81 二人一緒のベッドで
初めて会ってからすぐ、驚くほどに唐突に彼女は俺のすぐそばにいた。
一度もペットを飼ったことがなかった俺だったが、これまで一緒にいてから迷惑をかけられることは一度もなかった。
それどころかいつの間にか彼女に支えられるようになっていて、すっかり俺が彼女に依存してしまっている。
最近は彼女との距離感にも居心地の良さを感じて、ますます生活の充実感が高まってきている。
言うまでもないが、唐突にそばにいるというのは概念的な話であって、もちろん物理的な話ではない。
しかしながら、今俺が置かれている状況は後者のほうにあてはまるわけで……。
「ま、ましろ……?」
「はい、なんでしょう」
「いやその……この状況について何か一言いただければと」
「すごく温かいです」
「それはよかったです……」
俺が横になるベッドの上で、俺の横に寄り添うように同じくベッドで横になるましろ。
もちろん、彼女はネコの姿ではなくパジャマを着た人の姿で、吐息さえ感じられるような距離でそこにいる。
ましろの頼み事であれば基本的になんだって答えるのだが、とりあえず内容を聞いてからにするべきだったと後悔している。
彼女と体が触れ合うことはまだしも、同じベッドに寝ているというのはさすがに簡単に飲み込めることじゃない。
「ましろさん、さすがにこれはまずいんじゃないでしょうか」
「佐藤さん、なんでもって言ってましたけど」
いやいや、なんでもにも限度があるだろうと思いつつも、状況が状況のため何も言い返せない。
距離が近いこともありましろはささやくような声で話すため、嫌でも彼女の距離の近さを感じて動悸が激しさを増した。
ましろのほうはといえば、なぜか平気な顔をして俺の目を見つめている。
……いや、よく考えてみればましろは慣れているのかもしれない。もちろんこの姿でベッドにいることはないが、ネコの姿であればいつの間にかベッドにもぐりこんでいたことは何度かあった。
とは言え現状目の前にいるのは、俺からすればまだ幼く、しかしながら確かな魅力を持った一人に女の子なのだ。これで平然としていられるわけがない。
「……なんというか、まず理由を聞いてもいいか」
「気まぐれでしょうか」
「思ったよりしっかりネコしてるよな、ましろ」
「ネコですから」
普段一緒に生活していると、見た目よりもずっと大人びていて家事のレベルも高く、でも一面ではしっかり歳相応のかわいさもある。
一言で言ってしまえば、本当に人間味がありすぎるのだ。いや、ましろ曰く人間とネコのハーフのような存在らしいし、人間であることに変わりはないのだが。
「そうは言ってますけど、佐藤さんが約束してくれたんですよ?」
「待ってくれ。俺がいつ添い寝の約束をしたっていうんだ」
仮にどれだけ寝ぼけていたり酔っていたりしてもそんな約束をするわけがない。
それなのに、ましろは唇を尖らせて不服そうな顔をして、そのまま寝返りをうって反対側に向いてしまい表情が分からくなった。
「……今日は一日中ずっと一緒にいてくれるんじゃないんですか」
その代わりに、夜の静けさと同じくらい小さな声でましろはつぶやいた。
それを聞いてようやく彼女の言う約束を理解した。確かに、今朝に交わした彼女との約束は今日一日一緒にいることだった。
もちろん俺はその言葉に布団を共にすることまでのニュアンスを含めたつもりは全くなかったのだが、彼女の言い分に反論もできない。
朝に見た彼女の寂しそうな顔。俺の知らない彼女の過去と心の中。それを考えれば当然無下にはできないのだ。
「……今日だけ特別だぞ」
毎日これだとさすがに俺が俺でいられなくなってしまいそうだが、今日だけということであればましろのために頑張ろう。
幸いにも、就職祝いで両親に買ってもらったベッドはなかなかに値段の張るものでサイズも大きめだ。
