金曜日のおさわり
金曜日。放課後。
四年生の棟を目指していると、途中の道で腕組みして立っている先輩を見つけた。そこを通る生徒たちは、不自然に通路の反対端を歩いている。
「先輩……まだ明るいですけど、闇討ちですか?」
「んなわけねえだろ!」
「なら、こんなところでなにやってるんですか」
「……べつになんもしてねえよ」
「でもここ二年の通路だから……だいぶ周りが怯えてますよ」
「うっせえなあ。ならとっとと行くぞ」
もしかして、わたしを待っててくれたんだろうか……? いや、まさかね。
「今日も俺は勉強あるから、図書館行くぞ」
「はあい」
わたしはあれから、なんとなく頭の中で、ルナデッタ先生が先輩の肩に触れた時のことをリフレインしていた。
なんだろう。この感覚。羨ましいような、悔しいような。
わたしも、触りたいんだろうか。
「うお、なんだよ急に触んな」
そーっと触ろうとするとぱっと避けられた。
なかなかの反射神経だ。でもちょっと悲しい。
「先輩……は」
「ん?」
「もしかして女子に触られるの苦手だったり?」
「あ? 知んねえ奴に勝手に触れられんのは男だろうが女だろうが容赦しねえ……」
ハリネズミみたいな人だな。
途中の道で男子が数人で溜まっていた。
ひとりは見覚えがある。先輩と同じ四年生で、この学院の生徒会長だ。
この人は壇上に上がる時や教員の前では真面目で品行方正な顔をしているが、それ以外の場所では特権意識と差別意識がしっかり滲んでいる陰湿な人だ。直接関わりはないものの、苦手だった。
──パッとしねぇ女連れて。
通り過ぎたあとに言葉の小さな端切れが耳に入る。
先輩は勢いよく引き返し、気づいた時には凶悪な顔で会長の襟首を掴んでいた。
「てめぇ……舐めてんじゃねえぞ。俺に文句あんなら俺に言え」
「へっ、バルトロマーニの飼い犬がよ。なにやっても揉み消してもらえる奴はいいよなぁ」
想像以上にヤカラ感ある台詞回しに驚く。
思ったより荒んでんな、この人。
まぁ、先輩みたいなふざけた人間に遮られて万年学年二位なわけで。憎いのはわかる。
それはそうと、ちょっと目を離した隙にヤンキー同士の睨み合い決闘みたいなものが始まっていた。先輩は魔力をバチバチほとばしらせ、歯を剥いて威嚇してるし、生徒会長も胡乱な顔で睨み返してる。なんだこれ! 学年一位と二位の睨み合いとは思えない荒廃した世界観だ。
「せっ、先輩!? 行きましょう!?」
「……チッ。次舐めた態度取ったら容赦しねえぞ……」
背中から、「ふん……殴って問題起こしちまえばよかったのによ」と聞こえた。
すごくすごく、仲が悪い。
ふたりとも成績がよくて将来もそこそこ安泰なのだから、もっとほのぼの生きられないものだろうか。
今日は図書館の自習室は空いてなかったので、カウンター式の自習机で、先輩と横並びで座る。
先輩はまた、わたしがタイトルすら読めない本を読んでいた。この間のとは違う、群青色の装丁のやつだ。
わたしはその隣でメモを作成していた。
今日、ここに来るまでの道中、先輩が何に当たらないように避けて、何を許容して、誰を拒絶したか、ざっくり書き留めていた。
女子 避けていた。3人。
樹木 避けていた。4本。
男子 避けていた 3人。
生徒会長 自ら当たりに行った。
ルナデッタ先生 許容。
ジュゼム・エルミ 拒絶。
これはどういうことだろうか。
つまり──
さらさらと書き込んでいると、いつのまにか先輩の集中力が切れたらしい。彼はぼんやりしながら一房だけピンクに染まったわたしのサイドの髪束を指で弄んでいる。
思わず目を丸くしてそちらを見る。
さっき『拒絶』と書いたところを二重線で消し、『自分からは触る』と書き込んだ。先輩はなぜか当然のようにわたしの髪を暇つぶしに弄んでいる。
「なぁ、ジュゼム。この髪、実習でやったんだろ」
「はい。変身術で……何度やってもできなくて……これはうっかりの失敗なんですが、なんとか狙ってやったことにして実習をパスしました。だからそのままになってます」
「んなこったろうと思ったよ」
