日曜日のおうちデート
先輩の部屋は一階の端っこ。猛獣が隔離されているかのように、ほかの生徒たちの部屋と離れているので入りやすい。
暖炉に火を入れていた先輩がこちらを見て少し離れた位置に座る。
「おうちデート! 開始!」
わたしの突然の大きな掛け声に、先輩がビクウとする。
「その掛け声、必要なんか……?」
「そうだ! 先輩、クッキー持ってきたから一緒に食べてください!」
「へえへえ」
「先輩、運がいいですよ」
「何が……」
「これ、厨房埋まってたんで、寮の購買で買ったやつなんですよ」
「それがどうした?」
「もう少しでわたしが作ったアバンギャルドなクッキーを食べるところでした」
「どんな幸運だよ……」
購買のクッキーはハートや星やクマの形がたくさんあって、楽しくておいしい。
「先輩と食べると……いつもよりもっとおいしい気がする……!」
「よかったな」
「先輩、甘いの好き?」
「ぜんぜん好きじゃねえな」
そう言いながらも食べてくれる。
食べ終わったクッキーの、指についた粉をぺろりとしたわたしは考えをめぐらせる。
さて、やりたかったこと、いくつできるかな。
わたしは思いがけず、人生の終末に恋をすることができた。今日を堪能する気満々だった。べつに好きになってもらえなくていい。先輩を好き放題してやる。
わたしの欲望に満ちた視線に気づいたのか、先輩が怪訝な顔をした。
わたしは座っている先輩に、にじりよって身を寄せる。
「おい……その顔はなんだ……」
「先輩、ぎゅってしてみていい?」
「ふ、ふざけんな! ここをどこだと思ってんだよ!」
「先輩の部屋でしょ? 外じゃないからなんにも問題ない!」
「なんでねえと思うんだよ! おもくそあんだろが!」
「お願いお願い! 誰も見てないし、そのくらい良いじゃないですか! ぎゅってしたい!」
「…………」
「大きな声出しますよ! ぎゅってしたい!!」
「この……クソ……」
わたしはいつにない眼力で気持ちを飛ばした。
もはやそれで先輩の気持ちをどうこうしようなんてカケラも思っていない。
ただ、わたしがしたい。ギュッテ・シタイ。したいのだ。
「……っ、勝手にしろ、よ、グァ!」
わたしはすぐさま座ってる先輩の首に飛びついた。
おお。
なんというか、全体的に固いし、大きい。
こうすると結構体格差がわかる。
それで、髪の感触とか、ほのかな匂いだとか。衣服の感触や体温。生々しい。興奮する。全部すごくドキドキする。
それに……なんだかとても。とてもとても。
「嬉しいぃ……」
「バカじゃねえのか……」
「ろくでもないと思っていた人生に、まだこんなことがあるなんて……よかった。呪われても、死んでも、こんなことがあるならここまでがんばって生きててよかった……」
しみじみそう思ったら涙が出てきた。
これ、もしかして、がんばって生きてたわたしへの天からのプレゼントじゃないの……?
「いやさっきからブツブツこえーよ」
「え、口に出てました?」
「ガッツリな……あと十秒で離れろよ」
「やです」
固くて広い背中に腕をまわして身を寄せる。
不安でよく眠れていなかったけれど、ここは温かいし、幸福感からトロリとした眠気が身を包む。
「わたし、最初は先輩って怒りっぽいと思ってたんですけど……」
「ん?」
「まぁ、実際怒りっぽいんですけど」
「そうかよ!」
「でも先輩って、たぶん恥ずかしい時も困った時も怒ってるふりして誤魔化してるんですよね」
「っ、適当言ってんじゃねえぞ!」
「はーい。そういうことにしときます」
「こ、このクソ野郎……腕ねじり上げて関節いわすぞ」
心がじんじん痺れている。暖かい毛布にもぐりこんでいるみたいな心地よさだ。また、もぞりと身を擦り寄せる。
「おい、そろそろ………………」
「…………ふぁい?」
「そろそろ……」
「…………うぅん」
「…………おい」
「…………」
「っ、まさか……寝てるのか?!」
先輩が何事か声を上げ、ばっと身を捩る気配があったけれど、音だけで意味が聞き取れない。
やがて深いため息と共に、諦めたように背中にぽんと手が置かれる。
胸がいっぱいになっていく。
「あー……わたし……この人……すごい好き」
ほんとうに心地いい。ここがこの世の楽園か。
*
*
*
「なんで起こしてくれなかったんですか! 大好きな先輩と過ごせる最高に貴重な一日が三時間も潰れましたよ先輩の大バカ!」
「てめぇ……喧嘩売るか口説くかどっちかにしろよ……」
「今のこの気持ちは完全に喧嘩売ってるほうです!」
「なんでこの状況で喧嘩売んだよ。バカか? 大バカなのか?」
普段先輩に睨まれてる時みたいに、精一杯真似して睨んでやった。
先輩は睨み返すと思いきや、耐えられないように笑い出した。笑った顔、初めて見た気がする。
すごくいい。すごくすごくいい。
ずっと見ていたくなる。
「先輩、わたし、先輩の笑った顔、好きです」
「そうかよ」
「信じてませんね?」
「あ?」
「わたしが先輩を好きなのも」
「……どうだろうな。呪いが解けた状態で言えば信じるかもしんねえぞ」
先輩はそう言って、悪そうにニッと笑う。
ちょっと憎らしい。
信じたからって、好きにはならないくせに。
「先輩、わたし一個、やりたいことっていうか、してみたいこと、見つけました」
「……お、なんだよ」
「先輩に、ちゅーしてほしい、な」
「却下だボケ」
「いいじゃないですか! ちゅーくらい!」
「そういうのは恋人同士がするもんだ! だいたい俺が聞いたやりたいことはそういうんじゃねえんだよ!」
「だってほかにないもん! だからしたい!」
「理由もなく、んなことできっかドアホ!」
「わたしが先輩を好きでしたいのが理由です! 文句あんのか!」
「お前その口調、俺の影響受けるのやめろ!」
「しーたーいー!」
「しーねーえー!」
大揉めに揉めたが、結局お願いが受理されることはなかった。死に瀕した可愛い後輩のお願いだというのに、先輩はかなり身持ちが固い。ある種誠実なのかもしれないけど……しれないけど……。
夕方になり、わたしは先輩の先導で寮の部屋をこっそり出た。先輩も、そのまま外についてきてくれた。
「うっうっ……ちゅーしたかったぁ……」
「くだんねえことでガチで半べそかくのやめろよ……」
男子寮を出て、校舎と女子寮への分かれ道で立ち止まった。
「このあと相談に行くんだよな?」
「はい。たいへんお世話になりました。もう先輩にご迷惑をかけることはありません」
「ちゃんと行けよ。そんで退学にならねえように闘え」
「はい! 先輩、ありがとうございます」
「おう」
「じゃあ……さよなら」
そう言うと、先輩はちょっと眉根を寄せてから、「またな」と返した。