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番がいい匂い過ぎるんです!【短編】【お題:番】

作者: 兎犬

初投稿です。

よろしくお願いします。



 ……なんだか、いい匂い。

 

 なんだろう、通学路で嗅いだ金木犀の香りのようにどこか懐かしさも感じる甘い匂い。

 つい先程まで濡れた雑巾を顔に押しつけられているかのような、なんとも言えない気持ち悪さで充満していたこの電車内が一気に心地の良い空間と化した。

 残業続きでグロテスクになっていた私に差し込んだ一輪の光を確かめるように、私はもう一度深く息を吸った。……やっぱり。ああ、いい匂い。

 

 誰かの香水……?だとしたら是非とも手に入れたい所存である。体に震えが走るほどのいい香りには生涯出会ったことがない。銘柄を今すぐ教えてほしい。

 

 ……いや、でもきっとこれは香水じゃない。

 この手の震え、歓喜に震える心、何故だか涙でぼやける視界、それがただの香水で起こること?絶対違うよ。


 次第に強くなる匂いに、頭がぼんやりとしていく。

 気持ち良すぎて頭がおかしくなりそう。いい匂い、いい匂い、いい匂い…………。

 薄れる視界の向こうで、車内の人たちが何かに迷惑そうな目を向けてもぞりと動いた。

 ―― 一層、香りが強くなった。


 

「すみません、通して!あ、そう君っ、もしかして僕の……っ」

「……は ぁ。す き」

「わあ!ちょっと!!」


 強すぎる香りに当てられた私は、そのまま意識を手放した。

 咄嗟に誰かに抱きかかえられた気がしたが、ぼぅっとした頭では何にも考えられなかった。


 *

 

「……はっ!え、夢!?」

 目を覚ますとプラットホームのベンチに寝かされていた。貧血でも起こして倒れてしまったのだろうか。

 繁忙期がやっと終わり、待ちに待った金曜日だもんね。気が抜けたのかも。

 直前の記憶が定かじゃないのだけど、寝かされていたと言うことは誰かがここまで運んでくれたのだろう。久々の失態に少々落ち込んだ。


「ああ〜誰だか分からないけど、迷惑かけてごめんなさい〜!」


 周りの人も急に人が倒れて驚いただろうなあ。

 満員電車だったもん。ああ〜恥ずかしい!


 昔から目立つのは苦手だ。

 他人に目線を向けられることに対して若干の恐怖を感じるてしまうため、影を潜めて生きてきた。

 そんな私が、満員電車でぶっ倒れるなんて……。

 

「体調不良なら許されるだろうけど!でも、だったら体調管理しとけよって話になる!?あうう、ごめんなさい〜!」


 頭を抱えて身悶えているとトサッと小さな音がした。そして何かが足元に触れた。


「ん、なに?」


 拾って広げてみると、それは紺色のスーツのジャケットだった。何故背広がこんなところに……?


 桜が散り始めた今日この頃、だいぶ暖かくなってきては過ごしやすい季節になってきたが、夜はまだまだ冷える。

 ホームに風が吹きこんできて前髪を揺らした。その冷たさにブルリと震えが走って、さっきまでそんなに寒いと思わなかったのにな、冷えてきたのかな、なんて思ったところではたと気づいた。

 このジャケット、私の足元にかけてくれていたのだ。顔と比較して冷えていない足の温度にそう確信した。今日は膝丈のスカートだったので、ここに運んでくれて人が配慮してくれたのかもしれない。

 随分と引っ張ったのか、変に皺がついたジャケットは大層不格好だったが、その姿に何だか胸が暖かくなった。

 

「優しい人が助けてくれたみたい。……あとでお礼を言わなくちゃ。」


 ジャケットの皺を伸ばして軽く畳みつつ、軽く周りを見渡した。

 

「というか、近くに誰もいないけどこの持ち主は一体……?私、動いていいのかな?」


 周りは皆、忙しなく動いている。缶コーヒー片手に早歩きで出て行く人、電話しながら頭を下げてる人、ベビーカーを押している人、仲間同士でワイワイ話している人、そんな人々の中で座っている自分1人が浮いているように思えてなんだか少し居心地が悪い。

 

 何だか変な心地でモゾモゾと体を動かす。

 さっきまでは何だか無性に気持ちが向上してだ気がするんだけど、今のこの消失感は何……?