物理的な話だけであれば、彼女が横にいたとしても十分に寝ることはできる。
そこから特に言葉を交わすこともなく、ゆっくりと時間が過ぎていく。
横目にましろを見ると、気づけばそっぽを向いていた顔は俺と同じように天井を見つめていた。
何の面白みもないまっさらな天井を見つめているだけなのに、不思議と彼女と同じ一点を見ているように感じた。
たぶん、何か大きな環境の変化やましろの気持ちに変化がない限り、今の生活が変化することはないだろう。
彼女と同じ場所で、彼女と同じものを見ながらこの先も生きていくはずだ。それがお互いの最も望む形だから。
そうして一緒に生活していく中で、彼女についてもっと知りたいと感じるのは至って自然なことだと思う。
もちろん、これだけ一緒に生活をしてきていれば大体のことは知っている。好きなものや得意なこと、お互いになんでも知っているだろう。
それなのにもっと知りたいと感じるのは、普段の生活だけで知ることのできないものがあるから。それは、今知っているものの何倍もの情報が存在する、その人の根底を作り上げているもの……。
少しのためらいの後、俺は天井を見つめたまま口を開く。
「……なあ、ましろ」
「はい、なんでしょう」
俺が声をかけると、すぐに返事が返ってくる。
いつもと変わらない彼女の声色。その声を聞いてから、もう一度今朝の情景を思い返す。
何かに怯えるような表情で俺に問いかけてきた彼女は、これ以上なくらいの寂しさと悲しみの不安を抱え、それに押しつぶされてしまいそうになっていた。
そして、俺はその不安の正体を知らない。
初めて彼女と出会ったときから、言葉にはせずともずっと心の内で考えていたこと。
それは、ましろが俺と出会うまでどんな風に生きてきたのか。そして何を感じてきたのか。
なぜ彼女はあの雪の日、あの場所にいたのか。それに至るまでにどんな理由があったのか。
それを知らない限り、本当の意味で彼女のことを分かっているとは言えない。
「俺と出会う前のましろのこと……聞いてもいいか?」
俺がその言葉を口にした瞬間、それまでの音がすべて消えたような感覚がした。
お互いの呼吸音や布団の擦れる音、時計の針の音さえ聞こえなくなった。
その張り詰めた空気から、彼女がどんな気持ちで俺の言葉を受け止めたのか伝わってくるようだった。
「もちろん、話したくなければそれでもいいんだ」
「………」
「それでも──」
布団の中で、彼女の手をそっと触れる。そして、俺の覚悟を伝えるようにぎゅっと握る。
「俺はましろのことを知りたい。もし俺の知らないましろが一つでも心の中で抱えているものがあるなら、一緒にそれを背負いたい」
嘘偽りない俺の気持ち。目をそらしていたわけではなかったが、彼女ために何が一番いいことなのかが分からず勇気が出せなかった。
でも、彼女はいつも俺の望むことをなんでも肯定してくれる。俺が彼女のためになんでもしてあげたいと思うのと同じように、彼女も俺のことを考えてくれている。
だから、俺のこの気持ちにもう迷いはない。
「……本当に、いいんですか?」
「ああ。どんなことでも受け止める覚悟は出来てる」
「……過去の私を知って、佐藤さんの気持ちが変わったりしませんか?」
「もしそれがましろへの信頼の気持ちのことを指しているなら、絶対に変わることはない。そう簡単にこの気持ちを変えられると思うなよ」
「佐藤さん……」
冗談めかすように伝えた言葉だったが、その言葉に嘘はない。
あとは、ましろが差し伸べた手を握ってくれれば、俺がその手を離すことは絶対にない。
ましろの手を握った俺の手を、彼女が握り返してくれる。
それは俺の覚悟を受け止め、答えを返してくれているようだった。
そして彼女は、ゆっくりと時間を空けてから口を開く。
「……それでは。少し長くなるかもしれませんが、昔話をさせてもらいますね」




