88 目が覚めて
遠くから聞こえる電子音。
少しずつその電子音は大きくなり、そしてはっきりと聞こえてくる。
スマホからなっている電子音、すなわち目覚ましアラームの音は今日が月曜日であることを告げていた。
閉じた瞼の外側に、光が当たるのを感じる。まだ朦朧としたままの意識が、五感とともにだんだんと覚醒していく。
「(眠い……)」
とはいうものの、何せ瞼と体が重い。
結局昨日はましろの所為でなかなか眠りにつくことが出来ず、夜更かしに夜更かしを重ねてしまった。
とりあえず少しでも体を動かそう。そう考えてすぐに、自分が何かに抱きついていることに気づく。
とてもやわらかく、温かく、そして安心する。
うちに、こんなにも心地の良い抱き枕があっただろか。そんな疑問すらもどうでもよくなるほどに心地よさに、俺は抗うことなく身をゆだねる。
今一度自分の体に引き寄せて、その抱き枕に顔をうずめてみる。
「にゃっ……」
相変わらずのやわらかさ、さらさらの感触とどこか安心するようないい匂い。そして、馴染みのある彼女の声が……。
そこまで思考がめぐった途端に、急激に体の活動──ひいては胸の鼓動が活発になっていく。
そもそも、俺が寝不足な理由は、昨日の夜に彼女と同じベッドで寝ていたから。
それどころか、最後は俺にぴったりとくっついて添い寝をする始末。
それはつまり、朝になったところで彼女がベッドにいる事実は変わらないわけで。
そしてもちろん、我が家にそんな高級な抱き枕など置いていないわけで。
やけに素早く思考が回る頭は、活動量と反比例してどんどんと冷え切っていく。
俺は、焦る心臓を落ち着かせながら、ゆっくりと瞼を開けていく。
あんなにも重かったはずの瞼はいとも簡単に開き、その惨状を鮮明に映し出し。
朝日に照らされるいつものベッド。
綺麗に掃除と片付けがされている部屋。
そして、俺の抱きしめる腕の中には、他ならない彼女の姿があった。
「………」
抱き枕と勘違いしていただけあって、これでもかというほど俺と彼女は密着している。
華奢な彼女は、身動きすらできない状態で俺の胸の中に顔をうずめていた。
にわかには信じがたいその状況に言葉を詰まらせたまま沈黙が続く。
幸いにも、彼女の視界は完全に遮られているため、俺が目を覚ましたことは気づかれていない。
このまま何事も無かったかのように手を離せば、多少穏便にこの場を乗り切れるかも──
「……っ!?」
そう思い、ゆっくりと腕の力を抜こうと瞬間、俺の背中にましろの手が回された。
そのまま俺と同じように、ぎゅっと俺の体を抱きしめてくる。
自分の意思に反して、どんどんと鼓動が加速していく。
同時に俺も身動きが取れなくなり、彼女を抱きしめる腕を離すことも出来なくなった。
一秒でも早くこの状況をなんとかしないと、自分の中の何かが溢れ出てしまいそうで、余計に鼓動は騒がしさを増していく。
あと、ついでに会社に遅刻してしまう。
そんな思いがましろに届いたのか、すぐに彼女はその手を離してくれた。
それから一呼吸おいてから俺も手を離し、華麗な狸寝入りをしながら彼女と距離を取る。
こうすれば、彼女も俺が寝ぼけていただけだと罪を軽くしてもらえる余地が……。
「……佐藤さん」
「………」
ダメそうだった。
寝起きで声が変わっているわけでもなさそうなのに、やけにましろの声は冷え切って聞こえた。
「名演技の途中残念ですが、ばればれです」
「……すーすー」
「お弁当、抜きにしちゃいますよ」
「おはよう、ましろ」
「……おはようございます」
ため息をつきながら、心底呆れたような声で返事をする。
思わず反射的に起きてしまったが、お弁当を人質に取るとはましろも姑息なことを考えつくようになったものだ。
「お弁当は禁止カードだと思うんだが」
「知りません。それより、何か言うことはないんですか」
「ごめんなさい」
ましろから諭され、素直に謝罪を述べる。
もちろん故意でやったことではないのだが、女性相手に勝手にしていいことではないことは明白だ。
「私にも非はありました。でも、寝たふりはいただけません」