 

「よっぽど良い夢でも見てたのかなあ?すごく幸せな気分を感じていたような……。ずっと探していたものが見つかった、みたいな。」

 

 何故かぼんやりとした頭では思い出せないけれど、胸の内に確かな多幸感が残っている。

 

 忘れてはいけない気がして、もう一度その感覚を手繰り寄せようとすんっと鼻が勝手に動いた。


「あ……そう。これ!そう、この匂い!!」


 ――っ思い出した!

 何故一瞬でも忘れることができたのだろう。

 涙が出そうなほどの、あれほどのいい匂いを。


 

「あっ!目、醒めてる!!よかった……っ!」


 真っ直ぐ声が聞こえて体が震えた。

 飛び上がるように顔を上げると、遠くに白いシャツの男性が見えた。走っているのかグングンと近づいてくるその男から目を離せない。

 混雑を極める構内で、何故か彼の姿だけがはっきりと映った。


「遅くなってすみません!近くのお手洗いが清掃中で……っ!はあっ!居なくなってたら……っ、どうしようかと、思いました……っ」

 

 全力で駆けてきたのか荒い息を吐きながら目の前に来たその男性は、濡れたハンカチで口元を覆いながら必死に弁解を始めた。

 

 ……いい匂い。背、高いな。手も大きい。あ、汗かいてる。何この匂い。髪短か。けど真っ黒できれい。眉毛キリッとしてるなあ。あ、少し垂れ目なのね。息上がってるのかわいい。匂い好き。ハンカチで篭ってるけど声も素敵。ああ、いい匂い。


 彼の声が私の脳内を揺らす。視線が私を震えさせる。胸の奥の奥から湧き上がる歓喜に、我を失いそうだ。

 それに何より……


「一度改札を出て、また入って来たんです。……っはあ、すみません。だから時間、かかってしまって。ふぅ、お待たせしましたよね?……ん、あれ?大丈夫?」

「うううーー!いい匂いが過ぎる!!」

「あっ!待って!!また気を失わないで!!」


 再度くらりとした私の頭を慌てて男が押し留めた。


 ……なに、この人。

 少女漫画の登場人物くらい背中に花を降らせなければ、これほどまでにいい匂いはしないだろう。脳髄まで突き刺さるような衝撃と幸福感。本当に同じ人間なのか……?


 もしや新手の生物兵器?人の意識を狂わせて世界征服を企んでいるとか。彼なら教祖になれるだろう。

 ああ、それならそれもありかも。こんなに幸瀬になれるんなら、誰も逃れられる訳ない。征服されるのもまた一興だよね……。


「トリップしないで!?もしもし!お〜い!」

「……はっ!!ほえ、何!?」

「は?かわい……んん゙、ごほん。」


 現実に戻され目を白黒させる私に、口元にハンカチを添えたままの男が一つ、咳払いをした。

 そして男は腰を縮めて、ベンチに座ったままの私に目線を合わせた。


「会えて嬉しいです。初めまして、僕の番さん」

「ひい、かっこいい、いい匂いだよお。…………ん?つがい??」

「はい、番」


 …………何ですか?それ?

