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86 置き去りの思い出


 玄関先で、美玖さんの母親と見つめ合う。

 こんなにもしっかりとこの人の顔を見たのはこれが初めてかもしれない。


 美玖さんと同じ血が流れているのがはっきりとわかる綺麗な顔立ち。

 しかしその表情には驚きの感情しか映っておらず、私はその視線の真ん中に立たされていた。


 彼女が言葉を発しないと同じように、私も何も言葉を出すことが出来なかった。

 月山さんとの生活でかなり会話に対しての苦手意識がなくなっていたのは、ただの思い上がりだったのかもしれない。


「あなた、誰」


 長い沈黙を破ったのは、美玖さんの母親のほうだった。

 冷たくきつい口調で投げかけられた言葉であることを肌でも感じる。


 しかしながら、話を聞こうとしてくれているだけありがたいことなのかもしれない。

 有無を言わさず追い出されたり、人を呼ばれたりするようなことはなさそうだった。


 それが、私の容姿がまだ幼かったからなのか、それとも月山さんと同じ服を着ていたからなのか。

 きっと、それをうまく考えれば言い訳の一つや二つくらい、することは出来ていたはず。


「わ、私……は……」


 それが出来なかったのは、私が口下手だったという理由だけではない。

 焦りや緊張でいっぱいになる頭の中、私はずっと月山さんのことだけを考えていた。


 もしかしたら、月山さんの関係者だということを伝えれば受け入れてくれるかもしれない。もちろん、それくらいのことはすぐに思い浮かんだ。

 でも、もし私がうまく説明を出来なかった場合、責任が月山さんのほうにも飛び火してしまう。

 そこまでではなかったとしても、彼女に迷惑をかけてしまうことは明白だった。


「ご説明、出来ないんですか?」


 さらに冷たさが増した声色で美玖さんの母親が問いかけてくる。

 それでもなお、私は何も答えられない。どんな説明をしても、きっと受け入れられない。

 それどころか、大切なあの二人に、私が原因で嫌な思いをさせてしまう。それだけは何にかえても避けたかった。


「はあ……この家のセキュリティがここまで甘いとは思わなかったわ。何のために家政婦を雇っていたのかしら……」


 彼女の口から出たその言葉に、思わず息を飲む。

 私の様子を見て、危害を加えてくるような存在でないと分かると、彼女は愚痴を吐き始めた。

 その矛先がどこに向いているのかは明白だった。


「美玖も最近は口を開けばネコのことばかり……月山が言うから許したけどやっぱり間違いだったかしら」


 何か彼女の中で抑えていたものが外れたのだろうか。

 まるで私の心を読んでいるかのように、言葉の矛先はあちらに向いていた。


 自分の中で、感じたことのない気持ちが湧き上がってくる。

 怒りだけではない。悲しみだけではない。悔しさだけではない。


 初めてのその感情は、それまで抑えられていたものすべてをコントロールすることさえ忘れてしまうほどで。


「……違います」


 気づけば、そんな言葉があふれる感情に飲まれてこぼれ落ちた。

 美玖さんの母親は、急に態度が変わった私を訝しげに見つめる。


「月山さんも、美玖さんも……とっても優しくて素敵な人です」

「な……何を言っているの? あなた、何を知っているの」


 彼女は困惑した様子で、少し怯えているようにも見えた。

 先ほどよりも警戒した様子で、そこから一歩だけ後ずさる。


 勢いに任せてそのまま言葉をまくし立てようとしていた口が、その様子を見て足を止める。

 これ以上私が何か言っても、メリットは何もない。

 美玖さんの母親の考え方を変えることはできない。大切なあの二人のためにもならない。


「……いえ、ごめんなさい。なんでもないです」


 エプロンの裾をきゅっとつかんで、あふれ出た気持ちを吸い込んで我慢する。

 もう、私から話せることはない。もう、私がここにいる理由はない。


 思い残すことはたくさんあるし、二人への恩はまだまだ返し切れていない。

 でも、これ以上この人の前にいることは、あの二人に対して恩どころか仇を返してしまう。


 私は、目の前の彼女に対して頭を下げる。


「勝手に上がってごめんなさい。すぐに出ていきます」


 深く頭を下げてそう述べたあと顔をあげると、彼女はぽかんとした顔でその場にたたずんでいた。

 私はもう一度頭を下げた後、彼女の横を通り過ぎて玄関の扉をあける。


「ち、ちょっと、あなた!」


 呼び止めようとする彼女の声を無視して、何も言わずに外の世界へ飛び出す。

 上履きのまま、メイド服のまま、何もかも残したまま。


 人の姿でこんなにも早く走ったことは初めてだった。

 うまく足が回らず、転びそうになりがならも走り続ける。


 疲れて走れなくなっても、足を止めることはなかった。誰も私を知らない、見つかることのない場所を目指して前に進み続けた。

 日が暮れ始めるころには、体力を使い果たして近くにあったベンチに腰かけて空を見つめていた。


 つい昨日までは、あんなに温かくて幸せだったに。

 体を動かして体温が上がっているにも関わらず、心はぽっかりと穴が開いたような感覚とともに寂しく冷え切っていた。



 それからのことはあまり思い出したくない。


 住む場所も頼れる人もない私の居場所などどこにもなく。

 人の姿に慣れてしまったことで野良ネコとしての生き方もうまくいかなくて。


 あの時と同じように、誰かに拾われることも何回かあった。

 でも、あの時のような温かさを感じることのできる場所はどこにもなかった。


 始めこそ優しく世話をしてくれた人も、都合が悪くなればいとも簡単に私を捨てた。

 でもそれは、その人たちにとっては仕方のないこと。それに対して私が文句を言える道理なんて何一つない。


 いっそのこと、人の姿をしていたほうが物珍しさで長く置いてくれるのではないか。

 ふと思いついて、すぐに思考を捨てた。

 リスクのほうが断然高いのは明らかで、そもそも行動に移せるほど勇気は持ち合わせてなく。


 そんな日々と思考を繰り返しているうちに、いつしか自分の生きる意味さえも分からなくなって。

 いつの間にか季節は移り変わり、日は短くなり私の心のように冷たい風が街の中を駆け回っていた。



 その日は真っ白な雪が降り積もる朝だった。

 数日前に転がり込んだ家の主人も、やはり私のことを長くは置いてくれなかった。

 空いた段ボール箱に入れられた私は、小さな毛布一枚とともに路地裏に捨てられた。


 朝からこんなにも冷え切った今日。一面の銀世界の中で、ここで留まれば自分がどうなってしまうかは容易に想像がつく。

 それなのに、思ったように体が動かなかった。その気力すら出てこなかった。


「(美玖さん……月山さん……)」


 もう忘れてしまおうと思っていた人たちの顔が、不意に頭をよぎる。


 ……一体、私はどこから間違えてしまったのだろう。

 あんなにもネコとしての私を大切にしてくれて、あんなにも人としての私を導いてくれた。

 なんで、私はもっとうまく立ち回ることが出来なかったんだろう。


 今更考えても何も変わらない。その事実が余計に私の胸を締め付けた。


「(もしも……また、あの二人のような人に出会えたら……)」


 あの家を飛び出してから心に秘めていた唯一の希望であったその願い。

 でも、今のこの苦しさは、多分その願いのせいでもあって。



 ……それでも。

 もし、まだチャンスがあるなら。

 私を見つけてくれる、あの人たちのような存在がいたのなら──



 しんしんと降る雪の中、私はその寒空に向けて声をあげた。

 ……きっと、これが最後だから。





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