんてなかった。アインがいた頃でさえ、わたしはみんなと笑うことが出来るような、性格では無かったはずなのに。
「あ、セラちゃんが笑った! やっぱ、俺の勝ちだな!」
「勝ちってなんだよ。そもそも、勝負すらしてないじゃないか」
シス伍長は笑いながらルークさんの肩を組む。ルークさんは表面上こそ嫌そうな顔をしていたけれど、振り払うことはせず、結局はそのまま受け入れていた。
正直、少しうらやましい。わたしには、同性どころか同年代の友達すらいなかった。肩を組んで笑い合うなんて、そんな当たり前のことが、わたしにはずっと遠いものだった。
アインが生きていたら、もしかしたら――そんなことも出来たのかもしれない。でも、どれだけ仮定を並べても、現実は変わらない。
そんなことを考えていると、シス伍長が何か思い出したように口を開いた。
「そういえば、新兵が来るって話があったぞ」
「ほんとか? それ」
「ああ。前線じゃなくて、後方の衛生隊とか補給部隊にはもう何人か入ってきたらしい。もう少しでこっちにも来るかもな」
新兵、か。そう言えば、わたしがここ来てから一度も新兵が入ってこなかったな。誰かが死んで人数が欠けた場合は、いつも補給部隊か他の隊から補充していたし、こんなことは初めてだ。
あ、でも……それって、わたしが先輩になるってことなのだろうか? わたしはまだ死なないことで精一杯で、他人に何かを教えることは出来ないのに。
「セラちゃん、ついに先輩になるな! 後輩にしっかり教えてあげないと」
「……何とかなりませんか? それ」
「まぁ、安心しろ。そんな役目はだいたい俺たちがするから」
先輩らしいことは、ルークさん達がすると言われても、先輩になることには変わりがない。ああ、本当に嫌だ。今から後輩になることは出来ないのだろうか。
「その新兵が来るってのは、何日後くらいだ?」
「さぁ? 一週間後くらいじゃね? セラちゃんの時はそのくらいじゃなかったか?」
しかも、一週間後って思ったより近い。どうせなら、三か月くらい先であった欲しかった。後輩なんて、一生できなくていいのに。
そんな感じで、嫌がっていると、シス伍長が笑いながらこっちを見た。
「後輩って言っても、年上や軍部学校を出た奴が来る可能性もあるんだし、そんなに嫌がる必要はないって」
「軍部学校?」
知らない単語が出た。というか、この世界に学校なんてもの、あったんだ。
わたしはずっと孤児院で過ごしていたから、そんな場所とは無縁だったし、教えてくれる人もいなかった。読み書きや計算だって、必要最低限を独学で覚えただけだ。
「そんなもの、あるんですか?」
「ああ。と言っても、軍のお偉いさんの子供ぐらいしかいってないがな。俺たちのような平民とは全く関係ない話だ」
「へー、そこを出た人はやっぱり優秀なんですか?」
「人による。しっかりと戦場に適応する奴もいれば、戦場を知らねぇ知識だけの奴もいる。……ただ、少なくともグレン小隊長とは相性が悪いな」
「……確かに、そうですね」
グレン小隊長は、意味が分からない突撃をして、何故か戦果を挙げるような人だ。その戦法は、常識とは程遠く、普通の人だと無謀な突撃で運良く生き残っただけだと思ってしまうだろう。
実際は、確かな実力と、鋭い勘の上で成り立っているのだが、理論だけしか学んでないような人だと、理解できないだろう。
だから、小隊長とぶつかってしまうのは容易に理解できた。
「でも、セラちゃんだって、最初の頃に比べたらずっと成長してるじゃねぇか。今では、立派な兵士になってるよ」
「本当ですか……?」
シス伍長がわたしのことを褒めてくれる。
けれど、そのことにはあまり自覚が無くて、素直に受け入れることが出来なかった。
「ほんとほんと。な、ルーク」
「ああ、それについては認めるよ。今では小隊長の訓練も最後までついて行けるようになってるからな」
それについては、本当のことだった。
初めての時は、途中で倒れてしまったグレン小隊長の訓練。けれど、今では体力や筋力がついて、最後まで続けることが出来ていた。まぁ、この小隊の中では最下位であることには変わりがないけど、それでも最初の頃に比べたら、ずっとましだ。
「後、セラちゃんと言えば、あの勘があるじゃねぇか」
「それはそうですけど……」
あの日以来、アインの幻聴は聞こえてこない。
けれど、あの日の感覚は未だ残っており、その時の感覚で窮地をしのいだことも数多くある。勘だけに絞ると、ルークさんやシス伍長を上回っており、グレン小隊長も認めるほどのものになっていた。
……とは言え、良くも悪くも勘に過ぎないから、死にかけたことは数えきれないほどあるし、重傷を負ったことも何度かある。無いよりかはあったほうが良い、その程度の品物だった。
「ま、雑談をするのは、この程度にしておくか。今日も、突撃するんだし」
「またですか……それが強いのはわかるんですけどね」
まだ見ぬ後輩のことを考えていると、シス伍長がそんなことを口にしてきた。
どうやら、今日もわたしたちは突撃するらしい。小隊長の実力を考えると、それがもっとも勝利に近づくことはわかり切っている。けれど、塹壕で防衛するより、突撃する方が死ぬ可能性が高いことには変わりがない。
それは、二か月間も戦場で戦っていたとしても、その可能性は一向に減らない。
「あの人は、その戦い方で今日まで生き残っているからな。それが正解だとでも思っているんだろ。実際、俺もそうだと思ってるし」
ルークさんはそんなことを言いながら、武器をしっかり確かめて立ち上がった。どうやら、もう意識を戦闘用のものに切り替えているらしい。
その変化は、何度見ても不思議だ。普段は穏やかで、わたしの話を静かに聞いてくれる人なのに、戦いが近づくと、まるで別人のように表情が引き締まる。シス伍長も同じだ。さっきまで軽口ばかり叩いていたのに、腰の装備を確認する手つきは驚くほど無駄がない。
その在り方は、すごく……尊敬する。
「それじゃあ、行くか」
そうして、わたしは何度目かも忘れた突撃へと、足を進めたんだ。
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