 差し出された彼の手を反射的に握り返したら、彼の目は少し驚いたあと困った。


 *


 昔々、まだ「人間」という存在がなかった頃。

 生物はそれぞれ一個体しか存在しなかったらしい。犬ならその犬1匹のみ、猫ならその猫1匹のみ、そんな感じだ。他の生物とはよき隣人として生活し、それぞれがそれぞれの理で生き、動き、そして死ぬ。そうするとまた新たな命が生まれ、またその個人で生活する。そんな世界。

 

 誰かが言った。自分と同じ仲間が欲しいと。周りも反応した。それはいい。確かに今の暮らしも十分に楽しいが、自分の分身のような存在がいればより豊かな生活となるに違いない。それに、他の生物たちの暮らしも体験してみたい。一緒に生活するのも楽しそうだ。

 

 そんな声に神は応えた。

 よろしい、ならばお前たちをまず二つに分けよう。もう1人の自分を作ってやるのだ。次いで、みな「ヒト」という新たな生物に変えよう。皆で手を取り合って生活するのだ。

 気の合う自らの半身とだけ生活していては「ヒト」の繁栄は見込めん。半身は離れたところに置くようにしよう。もしも、半身同士が偶々出会うことがあれば交わるのもよい。どうしても惹かれ合うだろうから、と。

 

 ヒトになった彼らは喜んで生活し、その数を増やした。ほとんどの人間が今では昔の種族関係なく暮らしている。好き好きに伴侶を見つけ、子を作り充実した生活を送るが、偶にその枠から外れる者が現れた。


 *


「それが、番のいる人だと?」

「そう。研究者が少ないから解明されてないことが多いけど、稀に昔の種族の名残が強く出る人がいるんだ。そういう人は大抵、身体のどこかに他の人と違う何かがある。人によってはただ耳がいいだけとか鼻が効くとかそんな人もいるようだけど、僕なんかは立派な尻尾が生えちゃってね。おかげで昔は色々と調べられたもんだよ。」

「ひととちがうなにか。……あっ!」


 ハッとして、私は耳を抑えた。

 私の耳は少々変わっている。可動域は少ないのでじっと見ないと分からない程度ではあるのだが、この耳、私の気分によって勝手に動くのだ。例えば、楽しかったり嬉しかったりするとピクピク動き、悲しい気持ちになるとやや下に垂れ、驚くとピンと張るのである。

 低学年の時にそれほど仲良くないクラスメイトに見つかって、めちゃくちゃに揶揄われたことがある。その頃から、私はこの奇妙な耳がものすごくコンプレックスとなった。

 他人の目を気にするようになり、他人と関わることに臆病になり、他人に本心で向き合うことができず、深い仲を築くことができなくなった。

 この男が言うことを信じるとすれば、この奇妙な耳は番由来のものなのだろう。ここで私のこの耳の謎が解明されるとは思わなかった。


 呆然と耳を抑えたまま想いにふける私に、男はクスリと笑った。

「ふふ。君は、そこ?」

 

 彼の持つグラスの氷をカランとなった。

 正直、荒唐無稽な話だと思う。私が知っている人間の成り立ちと全く違う進化論で、何を言ってるんだこの人は、と思う気持ちもある。

 ただ、納得せざるを得ない部分も多いのだ。

 

 私は耳を抑えたまま、その男をじとりと睨んでやった。先ほどからずっとピクピク動いていたはずのこの耳を彼は見ただろうか。

 初対面のはずの彼を見るだけで、彼の視界に入っているかもと思うだけで、身体中が歓喜で埋め尽くされてしまうこの現象。

 おおよそ人間から香るとは思えない、頭が爆発しそうなほどのいい匂い。動き続ける耳。

 なにより彼に対する言いようの無い渇望が"番"という存在の何よりの証拠だと思った。


 ――それに、彼も私から目を離さない。

 

「うう。あまり見ないで欲しいです。」

「ごめんなさい。無理です。君の全てが可愛すぎて。」

「かわ……っ!!やめてください!もぉ!」


 この男、先ほどからこの調子なのである。

 ニコニコと笑いながら、サラリと私を褒めちぎるのだ。耐性のない私には彼の存在自体が毒である。

 

「こういうの、慣れてないんです……っ!あまり褒めないでください、はずかしいからっ!」

「うぐ!!っはあ、本当にどうにかなりそうだ。こんなに愛しく思うとは。……番というものを舐めていた。」

「……?なんて?」


 最後にボソリと呟いた言葉を聞き返した私に、男はニコリと笑った。

 

