第一幕・第三話「益軒トア」
2025年4月。
春の朝の光は薄く、冷たさを秘めていた。
益軒トアは通学路を歩きながら、目の奥で周囲を尽く冷静に見ていた。
黒縁の眼鏡のその奥に光る瞳は冷静で、まるで透視するかのように細やかな世界を映し出している。
彼の額には、ツノはなかった。
誰もが当然のようにそれを認識していた。
トア自身、隠そうともしなかった。
何故隠す必要がある?
彼にとっては、背筋を伸ばして歩くこと、歩幅を整えること――どんなに小さくても規律を守ることこそが、自分の尊厳の証であり矜持だった。
トアが「努力家」と呼ばれたのは、生まれた時からのことだった。
幼子は朝早く目を覚まし、父の膝の上でストレッチを覚えた。
手にペンを握れば一文字一文字を丁寧に写し取り、躓くときは自分で繰り返し練習した。
礼儀正しいと褒められ、身だしなみを整え、約束は必ず守る子だった。
クラスメイトに優しく、誰かが困ればまっすぐに手を差し伸べた。
小学校では落ち着いた学級委員。
中学にはいると、自然にみんなの信頼を集め、生徒会長に任命された。
彼のノートは整然と文字が並び、教科書の書き込みは隙がなかった。
成績も部活の成績も平均をはるかに上回り、教師たちは「模範生」と称えた。
ツノ社会が訪れるまでは、誰もが彼を「正しい者」「将来有望な生徒」と認めていた。
本人も心からそう信じていた。
《正しく生きれば、道は必ず開ける》
《人は互いを尊重し、善意を返すものだ》
それは不動の信念であり、彼の支えだった。
だが、2023年から始まった「ツノウイルス」の蔓延は、彼の世界を根底から覆した。
新しく形成された社会構造の下では、ツノは「力」と「価値」の象徴となり、ツノのない者は異端とされた。
彼がいる場所は、もう「模範生」や「生徒会長」と呼ばれる聖域などではなかった。
ゆらゆらと揺れる、不確かな風の中だった。
◆
朝の教室で彼の周りを囲むのは、まるで光を反射するかのような多彩なツノを持った生徒たち。
その輝きの中で、トアだけが存在しない部分として目立ってしまうのだった。
囁き声は、やわらかい波紋のように広がる。
「アイツ、まだツノが生えてないらしいぜ」
「会長のは見えにくいだけなんじゃね?」
「お前まだ会長なんて呼んでんのかよ、元だろ元」
面と向かっての罵倒は少ないが、その陰にこめられる軽蔑と哀れみは彼の胸を痛めつける。
質問すれば無視はされない。
しかし返ってくる言葉には、必ず余計な視線がついてきた。
「ツノさえあれば、もっと理解できるんだよ」
ある者は優しく、ある者は冷たく。
彼の顔を見て言ったその言葉は、「あなたは未完成だ」と宣告するも同然だった。
時間が経つにつれ、彼は次第に教室という場から離れるようになる。
授業以外は図書室で過ごすことが増えた。哲学書、歴史書、東洋医学の古典。そこには彼の興味を目を引く本の束が並んでいた。
特に心を惹かれたのは、古代ギリシャの哲学者たちの対話集。ソクラテスの問いかけ、プラトンの理想国。中国の孟子が説く「性善説」。
《人は生まれながらに善である》
彼の眼鏡の奥の瞳は、その言葉に縋るように光っていた。
もし本当にそうであるなら、目の前の冷ややかな態度は、ただの一時の風潮でしかない。
善性は必ず戻ってくるに違いない。
トアはそう信じたかった。
◆
家の中で両親はいつも彼を気遣っていた。夕食時にはぎこちない笑顔を交わす。
「トア、今日もよく頑張ったね」
母の声には不安と愛情が入り混じっていた。
父は黙って新聞を読むが、彼を見る眼差しは誇りに満ちている。
「お前は正しい。気にすることはない」
かつては家族の希望の光だった「生徒会長」という肩書が、今では重い十字架のように彼と家族を縛り付けている。
トアはそんなことを決して口にしない。だが深く胸の奥底でその責任の重さを感じていた。
◆
放課後の校庭。
ツノを誇示する生徒たちが元気よく走り回る。
その輝くツノは日差しを受けて煌めき、彼らの声は力に溢れていた。
一瞬、トアの心が折れそうになった。
「どうして僕にだけ、生えないんだ……」
小さく呟き、握った拳は激しく震える。
しかしすぐに自分を叱咤する声も響いた。
(僕は間違っていない。ツノがなくても、人は人だ。正しく生きれば、それでいい)
彼は深く呼吸をし、丁寧に眼鏡を押し上げて前を見据えた。
◆
その夜、彼は机に向かった。
いつも白湯の湯気が静かに揺れている。ペンを取り、ノートを開き、一文字ずつ丁寧に書き綴る。
家族を守り、嘲笑う人々に憎悪ではなく、理性と思いやりで返せるようにするために。
大切に書かれた行のひとつに、「僕は善を信じ続ける」と強い筆圧で刻まれている。
しかし、ノートの端には密かに小さな文字で影が落ちていた。
《もし本当にすべてが善なら、なぜ僕はこんなに孤立するのか?》
どうしても答えは見つからなかった。彼にとって、それこそが孤独の始まりだった。
月の光が窓から差し込み、彼のノートのページを淡く照らす。
その筆跡は「善意」という星に手を伸ばしながらも、影に怯えている子どものように繊細で危うかった。
トアの心の中では静かな嵐が巻き起こっていた。誰にも見せられない感情の渦。
それは、これから訪れる壮大な運命の序章だった。




