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第一幕・第四話「貝原シロネ」

 2025年4月。

 東京の春はせわしない。

 交差点の人の流れも、地下鉄の構内も、誰もが先を急ぐように慌ただしく、どこか浮ついて見えた。


 貝原シロネはそんな季節の中を、穏やかなテンポで歩いていた。背筋はまっすぐ。スニーカーがアスファルトを打つ音だけが、彼女の世界と外の世界を分ける静かな境界線だった。

 16歳。バスケの特待生。クラスメイトから、かつては「憧れの的」と呼ばれていた。



 シロネは幼い頃から〈一人〉が好きだった。

 団体行動は苦手ではない。むしろチームスポーツでは持前の敏捷性と思慮深さで周囲の流れを読んだ。誰とでも表面的にはうまく付き合えたし、気の効いた返事もできた。

 

 だけど——本音を言えば、心の中は静かで澄んだひとりの湖だった。


 バスケットボールを始めたのも、跳ねる音の規則性や汗の匂い、リングに吸い込まれるボールの軌道が「群れ」としてではなく自分一人の感覚として心地よかったからだった。

 シュートの瞬間、彼女は空を飛びながら世界の真ん中にいるような独特の自由を味わった。


 中学・高校と実績を積み重ね、最優秀選手に選ばれる。成績も優秀で、推薦枠の話が秋になる頃には幾つも舞い込んでいた。

 誰もが「美人」「すごい」「真面目」と褒めてくれる。本人は、淡々とそれらを受け流すだけだった。



 2023年。ツノウイルス流行。

 社会が一変した。

 ダンス部の人気者だった友人は、額のツノを見せびらかすように髪をセットし始める。

 体育館では「今日のツノ占い見た?」と騒ぎ、校舎内でもツノの形・光沢・成長速度が話題になった。

 

 シロネだけ、ずっと生えない。鏡に映る額に何もないまま、カチューシャだけが違和感のように映る。

 最初は冗談めかした会話だった。「そのうち生えるって」と笑い飛ばされた。

 しかし日が経つほどに、友人たちは距離を置き始める。話しかける頻度が減り、練習後の更衣室でも輪の外に追いやられた。



 学校の廊下。ある日、彼女は耳にした。


「シロネ、まだ生えてない?」

「いや、あの子……なんか可哀想」

「綺麗だしバスケ上手いし、ツノあったら最強だよね」


 声は小さく、けれど確実に彼女の背を通り過ぎる。

 シロネは怯まない。泣きも怒りもしない。ただ無表情で、静かに歩みを進めた。

 心の中では、「私は私」という小さな灯が揺れていた。



 体育館の音も空気の熱も、彼女の内面まで届くことはない。

 シュートの軌道に集中すれば、ツノが生える生徒も、生えない自分も消えていく。

 パスを受け、ドリブルで切り込み、リングにボールを吸い込ませる。 決まりきった技術。それだけが彼女の自信の源だった。


 だけど、練習後のベンチで一人になると、耳が敏感になる。遠く離れた場所で名前を呼ばれている気がする。誰かが自分のことを俯瞰して、物珍しさを抱いているのが肌で分かる。

 寂しさとも違う。でも、以前のように満たされることは絶対にない孤独だった。


 ある日の帰り道、彼女は自販機でホットのミルクティーを買った。ほんのり甘い香りと、温かな缶の感触が掌に馴染む。

 まだ春の夕方だが、心のなかには妙な寒さが消えず、ミルクティーの優しい熱がその隙間を埋めてくれる気がした。


 以前は部活帰りに仲間とジュースや炭酸系を分け合ったが、今は一人きりでホットドリンクを握りしめる——そんな自分も、少しだけ嫌いじゃなかった。


 彼女は歩きながら、新しく生まれた「孤独」を不思議と心地よく感じ始めていた。

 誰といても本音を隠し、ごく小さく自分の殻に籠る癖が、静かな居場所になりつつあった。



 家に帰ると母は笑顔で「おかえり」と言う。

でもその笑顔の奥には「ツノがあったら…」という不安や心配が隠れているのを、シロネは敏感に感じ取る。

 食卓は明るいが、家族の話題からツノ関連の話題だけが巧妙に避けられている。

 

 夜になると、自室の窓際で東京の夜景をぼんやり眺める。

 月は静か。遠くの明かりがまるで別世界のようにまたたいている。

 彼女の心には、「自分が何故選ばれなかったのか」という疑問が居座る。科学的な説明も、運命の冗談だという慰めも響かない。


(私でなければならない理由なんて、世界にはない)


 そんな思考が巡り、やがてひとつの結論にたどり着く。


(でも、だからこそ、私は私でいるしかない)


 諦めではなく、一種の静かな覚悟だった。



 ほんのわずかな間近の友達がぽつりと言う。


「最近のシロネ、何考えてるか分からないや」

「みんなといても一人でいるみたい」


 シロネは微かに笑う。


「……私もそう思ってる。今は、みんなと少し距離をつくりたいの」


 その言葉には、自分への予防線が込められていた。孤立には苦しさもあったが、同時に、誰とも共感しない静かな自由が存在した。誰かに合わせて自己欺瞞に陥るより、本当の自分を守るための距離だった。



 練習後の更衣室。静寂の中で、タオルを畳みながらシロネは感情の揺れと向き合う。

 孤独を理由に何もかも放棄したくなる瞬間もある。でも、そうしない。自分を嫌わないためには、誰よりも“自分”で在り続けなければならないと知っている。

 孤独は決して弱さではなく、一人で踏みしめる「強さ」だ。

 努力も、才能も、「ツノがない」という現実に打ち消されはしない。

 彼女はそう信じ、文武両道や表面的な評価の外で“誰でもない自分”として明日を歩いていく。


 夜道を歩きながら、ネオンのツノ持ちたちを横目に、シロネはふと駅のホームで足を止める。

 この都市にいくつもの運命、いくつもの孤独がある。ツノがあってもなくても、人はみな揺れながら生きているはず。


「私は私でしかない」


 その言葉を小さく呟いて、誰にも告げないまま静かに歩き出す。

 彼女の内面には、過去と孤独、そしてこれから歩く未来の全てが優しく融け合っているのだった。

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