「なんでもありません。こほん。それはそうとして、改めてこうして食事に応じてくれて本当にありがとうございます。」

「いえっ、こちらこそ誘っていただきありがとうございました!車内で助けていただいたことも重ねてお礼させてください。スーツも皺だらけにしちゃって……クリーニング代とか……」

「いえいえ、それは気にしないでください。」

「いやでも!せめて、ここのお会計は私にさせてくれませんか!?このままは申し訳なくてっ。それに、多分私の方が年上ですし……」

「いやいやいやいや、何言ってるんです!僕が無理に誘ったんですよ?払わせてください。これでも稼いでいるんですよ?」


 有無を言わさない彼の瞳に、私は唸るしかなかった。

 困った顔の私に、彼は悪戯っ子のような表情で衝撃の言葉を告げた。


「それに……多分、いや絶対、僕たち年は同じはずなんです。というか、誕生日も生まれた時間までも。僕は〇〇年、〇月〇日生まれ、日付が変わると同時に生まれました。君はどうです?」

「……ええっ!うそ。」


 確かにそれは私の生年月日と同じだった。生まれた時間までは正確に覚えていないが、深夜に生まれたと聞いたことがある。


「番は半身。だから一緒に生まれるんです。」


 そんな摩訶不思議なことが起こり得ていいの?

 半身?半身って何よ?でも、でも……。


 頭の中がグルグルだ。

 チラリと彼を見ると、私が話を飲み込むのを待ってくれているらしく、静かにマドラーで氷を揺らしている。

 その穏やかな目に私の混沌は少しずつ溶けていった。


 ……そうか、彼が私の番、なのかあ。

 かっこいいな。いい匂いだな。素敵だなあ。

 

 ………………好きだなあ。


 私はこれまで、異性に対して友達以上の好意を持ったことがなかった。耳のこともあって一定以上に他人に近づかないようにして来たし、その耳を隠すためにいつも長い髪を括らず降ろして陰気な雰囲気を出していたので、男の人から好意を持たれたこともほぼなかったのだ。


 私の番だというこの男、名前を田口(たぐち) (いおり)と言うらしい。と同じ29歳で大手製薬メーカーに勤めているようだ。水泳が趣味らしく肩幅が広くスラリと引き締まっていて、手足が長く背も高い。ツンと立った短髪は艶のある黒髪で、キリッとした眉毛は意志の強さが感じられる。


 その……彼はすごく、格好いいと思う。

 これまで異性の外見に対して、好き嫌いを考えたこともなかったが、何故か彼の姿だけが私の心を貫くのだ。声も好きだ。聞き心地のいい低めの声、ずっと聞いていたくなる。そしていい匂いだ。蕩けるほどに。

 

 なにより私を見る目がそれはそれは優しくて、私を惑わせてくる。目を合わせてしまうと酩酊状態に陥ったように、私の意識を薄れさせるのだ。


 これが番なのか。

 すごいなあ〜〜。番って。


 わたしがじーっと眺めているのには了承しているらしい。彼の方も時たまこちらに視線を向けては少し目の周りを赤らめる。愛しいなと思う。

 ――彼の顔も見てみたくなった。


 だって彼、出会った時からずーっと、顔の半分を隠したままだ。いつ変えたのかは分からないが、駅にいる時に見た濡れた白いハンカチから赤いハンカチに変わっているが、鼻から口を隠し続けている。


 目だけで感情は読み取れるため会話に困りはしないが、冷静になってくるとその赤いハンカチの存在が気になってきた。

 それにもう一つ、困った問題が噴き出してきたのだ。


 くぅ……、と物悲しくなる自分のお腹に手を置いた。耳がしょんぼりと項垂れてきたのを感じる。

 ――そう、お腹が空いてきたのだ。

 

 口元を抑える田口は、ニコニコと笑ってはいるものの飲み物は飲まないつもりのようだ。氷は着実に小さくなってきているがグラスの酒が減るわけもなく、そのため勿論他の食事にも手を付ける様子はない。


 そうなると必然的に私も箸が進まない。だって食べづらいじゃないか。

 ここのところ忙しくてご飯を食べる余裕がなかった。特に今日は昼食もあまり食べられなかったし、残業もあった。

 ……目の前で冷えていくご飯たちに、抑えていた食欲が悲鳴を上げた。


 いい匂いと幸福感で薄れていた思考が、今はただ一心にお腹減った〜〜!と叫んでいる。

 このままではまずい。ね、食べよう?一緒に!!

