97 ネコ様とバスルーム
年下の異性と同じホテルに泊まり、その彼女がシャワーを浴びるのを待つ時間。
ただでさえ、ちょうどその彼女への距離感が自分の中で不安定になっていたというのに、それに加えてこの現実味のない状況が重なり。
そんな追い詰められたさなか、俺の目の前にはタオル一枚だけしか身に着けていないましろが立っていた。
「さ、佐藤さん。あの、使い方が分からなくて……」
バスルームの扉を開けたましろは、申し訳なさそうに眉を八の字にする。
思考のすべてが彼女のか細く真っ白な身体に飲み込まれそうになりながら、なんとか状況を把握する。
彼女の背後には、浴槽の横たわったシャワーヘッドが明後日の方向に水を飛ばしていた。
先ほどのガタンという物音は、おそらく彼女の手からシャワーヘッドが落下したときの音だったのだろう。
「ご、ごめんなさい。すごく冷たい水が出てきてしまって……」
「そ、そうか。いや、教えていなかった俺に責任がある。悪かった」
こういった場所のシャワーは、一般家庭にあるようなものとは違うことが多い。
このホテルのバスルームも例外ではなく、初めてではさっぱり分からないことで有名な方式だった。
出来るだけ横にいるましろに視線が向かないようにしながら、一つ一つ使い方をレクチャーする。
意識しないようにすればするほど、彼女の一挙手一投足に視線が向いてしまい、お湯につかっているわけでもないのに軽くのぼせたような感覚になってしまう。
シャワーの使い方のほかにも、ちょっとしたマナー的なこともついでに教えておく。
今回の遠出は、ましろの知見を増やすことができる機会でもある。こうした機会を大切にするのも保護者の役割だろう。
……そんな保護者である自分が、その対象に対してこんなにも後ろめたい感情を抱いてしまっているのは、何よりも胸の痛くなることだが……。
「……佐藤さん?」
「な、なんだ?」
説明を続ける途中で不意にましろから名前を呼ばれる。
いつもの癖で彼女のほうに振り向きかけて、すぐに視線を逸らして返答すると、俺の視線の先に回り込むように顔を動かしてくる。
そうすれば俺もさらに視線を逸らすしかなく、またましろもそれを追いかけてくる。
そんなはたから見ればかなり面白い動きを繰り返したあと、あらためて彼女が口を開く。
「なんというか……どうしてこっちを向いてくれないんですか?」
「………」
ある意味核心を突くその質問に、相変わらず視線を逸らしたまま黙り込む。
これがましろでなければ、からかうのはやめてくれと一蹴すれば済む話だが、彼女は純粋な気持ちでこの質問を投げかけている。
つい先ほどまで、ましろへのもやもやとした気持ちに悩まされていたところだというのに、その彼女が目の前で半裸になっているのだ。
こっちを向けというほうがおかしいだろうに、全くもってそんなことは思わずに不思議そうな顔をしている。
ここはひとつ、改めて彼女に注意しておくべきか。
「……前にも言ったかもしれないが、ましろはもっと警戒心を持つべきだ」
「警戒心、ですか?」
「ましろは知らないかもしれないが、男というやつは巷では狼と言われてる。ましろが油断してたら、急に襲われるかもしれないんだぞ」
「襲われる……とは、なんですか?」
「それは、まあ……あれだよ。わ、分かるだろ」
「?」
さすがに純粋な疑問を浮かべているましろに生々しい説明などできるわけはなく、それ以上は言葉を濁すしなかない。
「……ましろは、今この状況が恥ずかしくないのか」
何も言葉が思い浮かばず、思わずましろにそう問いかけてしまう。
情けなさや後ろめたさがいっぱいの俺に対して、相変わらずどうということはないといったましろは少し考えこんだ後、
「もちろん、多少は。でも、佐藤さんは特別ですから」
そう、口にした。いたって、何気ない様子で。
彼女のいう「特別」が何を指しているのか。