「……先輩、自分は平気で触るくせに、わたしから触るの嫌がるの、なんで……?」
「あ?」
先輩はものすごく驚いた顔をした。慌てたように髪束から手を離す。
「わりぃ……そこは気づいて……なかったマジで悪い」
先輩は自分の頭をグシャリとした。
「俺ぁ……感情が昂ると……魔力漏れしやすいんだよ」
「あの、よくバチバチしてるやつ……?」
あれ、わざと威嚇してるわけじゃなかったんだ……。
「俺が触る分には、俺が気をつけてるが、不用意に触って痛え思いしたら……嫌だろ!? なるべく触んなよ」
…………そんな、理由かい。
ちょっと脱力する。
「でも先生は触ってた……」
「ん? バルトロマーニが痛かろうが痒かろうが知ったこっちゃねえだろ」
「違う! ルナデッタ先生!」
「ん? 記憶にねえが………………まぁ、あの人は元魔術師団の中尉だからな。俺の漏れた魔力に触ったぐらいじゃなんともねえだろうから……気にしたこともねえな」
確かに、ルナデッタ先生はそのくらいでビクともしなさそうだけど。でも……。
「言っとくけど先輩のバチバチ、わたしだって、ぜんぜん痛くないんですからね!」
かなり近くにいて、稲光のようなそれに触れたこともあったが、音のわりに痛くも痒くもなかった。
見た限りちょっと痛そうにしてる人もいたので、個人の魔力属性や体質の相性だったりするのかもしれない。
先輩は目を丸くした。
「マジかよ……よかった。正直ヒヤヒヤしてたんだよ」
「え? そんなに?」
「ああ……昔、巣から落ちた鳥の雛を世話したことがあったんだけどよ。あん時もいつも握りつぶしそうでヒヤヒヤしたもんだぜ!」
うん。なるほど。そういう、扱いね。
ふいにわたしの脳裏に再びルナデッタ先生の指先が浮かぶ。
そっと先輩の肩に手を置いてみる。
「ん? なんだよ」
もう、拒否されることはなかった。
嬉しい。お触りOKになった気がする。
わたしは勉強しているフリをしながら『先輩、お触りOK』と書き込んだ。
わたしのメモを覗き込んだ先輩が叫ぶ。
「あっ! てめえ! 何ふざけたこと書いてやがる! 誰がいつ許可した!」
「許可されました! わたしが痛くないならたくさんしてもいいって言いました!」
「言ってねえ! でけえ声で妙なこと言うな!」
進展があるんだかないんだかわからなくても、一日は終わる。
呑気にしてるうちにあと三日だ。
あと三日後の今頃には、わたしはこの世界からいなくなっているかもしれない。実感はまるでないけれど、もしかしたらそんなものなのかもしれない。
「それでは。本日もありがとうございました」
図書館を出て、先輩に別れの挨拶をする。
「待て待てジュゼム」
「ん? なんですか」
「女子寮はあっちだろが。てめえはどこに行こうとしてやがる」
「え、なんか、寄り道して帰ろっかな〜……って」
「もう遅え。明日にしろ」
「ええー」
わたしの寄り道に不服を申し立てた先輩が女子寮の近くまで送ってくれることになった。嬉しいような、面倒なような。
「なぁ、ジュゼム。お前は、何かやりたいこととか、ねーのかよ」
「……思いつきません」
「いや、ちょっと考えてみろよ」
「うーん……今はないっすね」
「こうなる前。今まで、好きでやってたことは?」
「それはもちろん。六級魔術師を目指すことです。わたし、ほんとうに、毎日勉強ばっかりしてきたんですよ。面白みないくらい」
「それはまぁ、べつに悪いことじゃねえだろ……」
「それなのに、いつも成績は真ん中より少し下でした」
「……なんかうまいもんでも食わせてやろうか?」
あからさまに同情された。
「お気持ちはありがたいんですが、先輩とは味覚が決定的に合わないので遠慮します」
「だから正直すぎんだよ!」
「先輩がわたしの用意したお菓子もらってくれるほうがいいです。それで、一緒に食べてくれたほうがいい」
「なんだよそれ。そんなん……なんも嬉しくねえだろ」
「嬉しいです」
「そういうもんか……?」
「はい」と言うと先輩は妙な顔をしていたが、やがて「わーったよ」と頷いた。