水曜日の勉強
放課後になって、わたしは四年生の教室がある棟を訪ねた。
普段一、二年生の使う棟で生活しているため、足を踏み入れたそこは思った以上に大人っぽい空間に感じられた。
わたしは黙っていても下級生とわかるのか、たまに周りがこちらを見てヒソヒソしたりする。
先輩はあれで特待生だから……教室を探して覗き込むと先輩は中にいた。
けれど、わたしが来たのに気づくとすぐに立ち上がり、反対側の扉から出ていってしまう。
ぼけっと見ていると廊下の先から「おい」と呼ばれた。
「は、はい?」
「行くぞ」
もしかして約束したから、わたしが来るのを待っていてくれたんだろうか。やっぱり優しい……? あと意外と律儀だ。
よーし、なんとか好かれよう!
奮起したわたしは先輩に揉み手で近寄る。
「先輩、鞄お持ちしますよ!」
「俺に触んな」
「今日いいお天気ですね」
「曇ってんだろがよ」
「授業どうでした?」
「どうもこうもねえ」
ううむ。つれない。しかし冷たいながらもなんだかんだ返事はしてくれる。やっぱり優しい……かも?
先輩と歩いていると、ほんとうにいろんな人が見てくる。
噂はまわり、注目度は上がっていた。
これが恋人同士なら、そこまででもなかったかもしれない。しかし、レアンドロ・アルドナートに、無謀で果敢な下級生が付き纏っている。しかもなんと微妙に完全拒絶されていない。
ということで、周りは余計に興味を掻き立てられているようだった。
先輩は大股でズンズン先を進んでいく。
「先輩、どこ行くんですか」
「図書館棟だ」
「へ?」
「試験があっから、勉強してえんだよ」
ガラの悪い喋り方に反して内容はとても感心だ。
勉強なら邪魔しちゃならない。
「わ、わかりました。では」
「あ?! 何言ってんだ。てめえも来んだよ」
「え?」
「もう時間がねえんだろが!」
「そ、それはそう、なんですけど……勉強は?」
「あぁ? てめえもすりゃいいだろが!」
「えぇー……」
いまさら勉強なんて、すっかりする気がうせている。
先輩は図書館の受付の人と話すと鍵を受け取り、空いていた小さな自習室に入った。
勉強すると言っていたが、先輩は分厚くて赤い装丁の本を鞄から取り出して読み出した。
ちょっとチラ見したけれど、タイトルさえ読めなかったので愕然とした。たぶん一番難しいといわれている古代魔術の言語で書かれた本だ。なんとなく形は知っているが一文字たりとも読めない。
先輩が真面目に本を読んでいるので、わたしも仕方なく鞄に入れっぱなしだった課題を取り出した。
正直、こんなのもうやらなくていいかなと思ってまったく手をつけずにいたけれど、今はほかにやることもない。
学院は魔術のお勉強がメインだが、基礎教養としてほかの科目もたくさんある。わたしが苦手なのは算術。秘薬学。王国史。社会学。魔術史。魔術倫理学。もろもろ実習。魔術で使われているメイン言語であるラペル語。それから……まぁだいたい全部苦手である。
鞄に入っていたのは魔術式を数式化する問題集で、算術の応用なので一番嫌いだった。おまけにこれは試験の成績が悪かった生徒にだけ出される追加課題だ。
最初はひとりでせこせこやっていたが、わたしが首を捻り、小さく唸るのが気になったらしい。本から顔を上げた先輩がわたしの問題集を覗き込む。
「おいそこ! 明らかにちげえだろ」
「ひ、ひぃ!」
「なんでユルド式使って作ろうとしてるんだよ。そこはミューラ式じゃねえと数値めちゃくちゃになんだろが!」
「は、はいぃ!」
「できたか?」
「あ、できました」
使う式間違えてたからぜんぜんできなくて当たり前だったんだけど、言われたやつでやったら、思ったより普通にできた。
「ただのくだんねえ勘違いだ。次! 特攻しろ!」
「はい!」
次も同じようにやると、すんなり解けた。
「よし、いいぞ。行け! 次もぶっとばせ!」
「はい!」
応援が野次すぎて、あまり勉強している感じがしない。それに、間違えるとケツから手突っ込んで奥歯ガタガタいわされそうな先輩に教わると、緊張感がすごい。
しかし、気づけばわたしはやる予定じゃなかった追加課題を、いつもより数段短い時間で終わらせていた。
「やればできんじゃねえかよ」
うっすい褒めをくれる先輩の目の前で、わたしはテーブルに突っ伏して伸びていた。緊張感がすごくて疲れた。さほど暑くもないのに汗だくだ。
「うう……実際に魔術を使う時に原理なんて関係ないのに……なんでわざわざこんな……意味のないことを……」
「それ言ったら大抵の学問は日常生活に関係ねえんだよ……」
「じゃあなおさら、なんのために……?!」
「るっせえな! この世界を生き抜くためだよ! できねえ奴の定番台詞ガタガタ言ってんじゃねえ!」
「はい!」
その通りだし、こんなガラの悪い人に言われると情けなさもひとしおだ。
「お前、二年になってサボりだしたろ」
「わ、わかりますか」
「少なくとも基礎はできてるからな」
「いやあ、風邪ひいて一週間休んだら、もうついていけなくなって……全部崩れました」
もともと座学も実習も異様に要領が悪かったわたしだが、一年の時にはそれを埋めるように、人一倍努力していた。毎日予習復習してたし、休みの日もずっと勉強や実習の練習をしていた。それでも順位は真ん中よりやや下くらい。
わたしと寮が同室だった子は、夜はさっさと寝ていたし、恋人をつくって休みの日にはデートに出掛けていた。
それでも彼女はわたしより試験順位は上だった。それなのに、ものになりそうにない、と言ってあっさりやめていった。
もしかして自分はバカな上に才能がないのではないかという恐ろしいことに気づきそうになったが、未来がかかっているため、見ないふりをしてずっとがんばっていたのだ。
それが風邪をひいたことであっけなく崩れて、持ち直せなくなった。
「一年の時にちゃんとやってたのはでけえぞ。基礎はできてるから、取り返すのはまぁ早ぇだろ」
「そんなの……できたってどうせ……」
わたしの言葉はそこでとまった。
先輩がわたしを鋭い目で睨んでいたからだ。
「お前、隙あらば諦めようとしてんじゃねえぞ」
「え」
先輩はまた本に戻っていた。
わたしには、題字すら読めない本。辞書も使わずメモひとつ取らずに読んでいる。
わたしだって、なんとか持ち直そうとがんばっていた。でも、どうせ無理なのに。そんなネガティブな思いが集中力を余計に削いだ。もともと、普通についていくのもやっとだったのだ。
でもそんなのは、目の前のこの人にはきっと、少しも理解できないことなんだろう。
「わたし……先輩が羨ましいです」
そう言うと、先輩の顔色がすっと変わった。冷たい目を向けてくる。
「てめぇ、それ、俺の生い立ち知ってて言ってんのか?」
そう言った先輩の体の周りに、一瞬だけバチッと電気のようなものが走った。なんだなんだ。何現象かわからないけれど、怖い。
「お、甥たちですか? いえ、先輩の甥っ子……有名なんですか?」
そう答えると、彼の顔から一気に怒気が抜けた。
「…………そうかよ」
寮への帰り道の途中で「甥たち」が、「生い立ち」のことだと気づく。
だいぶ頭がぼうっとしていた。