「うーん……完璧だと思ったんだが」
「佐藤さん」
「はい、反省してます」
後半はともかくとして、前半までは自分でもうまく出来ていたと踏んでいたので、あんなにも軽々と見破られると思っていなかった。
俺が納得いかない表情をしていたのを見て、彼女は言葉を続ける。
「寝たふり以前に、胸の鼓動が隠せていませんでしたよ」
「盗聴されていたとは……油断した」
「私を胸に押し付けてたのは誰ですか……」
ごもっともな正論をつぶやくましろをスルーしつつ、あらためてベッドの上で体を起こす。
ましろも俺に合わせて起き上がり、先にベッドから降りる。
彼女はそのままキッチンへ向かい、朝食の準備を始めてくれる。
俺はその後ろ姿を見つめたまま、つい先ほどのことを思い返す。
もし、彼女が俺の鼓動で気づいていたのであれば、なんでそのタイミングですぐに言及しなかったのか。
それどころか、俺が目を覚ましていると分かった上で、彼女も抱きしめてくれていたということになるわけで。
ただの仕返しというだけだったのか。それとも──
「佐藤さん、早くしないと遅刻してしまいますよ」
「あ、ああ。先に顔洗ってくるよ」
そんな俺の思考を遮断するように彼女に促され、俺は少し後ろ髪をひかれる思いで洗面所へ向かった。
いつものように、テーブルの対面に座るましろと一緒に朝食を取る。
いつも通りの俺好みのメニュー。いつも通りテレビから流れるニュース。
それなのに、二人の雰囲気だけはいつも通りではなく。
「「………」」
お互いに全く会話はなく。ただ黙々と朝食をむさぼるだけの時間が流れる。
あまりの気まずさに思わず頬が引きつってしまいそうになるのを、彼女にバレないようになんとか抑える。
昨日までは幸せな空間だったというのに、なぜこんなことになってしまったのだろうか。
一週間の始まりとして、とてもいいとは言えない雰囲気だった。
「ま、ましろ」
「はい、なんでしょう」
「その、なんだ。さっきは悪かった」
「もう怒っていませんよ」
「そ、そうか……」
確かに怒っている口ぶりではないものの、いつものようなやさしさが感じられないような気がした。
き、気まずい……。原因が自分にあるからこそ後ろめたい、そしてこれ以上の謝罪も受け付けてくれない。
「ちなみにですが、佐藤さん」
「は、はい」
「別に、嫌だったわけではありませんので」
「えっ?」
耐え難い後ろめたさに、ずっとうつむけていた顔をぱっと上げる。
そこには、なんでもない顔をして変わらずにご飯を食べるましろがいるだけ。
「つまり、嬉しかったと」
「調子に乗らないで下さい」
「あて」
真面目な顔をして返すと、やさしく頭をネコパンチされる。
しかし、その鉄槌のおかげで、張りつめていた空気が少しだけ柔らかくなっていくように感じた。
そのあとは、いつも通りに朝食を食べ、朝の支度を終わらせる。
その間にましろがお弁当を用意してくれて、玄関で手渡ししてくれる。
「では、今日もお仕事頑張ってください」
「ああ、ましろのためならどれだけでも頑張れるからな」
「へっ……変なこと言ってないで早く行ってください。家事の邪魔ですから」
「普通に傷つく理由……」
まあ、俺の家事レベルなんてたかが知れているわけで、彼女の言うことは間違っていない。
それもそれで傷つくのだが、とりあえずは照れ隠しということにして心の平穏を保っておく。
「じゃあ、いってきます」
「はい。いってらっしゃい、佐藤さん」
ましろに見送られて、今日も仕事へ向かう。
そして、彼女が作ってくれたお弁当を食べて、家に帰れば温かく彼女が出迎えてくれる。
今の俺にとって、何にも代えがたいこの大切な生活と存在。そして彼女も俺と同じ気持ちだといつも言ってくれている。
だからこそ、彼女の過去に向き合うことは何よりも大事なことだと感じている。
昨晩の彼女の覚悟と決意。それに、俺も正面から向き合って協力する。
そして何より、彼女の気持ちも、彼女の思い出にいるあの二人も。
願っていることは、お互いに変わらないはずだから……。