 ――私は意を決して尋ねた。

 

「あの、ちょっとお聞きしても?」

「は、はい!もちろん、なんでも。」

「その、田口さん……のそのハンカチ?はどうされたんですか?何かお怪我でも?」

「え?これですか?ってうわ赤……っ!?あっいや気にしないでください。えーと、大丈夫です。怪我とかじゃないので!」

「それじゃ困るんです!」

「……え?」


 気になるよ!ご飯食べられないもん!

 一度認識してからどんどんと強くなっていく空腹感に、思考を汚染されかけている。正直今はもう、匂いがどうとかどうでも良くなって来ているくらいだ。

 

 しかし彼の様子からすると、触れられたくない話題らしい。目に見えて狼狽している。

 しかし元気なら彼にも食べてもらいたい。

 何か……いい案は……。


「その……田口さん、もしかして私臭いですか?」

「は!?何故急に?」

「だって……、ずっと鼻を抑えないといけないほどの何かがあるんですよね?今日は仕事で少し汗をかいたので、それがその……ご迷惑になったのではと。」

「ありえません!こんなにいい匂いなのに!」

「えっ」

「ん゙ん゙っ、いや何でも。とっとにかく橘さんから嫌な匂いなんてしませんよ、全く!」

「それなら……、ハンカチ外してもらえませんか?私、田口さんと一緒に食事がしたいです。」


 やや上目遣いでお願いしてみる。

 もう30に片足突っ込む女の涙目上目遣いなんて私からしたら恐怖でしかないが……。


「ぐふっ!か、かわいい」

「!!」


 ――効いたらしい。これが番効果?

 

「…………わかりました。外しましょう。」

「わあ、本当ですか!!」

「でも、その……………………引かないでくださいね」


 眉を限界まで下げた男が、口元からハンカチを外した。鼻は高く筋が通っていて、薄い唇は涼やかで綺麗だ。よっぽど隠したい何かがあるのだろうと思っていたので、正直肩透かしだった。

 しいていうなら、抑え過ぎたせいか鼻が何だか赤い気がするが……。

 

 何でもないじゃないかと言おうとしたところで、それは落ちた。

 

 ……というか、垂れた。


「え!?大丈夫ですか?鼻血!?」

「ずび。あああ、すみません本当、汚いものをお見せして……。」

「えっ、鼻血を隠したかったんですか!?」

「はい、ほんっと恥ずい。……橘さんと会ってからずっとこれで。」

「ええっ!?」


 ハンカチで鼻血を拭いた彼を見て、ふと思った。

 もしやその真っ赤なハンカチ、前世は白かったですか……?

 急いでカバンからポケットティッシュを取り出して彼に渡すと、遠慮しながらも受け取ってくれた。

 

