はじめましての金曜日
金曜の朝。
昨日に引き続き、頭はどこかぼんやりしている。
まだ眠い目を擦りながら寮の玄関を出ると、すぐ外に変なものが落ちていた。
──妖精だ。
なんかヘロヘロしてる。
こいつ、確か前にわたしにひどい呪いをかけた個体じゃないのか。でも、もう負ける気はしない……のでほうっておこう。
しばらく行って、立ち止まる。
あの妖精はほとんどの人には見えないわけで……あんなとこにいたら、誰かに踏まれそう……猫に見つかったらカプッとやられそう。
悪妖精という呼び名は、人間に害を与えた妖精を括って言う俗称だ。
妖精は気まぐれに人の感情に共鳴する性質があるというだけで、人と同じような善悪の観念はない。妖精は良いも悪いもなく、等しく妖精だ。
だから悪い妖精なんてものは厳密には存在しない。得体の知れない怖さはあるが基本的には弱い生き物だ。
これは、最近わたしが予習として読んだ妖精学の本に載っていたことだけれど、知ったことで前とは少し意識が変わった。
わたしは迷った挙句、引き返して落ちていた悪妖精をわし掴み、自分の部屋にぺいっと入れておいた。
***
金曜日。お昼休み。
購買に向かう途中、バルトロマーニ先生が自分の部屋の前でレアンドロ・アルドナートと何事か言い合っているのが見えた。
レアンドロ・アルドナートはバチバチ魔力帯電しながら怒っていて、生徒たちはおそろしげな顔でそこを避けるようにしていた。
わたしもさっさと通り過ぎようとしていたが、会話が少し耳に入る。
「レアンドロも心配なのはわかるけど、そこまで見張らなくても……べつに君のこと思い出せないだけでほかはいつも通りなんだから」
「いや、明らかにぼけっとしてんだよ! 整合性が取れない部分に気づきがいかないようにぼんやりさせてるだろアレ……クソが! あいつはもともとぼけっとしてんだぞ! ヘボい教師のヘボい秘薬で怪我でもしたらどう落とし前つけてくれんだよオラァ!」
「ガラの悪い過保護だなぁ……」
「全部てめえが悪いんじゃねえか!!」
わたしに気づいた二人が黙り込む。
うっかり立ち止まってしまっていた。ぼんやりしているから、こういうことが多い気がする。
ペコリとお辞儀して、そそくさとその場を離れる。
購買でお昼にはちみつバターパンを買い込んで渡り廊下に座り、猫を撫でていた。
しばらくくつろいでいた猫が急にすっと立ち上がり、にゃんと鳴いてチテチテ行ってしまう。そちらを見るとレアンドロ・アルドナートがいた。
彼はそこにどかっと腰を下ろす。
わ、またレアキャラと遭遇した。
ここで食べるのかな。
距離はだいぶ空いていたので、声をかける感じではなく、わたしはジロジロ見過ぎないようにしながら昼食のパンを食べ始める。
ちらりと横目で観察する。
レアンドロ・アルドナートも、食事をしていた。
なんか……やたら硬そうなパン食いちぎってる……。
あのパン絶対硬いでしょ。そんな感じする。歯が丈夫なんだ……かっこいいな。
少し離れたところにいるのが見えるだけで、ドキドキしてしまう。
話しかけたりしても……いいだろうか。
いや、話しかけたりしたら、あの猫みたいにふいっとどこかに行ってしまうかもしれない。
それなら、この絶妙な距離感で、憧れの人と一緒にお昼を食べてる気分を味わうのもまた悪くない。
ドキドキして、昼食の味があまりよくわからない。
たまにちらっと盗み見る。やっぱりカッコいい。
いやいやそんなにカッコいいはずないよな、と思って確認するためにまた見るのに、思っているより数段カッコいいのだ。
食べ終えて教室に戻る途中で購買に寄ったけれど、彼が齧っていた茶色くて細長いパンはかなりの不人気で、最近はいつも同じ生徒が買っていく分くらいしか焼いてないらしい。ぜんぜん食べてみたいとは思わなかったから、べつにそれはいいんだけど。