自分を助けてくれた恩人としてなのか。一緒に生活をともにしている家族してなのか。それとも……。
そんなことを考えていると、だんだんと自分の中で納得のいかない気持ちが湧いてくるのを感じた。
俺一人だけが彼女のことを意識していて、当の本人は全くもって何も思っていない様子。
気づけば俺は、彼女の言われたように視線をもどし彼女の目を見つめ。
「ましろ」
「はい、なんで──ひゃっ?!」
彼女の手を握り、それと同時に彼女の頬にもう片方の手を添わせる。
先ほどまでまったく何にも動じていなかった表情が、驚きの表情に変わる。それを見て、少しだけ先程のもやもやが晴れた気がした。
「さ、佐藤……さん?」
「………」
さすがのましろも急に態度の変わった俺に困惑を隠せないようで、トーンを落とした声で俺の名前を呼ぶ。
俺はその声にこたえることはなく、代わりに握った彼女の手を引き寄せて顔を近づける。
それに合わせて頬に触れた手を撫でるように動かせば彼女はますます顔色を変える。
だんだんと頬は染まっていき、触れている手にも少しずつ熱が伝わってくる。
謎の背徳感と高揚感に流されて、俺はそのままその手を上にあげていく。
さらさらの髪をつたい、チャームポイントのネコ耳にたどり着けば、内側からくすぐるように触ってみる。
「にゃんっ。そ、そこは触っちゃ……」
その瞬間、ましろから艶っぽい声が漏れ思わず手が止まる。
彼女はきゅっと体をよじらせた後、手を止めた俺に視線を向ける。
なんでもないような表情なんてものはとうの昔に消え、その瞳はとろんと上目遣いで、俺の瞳と絡み合っていた。
その瞳同士が引き寄せられるように、顔が近づいていく。
俺の意識はいつの間にか彼女の潤った唇へ引き付けられ、目が離せなくなっていた。
ましろも、俺にゆだねるようにゆっくりと目を閉じ──
その距離がゼロになる直前、彼女の肩を持ってバッと遠ざける。
目を丸くする彼女に、俺は視線を合わせることが出来ずにとっさに顔を背ける。
そして、今自分が彼女に何をしようとしていたことをあらためて思い出し、頬にどんどんと熱を帯びていくのを感じた。
ついさっき、ましろへの気持ちになんとか整理を付けようとしていたところだというのに、俺は一体何をしているんだ……。
思春期の男子でもあるまいし、そんな簡単に雰囲気に流されそうになってしまうとは、本当にどうかしている。
そして、俺の行動の意味を知っているのかも分からないが、ましろはそれに対して抵抗する様子はなくどちらかといえば受け入れるような……。
いや、そんなことを考えるよりもまずは誤解を解かなければ……!
「わっ、悪かった。い、今のはなんというか、そういうのじゃなくて、だな……」
「あ、あの……」
「その、なんだ……そ、そうだ! 襲われるっていうのは、こういうことだからな! だから、その……これからは行動に気を付けるようにして──」
「あのっ! さ、佐藤さん……っ!」
我ながらめちゃくちゃな言葉をまくしたてて言い訳をする中、ましろが声を上げる。
思わずその先の言葉を飲み込んで彼女のほうに振り向き──
「だ、ダメですっ!」
その声と同時に、ましろの両手によって俺の視界はふさがれ目の前が真っ暗になった。
幸いにも唯一ふさがれていなかった口から「ま、ましろ?」と問いかけてみるが、彼女から反応はない。
しかし、まだ触れたままだった彼女の肩はかすかに震えているように感じた。
「……今は、見ちゃダメです」
「それはどういう……」
「だ、ダメったらダメです。もし見たら明日のご飯は抜きです」
「か、勘弁してください……」
正直俺も今の自分の表情は人に見せられるものではないはずなので、目を閉じて両手で顔を隠した。
とんでもないものを人質に取られたものの、さほど時間はかからずすぐに彼女からの許可が下りる。
そこには、俺と同じように頬を染めた彼女が、先程よりもタオルのガードをしっかりとして座り込んでいた。