「すみません、本当。ああ〜、格好つけたかったんだけどなあ。まじでダサすぎる。舞い上がって鼻血が出続けるだなんて……」

「いえ、そんなダサいだなんて……っ」

「いやダサいし怖いじゃないですか?自分と出会ったことで鼻血噴き出す男なんて……」


 そこで田口はふと机の上に目を向け、何かに気づいたように口を開けた。


「ってもしや、俺が食べなかったから橘さんもご飯食べられなかった!?うっわ俺、自分のことに精一杯で……え俺、だっさ!うわー!」

「落ち着いてください田口さん!大丈夫、大丈夫ですから!」

「ああ〜本当ごめんなさい、橘さん。お腹空いたよね?食べよう」

「いえいえ、はい本当に。じゃなかった。いただきます!」


 駅近くのこの居酒屋に入ってすでに1時間は経っているが、ここに来て初めて私たちは温くなった酒と冷たくなった食事に手をつけた。

 よく分からない状況に、私はずっと混乱していた。だが、彼も同じだったのだ。それを知って自然と口角が上がった。


「ふふっ、美味しいですねこの焼き鳥。」

「…………本当ですね。今まで食べた焼き鳥で一番美味しい。」

「それは流石に言い過ぎでは?ふふふっ!それにいい匂い!あははっ!!」


 訳もなく楽しくなり、私は暫く笑いが止まらなかった。そんな私を田口は優しい目で眺めてくれていた。ただやはり時折鼻血が出るようで、その度に急いで拭う姿に私はまた笑った。


 

 居住いを正した田口さんが私に話しかけて来た。


「お恥ずかしい話なんですが、聞いてもらえますか?先にも言ったように、僕……いや俺は小さい頃、番の研究施設に世話になっていたんです。」


 田口 庵は話し始めた。

 犬のような尻尾を付けて生まれた彼は小さい頃、番の研究施設と家を行き来する生活をしていたそうだ。彼ほどはっきりと番の身体的特徴が出るものは珍しいため、病院から施設に話がいったのだという。

 あまり知られてはいないが、時たまそういう子は生まれるので、そうした子の対応は医師の中では暗黙の了解になっているらしい。

 

 ただ、研究施設といっても番について知りたい社会人有志で集まったもののようで、SF小説でよく見るような親元からの隔離だったり、執拗な血液検査なんてものはないらしい。


 研究員も基本的には番のいる人間で、自分たちの共通点や相違点を調べたり、番の現れそうな場所等を予測したりするのが主な研究内容のようだ。

 研究員の中でも既に番に出会えている人はごく少数で、ほとんどが出会えていない。そもそも、同じ国にいるかどうかも分からない、生涯出会えるかも定かではないのだ。

 したがって、いつか自らの番が現れるかもしれないと期待をかけてその研究施設に属し続けている人もいるようだ。


「そこまでして、番に会いたくなるものですか?」

「そうだね、俺もそう思ってた。」

「田口さんも?」

「橘さんが自分でどう思っていたかは分からないんだけど、番のいる人間って基本的に他の異性に興味が持てないらしいんだよ。身に覚えがない?」

「はい。人間的は好きでも、異性としての好意は感じたことがありませんでした。」

「そうでしょ?変に思ったことはなかった?」


 うーん……。確かに、学生時代にみんなが好きな相手がいるだの告白するだの言っている時に、私だけ話題に入れなかった時はあった。ただ極力そういう話題は避けて来たので困ることはなかった。

 それが番由来のものだとは思ってなかったが。


「……田口さんもそうなんですか?」

「そうだね。俺はそもそもあまり同性であっても他人に一定以上の興味が持てなくてね。番の研究施設の人だって、社会人サークルみたいなものでみんな同じ属性なんだから仲良くやりましょう、みたいな空気が少し嫌だってくらいだ。はは、酷い人間だろ?」

「いえ、私も少しそういうところがあるので分かります。」

「……施設の人でさ、番はいいぞ!って言い続けてる人がいるんだ。その人は海外旅行中に番と出会って意気投合して結婚したんだけど、ビビッと来ただの運命の相手だの腰砕けになるだの大袈裟なことばかり言うからなんだこいつと思ってたよ。」

「ふふ、楽しそうな人ですね」


 そうやって話す田口さんは優しい顔をしていたので、その相手のことは決して嫌いではないのだろう。人に興味が持てないなんて言ってはいたが、良い人間関係を結べていたらしい。


「そう……それで、お前も早く番を見つけるべきだ!なんて延々と言ってくるものだから煩くて煩くて。あ、ごめんねこんな話。まあ、でもそんなに言われても俺は番は必要ないと思っていたんだ。」

