水曜日のサボり
水曜午前。
授業をサボった。
人生初だ。
ふざけた呪いにかけられ、レアンドロ・アルドナート先輩の人柄を知り、解呪の見込みの薄さを感じてから、わたしは謎の解放感に満ちていた。
そうして思ったのだ。
どうせ死ぬなら、授業なんて受けなくていいよね!
校内を歩くと、見たことのない風景がたくさんある。
この角度から見た時計台の鐘、なんかイイ。
この階段は汚いと思ってたけど足音はなかなかイイ。
どれも前からあったものだ。いろんなことに押しつぶされそうになっていて、風景なんて、てんで目に入っていなかったのだ。
空気を大きく吸う。
雲がちぎれて動いていくのをじっと見つめる。
芝生に落ちた木漏れ日を踏んで歩く。
ズル休みは最高だ。
みんなが授業を受けている時に外の渡り廊下に座って、猫を撫でて過ごしてしまった。
控えめにいって、最高だった。こんなに素敵なこと、生きてる時にもっとやっておけばよかった。
いや、まだギリギリ死んでなかった。
お昼休みのベルが鳴り、わたしはムクリと起き上がる。
湖広場に向かわなければならない。
わたしには、まだもうちょっとだけがんばる余地がある。
レアンドロ・アルドナート先輩によって、一縷の望みが与えられてしまったからだ。
やれることはやっておこう、という気概は一応ある。えらい。
小さな美しい湖の周りにベンチが複数配置された湖広場は、何組かのカップルがまばらにいて、のどかに賑わっている。
そこにゆらりとした殺気を纏った先輩が現れた時、わたしの勘違いではなく、たぶん周囲全員がたじろいだ。
急いで逃げるように移動を始めるカップルはカラスが来てバサバサと飛んでいく小鳥たちを連想させた。
先輩はかったるそうな顔でこちらに来て、わたしのいるベンチの隣にドカッと腰を下ろした。
自分が呼んだくせに『ひっ、隣に座ったぞ!』と、ビクウとしてしまう。顔立ちと似合わず動きがいちいち乱暴で豪快。
それでも先輩は約束通りちゃんと来てくれた。七割すっぽかされると思っていたので驚いてしまった。
「んだよ」
「い、いえ……来てくれると……思ってなくて」
「まぁ、最初は試験前に俺を嵌めようとしてる奴がいんのかと思ったが……なんかお前……すげー真面目そうだからな……」
「あ、はい。真面目だけが取り柄の影の薄い奴です」
自分で言うのもなんだが、わたしの容姿はごくごく無害だ。肩までの藍色の髪も、それと揃いの色の瞳も、策略的な人間にはとても見えないだろう。
髪の毛の、左のサイドの一房だけが変身術の実習の失敗で鮮やかなピンクに染まってしまっていたが、それがあってもなお、ふざけてこんな頼みをするタイプには見えないはずだった。
誰でも問答無用で消し潰すかと思いきや、この先輩、ちゃんと人相は見てくれてた。よかった。
「飯食ってたんだろ……食えよ」
「はい! 食させていただきます!」
完全に舎弟の口調で答えて、とりあえず途中まで食べていたサンドイッチを口に入れる。
先輩を見ると、やたらと硬そうな焦茶のパンを素のまま丸ごと食いちぎっていた。
まるで野生動物が肉を食べてるみたいに見える。たぶんそこらで狩猟してきた野生のパンなんだろう。
そしてわたしもまた、たぶん端からは、彼の食事が足りなかった時に食べるために置かれた貧弱な草食動物のように見えていることだろう。
ちっともなごやかじゃない昼食が終わり、わたしはこの重苦しい空気を少しでもなごませるため、声を上げた。
「では、これから先輩の好感度を上げていきます!」
ベンチにだらしなく背を預けた先輩は、フンと鼻を鳴らし、じろりとこちらを睨む。
「どうやって?」
「な、なんとか」
「だからどうやんだよ」
間髪入れずに返され、少し考える。
「先輩、男の人って、何されるとグッと来るんですか」
「知らねえよ」
チャンスをくれたわりにぶん投げてきて、いまいち協力的じゃない。それくらい自分で考えろというのはもっともな話ではあるのだが。だが……何も、思いつかない。
「先輩、今気づいたんですが……」
「あ?」
「わたし、恋愛経験皆無でした」
わたしの人生は生きてるだけで色々大変だったので、恋愛にかまけてる暇などなかったのだ。
「ううん……どうしていいやら……先輩は、恋人いたことあります?」
この顔でいたことがないのはおかしい気がするし、この性格でいたことがあるのもおかしく感じる。なんて難しい人なんだ……。
聞いてはみたものの、絶対答えてくれないだろう。そう思いきや、先輩はボソリと返した。
「……一瞬な」
「え! いたんですね! すごい! なら、先輩のほうが詳し……」
「……っ、一瞬つったろうが!」
「うわぁ! 凄むのやめてください! 一瞬でもすごいじゃないですか! わたし皆無ですよ!」
「…………ふん」
「なんで別れたんですか? うっかり消しちゃった?」
「ちっげえわ! 振られたんだよ!」
「先輩が? なんで? やっぱ性格?」
「平然と失礼かましてんじゃねえ!」
「ごめんなさい。わたし最近妙に正直で……」
「謝罪になってねえんだよ!」
先輩はじろっと横目でわたしを見る。それから何かを思い出すような間があったあと、また嫌そうな顔をした。突然馬の糞とか口に入れられたらこんな顔になるかもしれない。そんな顔だ。
「俺はそいつを好きじゃなかったらしい」
「らしい……とは」
「そう言われて、すぐ裏切られたんだよ。それで、裏切りから別れへと発展してもなんも思わなかったからな。冷静に考えると、確かに俺はそいつを好きじゃなかった」
「ほ、ほおう……」
「ただ、腹は立ったし、そんなのも全部くだらねえと思った」
強い憤慨を感じる。
この人たぶんイヤな恋愛経験拗らせてる。皆無よりタチ悪いかも。難易度高すぎないか。
少し離れたベンチではカップルが顔を寄せ合い、楽しげに笑いあっている。
先輩とわたしは人ひとり分空いたベンチで互いに正面を向き、無言で座っていた。
お昼休みの終わりを告げる鐘が聞こえる。
何ひとつ進展はないまま、わたしは「また放課後に会いにいきます」と言って、まったく盛り上がらない昼の会合は終わった。