崩壊
「うっ……」
目が覚めた。最初に目に映ったのは、塹壕の壁だった。日はとうに暮れていて、土壁の影がゆっくりと揺れている。
(……夜?)
ぼんやりとした思考が、ようやく動き始める。
空気は冷たく、湿っていて、昼間の熱気はもうどこにもなかった。遠くで、誰かが低く話す声が聞こえる。
それが現実の音なのか、夢の残り香なのか、判別できない。
身体を起こそうとしたが、腕が重い。
自分のものじゃないみたいに、力が入らなかった。
(なんで、ここに……? いや、そんなことより、なんでわたしはまだ生きてるの?)
あの時、わたしは戦場の真ん中で気を失った。
そこまでは覚えている。 でも、その先が……ない。
(じゃあ……アインは?)
胸の奥が、ずきりと痛んだ。
思い出そうとすると、頭の中に霧がかかったみたいに、記憶がぼやけて逃げていく。
(アイン……アインは……)
名前を思い浮かべただけで、喉がひどく締めつけられた。
呼吸が浅くなり、胸が苦しくなる。
「……っ、は……」
あの時の光景が、脳裏に浮かび上がる。頭を撃たれ、虚ろな目で血を流れ出している身体。昨日の夜は、一緒に笑っていたはずなのに。
胃から何かが逆流しそうになる。けれど、今日は朝から何も食べていない。そのおかげで、吐き出すものは何もなかった。
ただ、えずくたびに喉が焼けるように痛んだ。胸の奥がぎゅっと縮まり、呼吸がうまくできない。
(ごめんなさいごめんなさいごめんなさい、きちんと殺さなくて、ごめんなさい)
心の中で繰り返すたびに、胸の奥がさらに締めつけられた。息を吸うたびに、肺が痛む。
頭の中で何かが軋むような感覚がした。
(わたしが撃っていれば……アインは……)
その考えが浮かんだ瞬間、全身が冷たくなった。
まるで、血の気が一気に引いていくように。
そんな時、足音がした。
「あ、セラ! 起きたのか?」
「るーく、上等兵?」
名前を呼んだつもりだったが、声はかすれて震えていた。自分の声なのに、どこか遠くから聞こえてくるようだった。
ルーク上等兵は、安堵したように息を吐いた。
「よかった。あれから何時間も眠ってたんだぞ」
ルーク上等兵の声は、いつもより少しだけ柔らかかった。
けれど、その優しさが、今のわたしには痛すぎた。
「アインは……? わたしが生きているんだから、アインも生きていますよね!?」
分かってた。アインが死んでいることなんて、頭では理解していたはずなのに……気付けば、わたしはそんなことを口にしていた。
その言葉を聞いて、ルークさんは一瞬だけ目を逸らす。けれど、すぐにわたしの方へ向き直った。
「……セラ」
名前を呼ぶ声は、ひどく静かだった。怒っているわけでも、困っているわけでもない。
ただ、優しすぎて、逆に胸が痛くなる声だった。
「アインは死んだ。セラを庇って……この戦場の中でも珍しい、立派で価値のある死だった」
その言葉は、慰めのつもりだったのだろう。
けれど、わたしには――まるで胸の奥に刃を押し込まれたみたいに響いた。
(価値……?)
頭の中で、その言葉だけが浮かんで、何度も反響した。
(アインの死に……価値なんて……)
喉がひどく震えた。呼吸が浅くなり、胸が痛い。
視界が揺れて、ルークさんの顔がうまく見えない。
死に価値なんて無い。死んでしまったら、もう二度と会うことが出来なくて。昨日までそこにいた人が、今日にはいなくて。笑い声も、声の調子も、歩き方も、全部――もう戻ってこない。
「……っ、あ……」
声にならない音が漏れた。涙は出ないのに、視界がにじんで揺れる。
死んだ。死んだんだ。わたしのせいで、アインは死んだ。彼の十四年の人生は、わたしに覚悟が無かったせいで、すべて……無駄になってしまったんだ。
「ごめんなさいごめんなさい! わたしが、わたしがっ!」
自分でも何を言っているのか分からなかった。
ただ、胸の奥から溢れ出す何かが止められなかった。
「セラ! 落ち着け!」
ルークさんの声が聞こえる。
けれど、その声は遠くて、まるで水の中から聞いているみたいだった。
「わたしが……撃てなくて……だから……アインが……!」
言葉が途切れ途切れに漏れた。
喉が焼けるように痛いのに、声だけが勝手に出ていく。
「違う! セラ、お前のせいじゃない!」
ルークさんが強い声で言った。
けれど、その言葉は胸に届かなかった。
(わたしのせいだ……わたしが……)
その思考だけが、頭の中で何度も何度も反響する。
逃げようとしても、逃げられない。
耳を塞いでも、心の中で響き続ける。
「アインは……お前を助けたかったんだ! それだけは……!」
「いや……いやだ……!」
胸が苦しい。呼吸が浅くて、空気が足りない。
視界が揺れて、世界が遠ざかっていく。
「セラ、こっちを見ろ! 大丈夫だ、深呼吸しろ!」
ルークさんの手が肩を掴んだ。その温かさだけが、かろうじて現実につながっていた。
けれど、それが何よりも痛かった。