「……理由を聞いても?」

「だって、知り合いでもない相手に急に最上級の好意を持つなんて気持ち悪いじゃないか。何かに操られているようで。だから、俺は番を探さないし、もしも出会ったとしても無視しようなんて上から目線で考えてたんだよね。」

「無視、ですか……」

「それが……」


 彼は完全に氷が溶けて薄まった酒を一口で煽った後、机に突っ伏して深いため息をついた。


「それがまさか、こんなに可愛くて後光が刺しているような人間が現れるなんて想像できます?いや出来ないね!」

「へあ!?」

「ほんっっとにあり得ない。こんな近くにいて何故今まで出会えなかったのか、本当に悔やまれる。自分が不甲斐なくってしょうがない」

「あ、あの!!」

「その声も、仕草も本当に可愛い。あ、失礼また鼻血が……。本当に、常識が覆されたんだ。やっとあの人の言ってたことが理解できた。」

「……田口さん、酔ってますか?」

「あはは、分かる?俺、めちゃくちゃお酒に弱くて。普段はそもそも飲まないんだけど、今日は飲まないと正気でいられないんだ。橘さんがあまりにも可愛くて。」


 目が充血し、饒舌になった田口 庵はどこか吹っ切れたように爽やかな笑顔で笑った。最初に話し始めた頃の落ち着いたイメージとは違ったが、私には今の酔った姿も魅力的に見えた。


「橘さん、俺とお付き合いしてもらえませんか?」

 

 ……嬉しい。すごくすごく嬉しい。

 私も、彼が好きだ。出会ってから、もうずっと。

 彼の一挙手一投足に心が跳ねる。目で追いたい。側にいたい。そう心が叫んでいる。

 冷静に、冷静に、と気を引き締めているからどうにか話ができているが、気を抜くとまた気を失いそうなほどなのだ。


 私はふぅ〜〜〜と長い息を吐いた。

 そして、膝に手を置いて、彼の目を見た。

 

「私も、あなたに好意を抱いています。出会った時から。」

「……っ!ありがとうございます!」

「匂いも勿論好きですが、姿かたちや声、動作全てが魅力的に映ります。」

「はい、俺もです。橘さんの全てが好きです。」

「……ありがとうございます。照れますね………………じゃなくて、そうじゃなくてっ!」


 照れている場合ではない。

 ここは絶対言わなければならない。


「……お付き合いは、少し考えさせてください。」

「えっ!どうしてですか!?」

 

 私はずっと考えていたことを口にした。

 

「私は、田口さんのことを、番としてじゃなくても好きになりたいです。」

「……!」

「番だからって理由だけで心を決めてしまうのが、何だか怖いんです。運命に抗いたいわけじゃない。ただ、私は――自分で貴方を好きになりたい。」


 私の声は震えていたと思う。

 申し出を断るだけで胸が張り裂けそうだ。けれど、この気持ちをなあなあにして流されると、私が私でなくなる気がした。

 

 確かに私は彼が好きだ。その匂いは本当に頭からつま先まで痺れて私を狂わせるし、その瞳に見つめられるだけで私の心をかき乱す。

 

 ……でも、でも、それは本当に私がそう思ってるの?そんな気持ちが、ずっと拭えない。

 私は彼の何を知っているの?彼は私の何が好きなの?彼の思う私とは誰?彼に好かれる私とは何?

 

 田口は目を見開いたまま、しばらく何も言わなかった。そして、ゆっくりと笑った。


「……すごいな、橘さんって。」

「え?」


「俺も同じ考えだから。ただ、俺は番の魅力に抗うことができなかった。橘さんをみた瞬間、コロリとやられてしまって、はは、情けない。付き合いたい、一緒になりたいとしか考えられなくなったんだ。一貫性のない男。あー……、今日の俺本当にダサいな。」

「田口さん……。」


 田口は、机の上でカピカピに固まっているハンカチをグシャリと握った。


「運命って、何だかズルいなって思いませんか?好きになる理由を奪われるみたいで。橘さんの気持ちはすごく分かる。“選びたい”って言ってくれて、嬉しい。俺も選ばれたい。」


