記憶がほどける日曜日
ふわふわ飛んでいくバンを追いかけるように、わたしは急ぎ足で進む。
最初のうちは先輩の腕を引っ張っていたけれど、そのうちそれはほどけて、それでも先輩は黙ってついてきてくれていた。
何もない芝生をひたすら進んで、たどり着いたのは西南の小神殿だった。
「ジュゼム……何がしてえんだよ」
「え、なんか、バンが……こっちがいいって……」
「そんなもんについてく必要あんのかよ」
「たぶん……ここのほうが、力を発揮できるみたいで……」
「妖精と話せるのか?」
「話はしてないですけど……」
話はしていない。ただ、わたしが焦っているのをバンは知っているし、それをなんとかすることができるような態度を取っている。でも、それを先輩にどう伝えていいものかさっぱりわからない。
ふらふらと小神殿に向かってさらに近づこうとしているとそっと腕を掴まれる。
「なぁ、あんまそっち行かねえほうが……」
振り向いた時、風が空に抜けていった。
紅い瞳。白い髪。ぱっと見儚げなようで、ぜんぜん儚くもなんともない先輩がいる。
ざわざわざわ。
胸が大騒ぎする。ぎゅうぎゅうに詰め込まれた何かが破裂しそうになっている。
「先輩、あの……」
先輩が少し身をかがめて覗き込んでくる。
その瞳の中には、不安そうな顔のわたしが映っている。
「わたし……なにか、忘れてませんか?」
心の中で自分が何かを必死で叫んでいるのに、何を言っているのかが聴き取れない。フラストレーションがたまっていく。
「先輩、ちょっと……」
「ん?」
「わたしに、ちゅーしてください」
言いながら、わたしは先に知っていた。これは断られることだ。
先輩が、なんて答えるかだってなぜか全部知っている。
その声だって、はっきり思い出せる。
アホか。
却下だボケ。
そういうのは恋人同士がするもんだ!
理由もなく、んなことできっかドアホ!
しねえ!
先に知っているそれをきちんと確認したくて、問いかけた。
先輩はわたしの頬にそっと手のひらをあてがった。その手は大きくて、ちょっとだけ乾いている。
わたしは先輩をまっすぐ、睨むように見上げる。
そうして、ゆっくり、ゆっくり先輩の顔が近づいて。
一瞬だけ、バチバチッて音が瞬いたあと、
──当たり前みたいに、ふにゅ、って唇が重なった。
びっくりした。
え? 想定と違うことが起こったぞ。
ピィ、と音が聞こえて、見ると、バンが淡い光を纏っている。
わたしは、この光景を以前にも見たことがある。
前にこの妖精に呪いをかけられた時だ。
呪い? なんの呪いだっけ。
ああそうだ。
唐突に思い出す。
──レアンドロ・アルドナートに好きって言われないと死ぬ呪い。
頭の中で、紙束をぎゅっと括っていた紐がプツンと切られたみたいに、ぱらぱらと記憶が落ちてくる。
── わたしに、好きって言ってもらえませんか?
放課後の校舎内、正門に続く広い通路。
はじめてちゃんと見た先輩の顔。
── わたし……先輩が羨ましいです。
そう言ったあとの先輩の冷たい瞳。
ちょっとだけ悲しみを帯びていた。
──呪い解けたから、信じてくれますか?
