贖罪
朝が来た。空は、まるで何も知らないみたいに、憎たらしいほど明るい。
さわやかな風が、乾いた血の匂いを運んでくる。その匂いだけが、この世界がまだ終わっていないことを思い出させた。
「セラ……これでも食っとけ」
「いらな……いや、ありがとうございます」
わたしは、ルークさんからビスケットを受け取って、無理やり口の中に入れた。
それは、口の中の水分を全部奪いながら、ざらついた粉になって喉へと落ちていく。噛むたびに、歯が軋む音だけが耳に残った。
味はしなかった。食べているのに、何も食べていないみたいだった。
「セラ、昨日のことだが……」
「何ですか? ルークさん」
「いや……何でもない」
あれから、ルークさんはわたしの方を見て、痛ましげに顔をしかめているが、その理由は一向に教えてくれない。
なんで、そんな顔をするのだろうか? わたしは、何も間違っていないのに。
「……準備しよう。もうすぐ集合がかかる」
そう言って立ち上がるルークさんの背中は、どこか重たかった。わたしの返事を待たずに歩き出すなんて、いつもの彼らしくない。
わたしは残ったビスケットを見つめた。
半分ほど欠けたそれは、まるで石ころみたいに無機質で、何の意味も持っていないように思えた。
(まぁいいや、そんなことを気にしたところで、敵を殺せるわけじゃないんだから)
そんなことを思いながら、わたしはグレン小隊長がいる場所まで足を進めていく。それは、死が近づいているようにも感じ、足が重くなってしまうが、その感覚が今のわたしにはありがたかった。
そして……
「全員揃ったか?」
塹壕の中、グレン小隊長がわたしたちを見渡して、小さく……けれど、威圧感のある声を出した。
「今日は突撃する。正面から突撃するから、お前らは全力でついてこい。銃弾については、今日の朝に補給が来たから、それを使え」
グレン小隊長は、わたしたちに銃弾を渡していく手のひらに落ちた瞬間、その重さがじんと伝わった。
金属の冷たさが、皮膚を通して骨まで染み込んでくるようだった。その感覚だけが、今のわたしを現実につなぎ止めている気がした。
「弾は惜しむな。撃てる時に撃て。撃たなきゃ死ぬだけだ」
グレン小隊長の声は淡々としていた。怒鳴り声でも、励ましでもない。ただ、戦場の常識を言うだけ。
けれど、それはわたしに向けていったことは、一瞬で理解できた。
弾倉に弾を詰めていく。けれど、指は震えない。これから敵を殺し、他人の人生を奪っていくと理解しているはずなのに、心の中は凪のように穏やかだった。
弾倉に弾を詰め終えたとき、わたしは自分の手を見つめた。血の気が引いて白くなっているのに、震えはなかった。
「突撃するのは、半刻後だ。しっかりと覚悟しておけ」
グレン小隊長は、その言葉だけを残して、塹壕の中で座り込んで目を閉じる。
わたしたちの方へ意識を向けていない。なのに、その身体から放たれている雰囲気は、わたしたちに息を呑ました。
時間が、ゆっくりと流れていく。誰も話さなかった。話す必要も、理由もなかった。
兵士たちはそれぞれの装備を確かめ、銃を抱え、黙々と準備を進めていく。
金属の擦れる音だけが、塹壕の中に淡く響いた。
わたしも同じように、銃を握り直す。手のひらに残る冷たさは、さっきよりも馴染んでいた。胸の奥は静かで、波ひとつ立たない。
空は相変わらず明るい。その光が塹壕の縁から差し込み、兵士たちの影を長く伸ばしていた。
(うん、大丈夫だね。わたしは、正常だ)
そして、半刻ほど経った時、グレン小隊長が目を開けた。
「いくぞ」
空気が震え、塹壕の中にいた全員の視線が、自然とグレン小隊長へと向いた。誰も言葉を発しない。
ただ、立ち上がる気配だけが、土の匂いと混ざって広がっていく。
グレン小隊長はゆっくりと立ち上がり、塹壕の縁へ歩み寄った。その背中は、まるで巨大な影のように見えた。朝の光が彼の肩を照らし、輪郭だけが鋭く浮かび上がる。
兵士たちが続く。足音は重く、しかし迷いはなかった。誰もが自分の位置を理解しているように、自然と列が整っていく。
わたしもその列に加わった。胸の奥は静かで、波ひとつ立たない。
恐怖も、焦りも、緊張もなかった。
「突撃ィ!」
グレン小隊長の叫び声と共に、わたしたちは塹壕から出て、敵の塹壕へと走り出す。
わたしたちの足音が、大地を震わせるように響いた。
土を蹴る音、装備が揺れる金属音、誰かの荒い息――それらが一斉に混ざり合い、世界が急に騒がしくなる。
「敵襲だ!」
「狂鬼が来たぞ!」
敵兵も、わたしたちの突撃に気付き、すぐに顔を出して銃弾の雨を浴びせてくる。
けれど、その程度でわたしたちの小隊長は止まらない。すぐに魔力で出来た盾を作り出し、銃弾をあらぬ方向へと逸らしながら直進する。
わたしたちはその後ろを走り、ただ前へと進む。
