引きこもり1
その日、一番パニックに陥ったのは、間違いなく翠花の父だった。
まず、娘の翠花が、魂が抜けたような顔でふらふら戻ってきて、何も言わず自室に籠ってしまった。
心配になりながらも、仕事に向かうと、町中で、
「本好きの眼鏡娘、梨翠花が、皇太子妃になるらしい」
という話で持ちきりだった。
さらに、意見が二つに分かれており、
「皇太子はからかっただけで、そんなつもりはない。」
「皇太子は変わり者で、本気で翠花を愛してしまったにちがいない。」
で賭けまで行われている始末だ。
興味津々に質問責めにあったものの、さっぱり状況が分からない翠花の父は、仕事もそこそこに、家に帰り、事情を聞こうとするも、翠花は砂のようになっている。
本好きで眼鏡の翠花。
人違いもまずない。
何かあったのは間違いない。
ぶつぶつ何か言っている翠花から、かろうじて「見合い」というフレーズを聞き取った父は、庚家の戸を叩いて・・。
そして、あろうことか、庚家当主、つまり青河の父に、美しい土下座をされていた。
「本当に申し訳ない!!」
「いや、頭を上げてください。とりあえず説明を・・。」
「今から考えたら私はなんということを!大事な娘さんにも失礼極まりない!あの時許可した自分をぶん殴りたい!」
青河の父は、その真面目さと忠誠心を買われて大臣職に登り詰めた人物である。
本来ならば、別人のふりをしての見合いなど断じて許可しない。
つまり、今回は、余りの決まらなさに追い詰められて、魔が差してしまったのだ。
まさか、皇太子が一発で気に入って、公衆の面前で結婚を宣言してくるなんて、夢にも思わなかった。
またいつものように断られるに決まっているし、それでも平民の女性ならば、皇太子への恋心を追ったりせずにうまく折り合いをつけて、青河とも見合いしてもらえるかも、くらいにしか思っていなかったのだ。
こうなって初めて、庚大臣はものすごく後悔していた。
土下座のまま、翠花の父に、自分が知っていることを話す。
つまりは、青河の見合いを知った碧龍が、相手に興味をもち、青河のふりをして会ったところ、気に入ってしまったらしい、と。
「・・庚様。顔をおあげください。」
翠花の父は、混乱を必死で沈めて、言った。
「皇太子は、娘をからかっておられるのですか?」
実のところ、庚大臣も判断がつきかねていた。
息子、青河が言うには、冗談ではなかったらしい。
しかし、現実として、平民の普通の女性が皇太子妃になるためには、彼が皇帝になった時に後宮に入り、皇子を産む、という道しかない。
それでも他に身分の高い女性が皇子を産めば、正妃の座にはいられないだろう。
皇太子がもし、本当に彼女を望んだとしても、余程の覚悟と執念が互いになければ、実現の可能性は低い。
いや、そもそも、皇太子は一体何を望んでいるのだろう。
子ども時代からの、碧龍の拗らせた初恋をだれも知らない。
翠花の父が出した結論が、「皇太子の真意が分かり、翠花の状況がはっきりするまで、世間の目から翠花を守ってやらなければ」になるのは、しごくまともなことだった。
「翠花。」
帰ってきた父に呼ばれて、かろうじて砂よりはましな状態になっていた翠花は顔を向ける。
「久しぶりに、おばあちゃんに会いに行かないかい?」
ここで言うおばあちゃんは、青風国王都から西にしばらく行った、鳳白国との国境近くに住んでいる亡き母方の祖母を指す。
「実は前から、お前に会いたいと手紙がきていてね。私が時間がとれなくて連れていけなかったから、先延ばしにしていたんだが、送るだけなら行けそうなんだ。お前さえ良ければ、しばらく滞在してくるといい。本好き同士、話も会うだろうしな。」
祖母の家の書斎にびっしり並んだ本が翠花の脳裏に浮かぶ。
(ひたすら本が読めるなら!)
翠花が求めていたのは、現実からの逃避である。
そのために必要なもの・・遠い場所、本、理解者が、そこには揃っている。
翠花はこくこくと頷き、なんとその日の夜には出立を決めてしまったのであった。