 ポツリポツリと静かに話した田口は、私の目を見据えた。私も、私の中で暴れる番いの本能を抑え込んで彼の目を見返した。

 

「橘さん、俺たちお友達から始めましょう。」

「……田口さん。ありがとうございます。私も、そうしたいです。」

「俺も、貴女に、ちゃんと“好き”って言ってもらえるように頑張ります。番だからじゃなく、人として。」

「はい。私も、ちゃんと見ます。ちゃんと知って、ちゃんと……好きになります。そして、私のことも好きになってもらいたいです。」


 初めて彼の目を見ることができたように思う。それが私にはとてもとても嬉しかった。

 焼き鳥はもう冷めていたけれど、不思議とそれさえ温かく感じられた。


 *


 それ以降、私たちはよくLINEをした。

 「おはよう」「今日は頑張ってね」「晩ご飯食べた?」そんな他愛もないやり取りが、私にはたまらなく嬉しかった。


 週末、ふたりで動物園に行った。

 動物たちの匂いに一時的に私が田口さんの匂いが分からなくなったり、ウサギと戯れる私の姿に田口さんがのぼせて倒れかけるハプニングもあったがそれも楽しい思い出となった。

 田口さんは私といるとやっぱり鼻血が止まらないようで、その日はハンカチが3枚ほど駄目になった。


「ほんとに、君といると鼻の粘膜が持たない……」

「……それは褒め言葉ですか?」

「その通りです。好きです。」

「ふふっ」

「あ、耳動いてるよ」

「あ、み、見るなあ!!」


 さりげない好意のやり取りに、少しずつ、私は“番”ではなく“私自身”としての恋を実感していった。


 *


 その日は雨が降ってきたので、急遽駅前のカフェに入った。シトシトと降る雨に濡れる道路を眺めながら、私たちは温くなったコーヒーを飲みながら会話した。


「番だからっていう理由だけで付き合うのは、正直少し怖かったの」

「うん、分かる。」

「でも、何度も会って話して、こうして好きなものを知ったり……」

「……パフェ、俺だけ食べちゃってごめんね」

「ふふ、美味しい?初めは庵さんって、もっと落ち着いた男性かと思ってた」

「最初ものすごく格好つけようとしてたことは、もう忘れてほしいとあれほど……」

「無意味に氷をカラカラしてみたり?」

「グラスを持って、笑ってみたりね?もう止めてください」

「でも私、そういう貴方も好きですよ」

「君、結構罪な女だよね……」

「そう?ふふ」


 言葉を交わすたび、香りの奥の本音がひとつずつ見えてきた。

 思ったよりもずっと普通で、嬉しくて、心地いい。


 *


「今日も、とても楽しかったね」

「うん、ほんとに……幸せだった」

「じゃあまた、電話するね」

「……うん。また」


 いつものように別れようとして、ふと私は立ち止まった。長く伸びた2人の影が仲良さげに交差しているのが見えた。


「ね、田口さん。私のこと、好き?」

「もちろん、ものすごく。」

「ふふっ」

 

 私は手を伸ばして、彼の顔をぐいっと自分に近づけた。


ちゅ。


「―――――っ!」


 田口が絶句し頬を押さえた後、慌てたように鼻をつまんだ。


「な、なんで!?なんで今!?俺、無理、まって、しぬかも、」

「……鼻血?」

「鼻血!!!!!!!!」


 最近出てなかったのに、もー橘さん〜〜……なんてぶつぶつ言いながら蹲ってしまった彼を見て、私は笑った。


「今日はここで。また土曜日ね。」

「……はい。ありがとうございます。…………橘さんには勝てる気がしない。」

「ふふっ、凛でいいですよ。それじゃ」


 真っ赤な顔で睨む彼を横目に、私は背を向けて歩き出した。心の奥に、じんわりとした熱が灯っていた。


 香りだけじゃない。

 私が惹かれたのは、確かにあの人の心だったんだ。

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