敵の塹壕が近づくにつれ、地面の震えが強くなる。誰かが転び、誰かが叫び、誰かがさらに速度を上げる。それでも、全員が止まらなかった。
わたしの視界は妙に鮮明だった。舞い上がる土埃の粒ひとつひとつが、光を反射してきらめいて見える。
耳に届く音は多いのに、どれも遠くの出来事のようだった。
「ルーク!」
「はい! 【ウインド】」
敵兵が塹壕から手榴弾を投げる。放物線を描いた黒い塊が、わたしたちの頭上へと迫ってきた。
けれど、ルーク上等兵がすぐに手をかざし、短く呪文を吐き出す。その手の平から、強い風が吹き、手榴弾の軌道をわたしたちから逸らす。
そのおかげで、手榴弾はわたしたちから離れたところに落下し、わたしたちは爆発どころか、飛び散る破片で傷を負うことすらなかった。
(よし、敵のところまで行ける)
敵の塹壕が迫ってくる。その黒い影が、地面の揺れとともにどんどん大きくなっていく。
銃声がさらに激しくなり、土が跳ね、空気が震えた。誰かの叫び声が混ざる。
「いけェ!」
敵の塹壕は、わたしたちのものと大きくは変わらない。けれど、壁の角度も、通路の曲がり方も、足元の段差も違っていた。
その違いが、どこから敵が現れるのかわからない不気味さを生んでいた。
土の匂いが濃くなる。湿った空気が肌にまとわりつき、視界がわずかに暗くなる。
「シス! 右は任せた。俺らは左を攻める」
「わかりましたよ。あ、戦力は俺たちの方が多めでいいですよね? そっちには小隊長がいるんだし」
「ああ、勝手にしろ」
そうして、わたしたちは二手に分かれた。
わたしたちが担当するのは左側。グレン小隊長がいるため、人数は少なかったものの、ルーク上等兵などの熟練兵が何人か参加していた。
通路は狭く、湿った土壁が肩に触れるほど近い。足元にはところどころ水が溜まり、踏むたびにぬかるんだ音がする。
前を行くグレン小隊長の背中は、塹壕の薄暗さの中でもはっきりと見えた。
その背中が動くたび、空気がわずかに揺れるように感じる。
そして――
「ちっ、また分かれ道かよ。なら、ルーク。お前が指揮を執って右に行け」
「了解……小隊長なら一人でいいんじゃないですか?」
「あァ?」
「わかりました。数人はそっちに残しますよ」
今度は、ルーク上等兵についていく。
グレン小隊長がいないことにより、先頭にやや不安があったが、それでもわたしたちは躊躇いなく進んでいった。
「セラ」
ルーク上等兵が、わたしに呼び掛けてくる。
声は小さかったが、狭い通路のせいで、すぐ横で囁かれたように聞こえた。
「なんですか?」
「お前は下がってろ。こういうのは、経験豊富な人に任せたらいい」
その言葉は、わたしのことを気遣っていて、優しさから出たものだと理解できた。
けれど――胸の奥は何も動かなかった。
「大丈夫ですよ。それに、この中で一番命が軽いのはわたしですから、わたしが先頭を歩きますよ」
「ちょ、待てって!」
わかってた。新兵が敵の塹壕内で先頭を歩くということは、本来なら絶対にやらせてもらえない危険な役目だということくらい。
曲がり角の先に何がいるのかもわからない。
罠があるかもしれないし、待ち伏せされているかもしれない。最初に撃たれるのも、最初に斬りかかられるのも、先頭だ。
『セラ、右だ』
死んだはずのアインの声が、幻聴としてわたしの頭の中で響いている。
その声は、風の音よりも近く、土の匂いよりもはっきりしていた。
(……右?)
考えるより先に、足がそちらへ向いていた。まるで、アインの声に引かれるように。
「おい、セラ! 勝手に動くなって!」
ルーク上等兵の焦った声が背中に刺さる。けれど、わたしの足は止まらなかった。
S字に曲がった塹壕を進み、角に差し掛かった瞬間――わたしは銃だけを先に出し、影に潜んでいた敵兵を撃った。
乾いた銃声が二つ。反動が腕に伝わり、焼けた肉の匂いが鼻を刺す。敵兵の影が、ぐらりと揺れて崩れ落ちた。
(いや、まだ生きているかも)
その考えが浮かんだ瞬間、迷いはなかった。倒れた敵兵の頭に、もう一発撃ち込む。
短い破裂音が、狭い塹壕に鈍く響いた。
「セラ……」
「何ですか? 今度は、ちゃんと殺しましたよ」
わたしは、何か間違いをしたのだろうか? しっかり敵を殺して、生きていないかも確認したのに。
ああ、銃弾を無駄にしたからか。生きている可能性を潰したいのなら、もっと別の方法があったね。今度は、気を付けないと。
昨日、わたしは敵を殺すことが出来なくて……そのせいで、アインがわたしを庇って死んだ。
だから、もう二度とそう言うことは起こさない。出会う敵は全員殺して、殺して、殺して……そして最後に、敵兵に死という償いをさせてもらうんだ。
「それじゃあ、先に進みますよ」
「あ、ああ」
ルーク上等兵たちが、痛ましげにわたしを見ている。
どうしてそんな目をするのだろうか、わたしは、ただ正しいことをしただけなのに。
そうして、わたしたちは先へと進んでいったのだ。