先輩の、笑った顔。
すごくキラキラしている。
ぱらり。ぱらぱら。全部、落ちて、広がる。
ばっと顔を上げると、先輩がそこにいた。
「先輩?! なんかわたし、色々思い出しました!」
「え……おぉ」
「バルトロマーニ先生から渡されてた秘薬を景気良くカパカパ飲んで……そこから先輩のことすっかり忘れて……でも今色々思い出しました!」
ん? でも、全部じゃない。
そこからここまで、何をしていたか、その辺がもやっとしていて思い出せない。
「先輩、わたしが先輩の記憶飛ばしてる間、わたしと何か話したりしました?」
先輩はわたしをチラッと見て、すぐに目を逸らす。
「覚えてねえのか? 今、日曜だぞ」
「……てことは三日経ってますね。何かありましたか?」
「……いや。べつにねえよ」
「なんで先輩はここにいたんですか?」
先輩はさっと目を逸らす。
「…………散歩してたら……お前がそこを……フラフラしてたんだよ……」
「そっかあ……」
まぁ、わたしが先輩を忘れているわけだから、先輩に会いにいくこともなく……もちろん先輩のほうから会いにくることもなさそうだ。三日くらいだし、特に関わることもなく過ごしていたんだろう。そう考えるのが妥当だ。
先輩は、うん、と頷いた。それから、頭をガリガリ掻いてから言う。
「……なぁ、ジュゼム。留年しそうなんだろ?」
「あ、はい……そうですね。先輩と恋人にならないと、留年回避できないという……おそろしい呪いが……」
「なら、協力してやらねえこともねえよ」
「え?」
一瞬耳を疑った。協力。
わたしが留年しないために、恋人になってもいいってことですか?
わたしと恋人になるって言ってますか?
急にどうしたんですか?
いやいやわかりにくいです! もうちょっとはっきり!
頭の中をそんな台詞がかけめぐり、ものすごく、確認して詰めたくなった。
でもここで『なぜ』とか『どうして』とか言うのは究極の愚行。撤回の危機がある。
これ以上何かを言う必要はない。むしろ言ってはならない。野性の勘がそう告げている。
賢明なわたしは、なんとか真顔で「はい。協力してください」と言うにとどめた。
ガサガサと風が抜けて足元の芝生を揺らす。
先輩はちょっとだけ照れた顔をしていて、それがたまらなく愛おしい。
わたしは結局胸のムズムズが抑えられなくなり、周りをパパッと見まわしてから先輩に勢いよく飛びついた。
「先輩!」
「ぐァ!」
わたしのあまりに威勢のいい不意打ちに、先輩は後ろに倒れた。そのまま遠慮なく身を擦り付ける。先輩の体はわたしより数段逞しくて大きくて、それで、すごく熱かった。
「お、おい! ちったぁ学習しろよ!」
「周囲は確認しました! 外だから大丈夫です!」
「いや、外は外で問題あんだけど……まぁ、少しは成長したな」
褒められた! 嬉しい。
胸にぐりぐり顔を押し付けたあと、首筋や胸にちゅっちゅとする。
「先輩! 先輩! 先輩!」
「……っ、てめえは犬か! さすがにくっつきすぎだ! 調子乗んな!」
「いいじゃないですか! 三日ぶりなんですよ!?」
わたしの言葉に、先輩は一瞬目を丸くした。
けれど、結局諦めたように体の力が抜けて、されるがままになる。
わちゃわちゃに抱きしめて嗅いで唇をつけてじゃれついていると、ふいに無抵抗だった先輩が、わたしに手を伸ばしてくる。
鷹揚な動きでわたしの顎を持ち上げ、そっと唇を重ねる。その途端、動けなくなった。
カチコチに動きを止めたわたしを先輩はゆっくり倒す。わたしを見て、口元だけで笑った。
それから、獰猛な動きで私の口を塞いだ。
唇を舐められて、背中にぞくぞくが走る。
ちょっと離れたと思ったら角度を変えてまた重なる。
「ん……っ」
舌が入り込んできて、額に汗が滲む。苦しいくらいに翻弄されて、指一本動かせない。
顔が離れて、先輩は息を切らせてぐったりしたわたしを上からじっと見ていたけれど、ふいに「チッ……外だな」と忌々しい舌打ちをしてどいた。
体を起こして呆然とする。頭皮から汗がすごい出てる。それを風が撫でていく。
それから、ふてくされたライオンみたいな顔の先輩を見て、嬉しいような気持ちになった。
お天気のいい日曜日。人けのない西南小神殿の前。
わたしは先輩と恋人になった。




