水曜日のチャンス
チヨチヨと鳥の鳴く声がする水曜日の朝。
わたしは男子寮を出る先輩を待ち伏せ、その背後にぴったりつけて登校していた。
「お願いします〜! 後生ですからわたしに好きって言ってください!」
「てめえ、しつけえぞ! 消え失せろ!」
半ベソの女子に対しても少しも容赦がない。
「ついてくんじゃねぇ」
「好きって言ってくれたらすぐにいなくなります……っわ」
手を伸ばして引き止めようとすると勢いよくバッと振り払われた。恐ろしい目で睨まれた。
正門を通ってから何人かの女子生徒たちがこちらを見てヒソヒソ言っていた。
そのヒソヒソは見た目に反してさほどヒソヒソしていなかったため、内容は耳に届いていた。
「なにあのブス」「嫌がられてるのに」などという文言は、わたしに向けられたものだろう。
レアンドロ・アルドナートは学園で多くから恐れられ、忌避されているが、密かに多くからの憧憬を集めてもいた。良くも悪くも目立つ人なのだ。
だからこちらを見てくる女子たちの中には、畏怖や物珍しさだけではなく、嫉妬の眼差しもしっかりとあった。
つまり、彼女たちは自分で彼に話しかける勇気はないものの、わたしのような者が隣にいるのが気に食わないのだろう。
しかし、死が隣り合わせにあると何を言われようとも気にならないものだ。数日前なら気に病んで何日かウジウジして起き上がれなくなったであろう悪口も、心の底からどうでもいいと思える。
先輩はヒソヒソ元をちらりと一瞥し、立ち止まって舌打ちした。わたしのほうに向き直る。ほんとうに言動の全部が見事に柄が悪い。
「諦めて教師のとこ行けっつったろ」
「いや、だって、先輩が一回好きっていえばこれは終わる話なんですよ?」
「……アホか。勝手に死ね」
「ひどい! ほんとに死んだら寝覚め悪くないですか? 一言で救える命がここにあるんですよ!」
先輩は鋭い眼光でわたしを睨みつけていたが、グイッと手を引っ張った。
「え? ギャアア!」
先輩はわたしを強引にひっぱって、登校する生徒たちの波から外れるように木陰へ移動した。そうして顔を近づけて一言。
「金払え」
「えぇっ!」
突然のカツアゲに震え上がる。
「ご、ごめんなさい! そんな大金、持ってません!」
「大金じゃなくていい。矜持の問題だ。1ギルでももらえばそれは仕事になる」
薄目で見るが、そこまで怒ってはなさそうだ。
「ほ、ほんとうに1ギルでいいなら……」
わたしは涙目でポケットから硬貨を出して手渡す。彼はそれを一度弾いて上に飛ばし、嫌そうな顔のままパシッと受け止めた。
「……一回しか言わねえからな」
「はい! 全身全霊で聴かせていただきます!」
深々と頭を下げ、上げて驚いた。
うわぁ……人って、こんなにイヤな顔できるんだ……。
先輩はさらに、心底イヤそうな舌打ちをした。そして、地の底から響くような、やる気のない小さな声を吐き出す。
「…………スキ」
こんなに嫌そうな、まったく心のこもらないスキがこの世にあるだろうか。世界で一番つまらなそうな「スキ」見事なまでに意味と言葉が完全解離している言葉をつなげただけの「スキ」だ。
それでも、わたしは急いで呪いのアザを確認する。
「消えたか?」
「消えてません……」
「…………」
「なんでだと思います?」
「…………まぁ、まったく好きじゃねえしな……」
確かに、言うだけでいいなら同音異語でもいいことになってしまう。少しは心をこめねば意味がないということだろう。
「そんなぁ! せっかく怖い思いして頼んだのに……!」
「お前そこは黙って心で思っとけよ……」
「どうしよう……」
「役に立てなくて悪かったな。もう二度と俺に声かけんなよ」
「……わかりました」
「ああ、早く教師に相談して……」
「潔く死にます」
「て、てめぇ……」
またすごい形相で睨みつけられた。
「ひぃ」
なんでそこで怒るんだ。わたしが生きようが死のうが先輩には関係ないというのに。
わたしとしても精一杯できることはやった。
てっきりここで話は終わると思っていたのに。
確かに聞いてしまうとちょっと気分悪いかもだけど、そこに苛つくなんて……まるで、ちゃんと良心がある人みたいじゃないか。
「や、あの……ほんとうに気にしないでください。どの道退学したら四十歳上のヒヒジジィのところに嫁がされることになっているので、わたしの人生はお終いみたいなものですから……今呪いで死んでも一緒っていうか、むしろ選べって言われたらそっち選びますし!」
わたしはわりと毒々しい家庭の生まれだ。父はわたしが今まで見た中で一番醜悪な金の亡者だし、わたしが世界一嫌いな人間も父だ。あの化物は、自分の子も金にするための駒のひとつとしか見ていない。
わたしはほんの少しの魔力を盾に、一流の魔術師になって家に金を落とす約束でなんとか五年間の自由を得た。
退学となれば実家に帰って父の決めた相手と速攻で政略結婚。実情は金で売り払われるジジィ専門の娼婦。わたしの前にそこに嫁いだ女性は自死している。絶対イヤだ。死んだほうがいくらかマシだ。
だからこれはわりと本心だったが、先輩は相変わらず眉間に皺を寄せ、こめかみをぴくぴくさせて怒りと不快をあらわにしている。そうして、おもむろに重たいため息を吐いた。
「……わかった」
「え?」
「今日と明日だ。二日間だけチャンスをやる」
「チャンス……とは?」
「俺は心をこめられるほどお前のことを知らねえ。だからお前が可愛く優しく俺に接して、好意を少しでも持てたら……呪いがとけるような言葉も……」
先輩は言いながら首を捻る。
「言えそうですか? 二日で?」
「ンン゛ッ?! っ、知んねえが……なんか間違えばもしかしたら一瞬くらいいけるんじゃねえのか!?」
前半は自分の発言に首を捻っていたし、後半はなかばやけくそめいた疑問系の口調だったが、とりあえず結論としては優しい。ちょっとじーんとした。
「ゼンバァィェブォフ!」
優しさに感動して思わず抱きつこうとしたら避けられ、前方の樹木に顔面からめりこんだ。しまった調子に乗りすぎた。
「ありがとうございます! このジュゼム・エルミ、いただいたチャンス! 文字通り命懸けでがんばります!」
まだちょっと痛い鼻を押さえながら言う。
先輩は、思っていたよりぜんぜん冷たい人じゃなかった。
「……っ、昼休みと放課後だけだからな! それ以外は俺にもやることが色々ある」
「はい! じゃあ早速今日のお昼休みは湖広場で待ち合わせでいいですか?」
先輩は「クソが」と言って頷いた。
台詞と仕草がまるで合っていないが、たぶん了承された。そう思いたい。
先輩は自分でした約束に不満を覚えたのか、苛ついた顔で小さく「クソがクソが」と毒突いている。でも、心は優しくて清らかな人に違いない……よね。
先輩は舌打ちして苦み走った顔で登校の人波に戻っていく。
すぐに、ふさげあって歩いていた男子生徒がドンと彼にぶつかった。
「ひぃっ……す、すみませ……」
「クソが! 木っ端微塵にすんぞオラァ!」
そのおそろしい剣幕にきゃあーと悲鳴をあげて男子生徒たちが逃げていった。
……そんなに人当たりはよくないけれど、優しい人に違いないのだ。そのはずなのだ。そうじゃなきゃ困る。