第一幕・第二話「烏帽子レイシ」
2025年4月。
春の光はやわらかく街を満たしているはずなのに、烏帽子レイシにとっては何も眩しくなかった。
17歳、黒髪を無造作に伸ばした彼は、いつもニット帽を深くかぶっている。理由は誰にも言わない。だが、見れば一目で分かるのだ。──生えていない。額に、ツノが。
彼は幼少から、誰よりも優秀な少年だった。
小学生の頃、学年全体で挑戦した全国模試でただひとり満点を取り、教育雑誌に名前が載った。
9歳にして日本数学オリンピックの全国予選を突破し、最年少記録に名を刻んだ。
中学では1年生の頃から科学部で部長を務め、自らプログラムを組んで高度な自動計算装置を完成させた。校長からは「未来の数学者」と称賛され、誰もが彼の将来に期待を抱いた。
中学2年の夏には大学教授の推薦で、著名な研究機関の医学・数学領域合同研究プログラムに参加。ここで医学的ビッグデータ解析の基礎アルゴリズム開発にも関わり、幅広い将来の可能性を示した。
新聞の地方欄に小さく顔写真と共にレイシの記事が掲出され、祖母は涙をこぼして喜んだ。
本人も自覚していた。
目の前の数式や文章が、頭の中で整理され、瞬時に体系化される。他人には数時間かかる思考が、レイシには数分で組み上がる。冷静で、少し冷ややかなその思考力を、彼は誇りに思っていた。
──自分は特別だ。
そう信じていたからこそ、未来を楽しみにできた。
だが、その輝きは“ツノ社会”の到来とともに、あっけなく崩れ去った。
◆
「どんだけ頭良くても、ツノなきゃ意味ねーから」
廊下ですれ違いざま吐き捨てられた言葉は、かつて賞賛の声を浴び続けた少年にとって呪いのようだった。
能力も努力も、ツノの有無一つでゼロに還される。
中高一貫の進学校。
チャイムと同時に鳴り響く教室内のざわめきが、彼には刃のようだった。周囲の机には、誇らしげにツノを見せる生徒たちが集まり、角度や光沢を自慢し合っている。
「おい見ろよ、レイシまだトガってねー」
「いやいや今日は生えてんじゃね?ほら帽子取れって!」
かつて数学の黒板を数秒で埋め尽くした天才が、今は見世物だ。
レイシは無言で帽子を強く押さえる。目の前にはノートではなく、スマホのレンズが並んでいる。
笑い声。光の閃き。SNSに晒されるのも時間の問題だった。
ちょうどそのとき顔見知りの教師が廊下を通った。中学時代は「いいか、皆。レイシを見習え」と言っては便宜を図ってくれた男。今は視線を逸らし、苦笑して何も言わない。その背の向け方が、彼をより惨めにさせた。
◆
家に帰れば、そこもまた戦場だった。
母は夕食を並べる手を震わせながら、「あなたは昔から特別だったのよ」と慰めの言葉を繰り返す。だがその声色に滲むのは誇りではなく、不安だった。
父もまた、かつて「医大に行け」と背中を押した男だったが、今は口数を減らし、知人と会うことを避けている。陰で親族から「恥ずかしい」「ツノなしなんて病気みたいだ」と囁かれていることも、息子の耳に届いていた。
部屋に戻り、机の引き出しを開ければ、過去の名残が眠っている。科学コンテスト優勝の賞状、弁論大会一位の記念盾。
だが今やそれは惨めなレリックに過ぎなかった。
誇りはすべて「ツノ」という一点で塗り潰され、色を失った。
◆
気分を変えようと夜の街に出るが、その絶望はさらに強くなる。
渋谷のスクリーンに映るのは『ONI級ファッションショー』。
歌舞伎町を走るアドトラックには大きく『今月のトガリ美人ランキング』の文字と顔写真が。
新橋の居酒屋では『複数ツノ割引300円』と、看板にツノの文字が踊る。
街全体がツノを礼賛する祝祭に染まり、人々は熱狂する。
ほんの数年前まで、人は「努力」や「成長」、「挑戦」を尊んでいた。
だが今は忘れてしまった。尊敬されるのはツノの「輝き」や「長さ」、「珍しさ」であり、占いに使われるのはツノの"角度"である。
世界は変わった。
そして、自分だけが取り残された。
帽子の下に隠す額が、火傷したように熱かった。
◆
翌朝の教室。
机の中に入っていたのは、ツノの形に切られたコピー用紙。殴り書きされた言葉が並んでいた。
《ツノなし》
《ハゲてんの?帽子取れよ》
指が震える。眼の奥で過去の記憶が砕け散る。
表彰台に立ち、歓声を浴びたあの時。科学部の仲間と笑い合った日。両親が本気で誇ってくれた夕食の夜……そのすべて泡沫だったかのように。
どれだけ秀才であっても、ツノがなければ何も残らないのだ。
だが──。
彼の脳は鈍ってはいなかった。むしろ鋭さを帯びていた。
笑い声、冷笑、SNSの閃光。そのすべてを彼は嫌悪だけでなく、観察の目で捉えていた。人々の会話の裏にある欲望の構造、ツノの形が支配する権力の分布や階層の形成、言葉がどのように流行として伝播するのか。
かつて数式を組み立てたように、彼の頭の中では冷徹な社会の相関図が描きあがっていく。
そこに“合理はない”。だからこそ、合理を与える者が必要なのだ。
「結局、世界は合理で動いてない……なら、合理を与えるのは僕だ」
教室の机の隅で握りつぶされたコピー用紙が、乾いた音を立てた。
そのとき既に、烏帽子レイシの中には、“ただの被害者”で終わらぬ異常な芽が根を下ろしていた。
理不尽なツノ社会を別の形に築き直そうとする、冷酷な決意の種。
光でも栄光でもなく。
暗く、陰惨な道へ。
その歩みを始めてしまったのだ。