「なら、なんでわたしを助けたんですか!? わたしは、戦場の真ん中で気絶して……わたしを助ける理由なんて、ないはずなのに」
死んで詫びるしかない。
わたしは、本気でそう思っていた。
そんな時――
「おい」
低く、よく通る声だった。その一言だけで、空気が一瞬で張りつめる。
「ぐ、グレン小隊長!」
その声を聞いて、ルークさんが振り返り、少し怯えたような目で背筋を伸ばした。
けれど、グレン小隊長はルークさんの方を一度も見ずに、わたしの方へと近づいてきた。
「死にてェとでも、思ってんのか」
その言葉は、怒鳴り声ではなかった。
静かで、低くて、けれど逃げ場のない重さがあった。
胸の奥がびくりと震えた。
呼吸が浅いままなのに、身体だけが反射的に固まる。
「……わ、たしは……」
言おうとした瞬間、喉がひきつって声にならなかった。胸が苦しくて、視界が揺れる。
そして、グレン小隊長は、わたしの頭を掴んで無理やり目を合わせて来た。
「いたっ」
「ふざけてんのか!」
低い声が、塹壕の空気を震わせた。
優しさなんて一欠けらもない。
そこにあるのは、戦場で何度も死を見てきた男の、本物の怒りだけだった。
「お前のせいで、一人の兵士が死んだ。それだけでも戦力は減ってんだァ!」
グレン小隊長の声は冷たかった。
だが、その怒りは計算でも理屈でもない。もっと荒々しくて、もっとむき出しで、もっと不器用だった。
「そこでお前まで死んだら、二人も無駄死にすることになるんだぞ! この戦場で、それを許容できるほどの余裕なんてねェんだよォ! 死にたきゃ、一人でも多くの敵を殺して死ね!」
怒鳴り声が、塹壕の壁に反響した。その荒々しさは、慰めでも励ましでもない。ただ、むき出しの怒りだけだった。
それを聞いて、わたしは何も言い返すことが出来なかった。
喉がひきついて、声が出ない。胸の奥がぎゅっと縮まって、呼吸が浅くなる。言葉を探そうとしても、頭の中が真っ白で、何も浮かばなかった。
この戦争に参加したくて参加したわけじゃない。
けれど、そんな言い訳は、この場では何の意味も持たなかった。
グレン小隊長の怒りは、わたしの事情なんて一切考えていない。
考える気もない。
ただ、この戦争に勝つことしか考えていない。
「小隊長! さすがにそれは――」
「あァ? オレは、間違ったこと言ったか?」
「間違ってはいませんけど……」
ルークさんが、一瞬だけ抗議しようとしたけど、グレン小隊長に睨まれて、口を閉ざしてしまう。
反論したい。けれど、戦場では何も間違ってない言葉に、何も言い返すことは出来ない……そんな表情で、ルークさんは目を逸らした。
「だったら黙ってろ。甘ェ言葉で庇ってやる余裕なんざ、今のオレにはねェ。で、お前はどうするんだ?」
グレン小隊長が、剣を抜き、わたしの首筋に突き付ける。
それは脅しというわけでは無く、しっかりと殺意がこもっていて、わたしが返答を間違えてしまうと、次の瞬間には首と胴体が分かれてしまうことが理解できた。
「しょ、小隊長! それは、軍規が……」
「オレは生きて、敵を殺せと命令したんだ。それをしねェのなら、立派な命令違反だろ」
「いや、軍法会議で裁かれますよ!」
「うるせェ、今はどうでもいいんだよォ」
そして、グレン小隊長はわたしの方を見下ろす。その目は、まるでゴミを見るかのように、冷たく蔑んでいた。
当然だ。わたしが足を引っ張ったせいで、アインが死んだのだから、そのような目で見るのは正しいことだ。
(ごめん、アイン。もうすぐ、そっちに……いや、わたしは行けないか)
「やります」
「あァ?」
「今度は……敵を殺します」
その言葉を口にした瞬間、胸の奥がひどく冷たくなった。
覚悟なんてものじゃない。ただ、罪悪感に押されて選んだ道だ、。
グレン小隊長は、しばらく何も言わなかった。怒鳴り声も、罵倒もない。ただ、わたしを見下ろす目だけが、鋭く突き刺さっていた。
やがて、刃がわずかに離れた。ほんの数センチ。けれど、その距離が、息ができるほどに大きかった。
「……明日だ。明日、突撃する。だから、死ぬ気で敵を殺せ」
グレン小隊長の背中が遠ざかっていく。その足音が消えるまで、わたしは動けなかった。
胸の奥が冷たくて、重くて、呼吸が浅いままだった。罪悪感で押しつぶされそうなのに、涙は一滴も出なかった。
ルークさんが、そっとわたしの肩に触れた。その手は震えていた。
わたしのせいではなく――さっきまでの空気が、あまりにも重すぎたからだ。
「……セラ、大丈夫か」
「はい、今度は敵を殺しますから」
「そうじゃなくて……いや、なんでもない」
ルークさんが痛ましげに目を逸らす。
何でだろう? わたしは、正しいことを言ってるはずなのに。
(アイン、天国から見てて。今度は……しっかり敵を、殺すから。殺して、殺して、殺して……最後に死ぬから、それで許してほしい)
その思いを胸に、最後の夜を過ごしたのだ。