……え? あの人毎日買ってるの? どんだけ好きなのあの、野生の獣のとれたて肉みたいなパン。
***
放課後。
校舎を出て寮を目指していると少し離れたところにクラスメイトのマテオがひとりでいた。
うっかり目が合ってしまったので声をかけようか迷ったけれど、彼は何かに気づいたような顔をして、驚いたように走っていってしまった。
べつにわたしの顔を見て逃げる必要はないわけだから、遠くに胸のでかい女子でもいて、走って見にいったんだろう。
それにしても、なんでこんなに頭がぼんやりするんだろう。若干の憂鬱も感じる。
でも、前から月の半分くらいはこんな感じだし、元気いっぱい前向きな時ばかりじゃないから、まぁ、こんなもんなのかなあ。
しかし、やっぱり普通よりぼんやり度が高かったらしい。わたしは何もない床で足をもつれさせてドテッと転んだ。
「ぎゃぶっ!」
両手をついて、なんとかことなきを得たかと思いきや、鞄の中のものが勢いよくぶちまけられた。
寮の自室の鍵が鞄からスッポ抜けてすごい勢いで地面をシャーッと滑っていく。まずい。まずいよ。アレだけはなくすと面倒が極まる。
鍵の行き先を目で追っていると、後方から来た人の足にぶつかって止まった。
そのまま視線を上げると、紅い瞳、白い頭のおそろしい美形。レアンドロ・アルドナートがいた。しゃがみ込んで、鍵を拾ってくれる。
「…………ほらよ」
「あ、ありがとうございます」
彼はわたしに鍵を渡すと、そこらじゅうに散らばったノートや教材を手際よく纏めて鞄の横に置いた。
すぐに立ち去ろうとしている背中に声をかける。
「あの」
レアンドロ・アルドナートは少し目を丸くしてこちらを見た。
「にっ、二年生のジュゼム・エルミです」
「……ああ」
わ、普通に返してくれた……!
その頃にはわたしのレアンドロ・アルドナート情報もそこそこ充実していて、少し話しかけただけで失せろって威嚇されるとか、有無を言わさず頭を吹っ飛ばされるとか、女子でもカツアゲされるとかとんでもない噂がたくさん入ってきていた。でも、どれも大げさとしか言いようがない。そんな人間いるわけないのだ。
だって、こうして落ちたものを拾ってくれるし、話しかければ普通に返してくれる優しい人じゃないか。
「ありがとうございます」
「…………べつになんてこたねぇ」
わたしが急いで教材を鞄に詰めて顔を上げた時、彼はもうそこにいなかった。
ほんとかっこいいなあ。あの人。素敵だなあ。
ぽうっとしたまま寮の部屋に帰って、ふうと息を吐く。
天井付近に今朝部屋に入れておいた妖精がひらひら飛んでいた。
「あれ、元気になったの?」
妖精がピピィ、と鳴いた。正確にはもう少し音波な感じで、何か喋っているのかもしれない。けれど、細かくは聴き取れないから音としてはピィとしかいいようがない。
元気になったなら出ていけ。
そう思って窓を開けて出そうとしたが、出ていかない。
まぁ、蝿でもないし、こちらがよほど心を弱く持たなければ無害。放っておこう。わたしは今、ちょっとだけ機嫌がいいし、正直それどころじゃない。
ベッドにぼふんと沈む。
目を瞑ると、レアンドロ・アルドナートの顔がふわんと浮かんでくる。
美形のくせに目つきが悪くて、ちょっと口を開けた時の犬歯が尖っている。
話しかけちゃった!
自己紹介なんてしちゃった!
「ああ」って返してくれた!!
帰り道でも何度か反芻してドキドキしていた。
わりといつも不機嫌そうだし、ガラが悪いのになんでかあんまり怖く感じない。
ほんとうは優しい人な気がしちゃうんだよな。
いや、これはたんなる美形効果かもしれない。それかわたしがそう思いたいだけかも。
また今度、偶然会えたら挨拶してみようかな。
気づくと、あの人のことばっかり考えている気がする。変なの。




