79 ネコ様の未来と過去
ましろが怖い夢を見たと言って俺のベッドに侵入してきてから数時間後。休日の昼下がりにはいつも外へ出かけているのだが、今日は違う過ごし方をしていた。
とは言ってもやること自体は、いつも家にいるときにしていることだけ。
テレビを見たり、本を読んだり、スマホをいじったり。でも、少しだけいつもと違うところがある。
「佐藤さん、これおいしそうじゃないですか?」
「うまそうではあるけど何の肉なんだそれ」
ましろが手に持ったスマホを俺のほうに向けて聞いてきて、俺はそれを見ながら受け答える。
それだけであれば何も変わらないいつもの風景だが、問題は彼女が座っている場所。
現在スマホをいじっているましろは、ソファに座る俺の足の間に座っている。
当然彼女の頭は俺の目と鼻の先にあり、体の至る箇所が彼女と触れ合っている。
「こんな見た目ですが普通に鶏肉みたいですよ。お財布にやさしいメニューみたいです」
「はてさて、ましろの料理に勝てるかな」
「ふふっ、何の勝負ですか」
そんな状況でも彼女いつもと変わらないように微笑んでいて、俺もいつの間にか彼女とのこの距離感にも慣れ始めていた。
もちろん、心拍数は早くなっているだろうし、意識はしまくっている。
でも、ましろが近くにいてくれているという事実だけで十分に心が落ち着いている。ましろの夢の話を聞いてなおさらにそう思うようになった。
例の夢を見たましろの頼みで、今日は一日中ましろと一緒にいると約束した。
外に出かけることもなく、家の中で何をするときもずっと俺のすぐそばに彼女がいる。
人肌が恋しくなるような性格でもないのだが、ましろと触れ合っていると不思議と心が満たされる。
決してうぬぼれているわけではないが、少なくとも彼女も俺に心を許してくれている。その事実が何よりもうれしく感じる。
「さすがに、ましろの作る料理は世界一だからな」
「それだと、佐藤さんはかなり小さな世界で生きていますよ?」
「そんなことはない……と言いたいところだが、確かにそこまで食にこだわって生きてきてないからな」
「世界には、もっと素敵でおいしいものがまだまだたくさんあるはずです」
そんな言葉を口にするましろは少し浮かれているような、どこか子供っぽい目をしていた。
いや、実際彼女は子供なのかもしれない。いくら家事ができて俺よりもしっかりしているとは言え、見た目はただの高校生。
まだ見ぬ世界に対して憧れの一つや二つくらい持っていようが何も不思議ではない。
……これは俺の勝手な考えだが。
ましろは多分、外の世界。この家の近所だけではない。電車で数駅程度だけでもない。
もっと遠くの、俺も見たことがないような色々な世界を見てみたい。そう、思っているのではないであろうか。そんなことをふと考えついた。
気が付くと、少し間考え事をしてしまった俺をましろが不思議そうな目で見つめていた。
俺はすぐに口角を上げてましろに微笑み返して、目の前にあるさらさらの髪の毛の上に軽く手を乗せてぽんぽんと叩いて誤魔化す。
「でも確かに、しっかり世界と比較してからましろの料理がおいしいことを証明しないとフェアじゃないかもしれないな」
「佐藤さん、そればっかり。そんなに褒めても何も出ませんよ?」
「いや、今日の夕飯でさっそくおいしい料理が」
「今日は買い物に行けなかったので、レトルトカレーにしましょうか」
「………」
「冗談ですからそんなに寂しい顔しないでください。今晩は世界一の手作りカレーを作りますからね」
「ましろ様……」
ありがたやと、ましろに向けて手を合わせて拝んでおく。毎日ましろがご飯を作ってくれることにはすっかり慣れてしまったが、いつも感謝は忘れない。
こんなにおいしいものを毎日出されてしまっては、もうコンビニ飯には戻れそうもない。それほどまでに胃袋をつかまれている自覚がおおいにある。
そんな俺を見て楽しそうに笑うましろを見て、改めて先程考えていたことを思考する。
まだましろと二人で遠出をしたことはない。とはいっても、それはどことなく彼女に世間知らずなところがあり単純に心配なだけだからだ。
もし機会があって彼女が望むのであれば、彼女が言うようなまだ見ぬ知らない世界にも行ってみたい。もう少しこの生活が続いてくれるのであれば、いつか必ず叶えたい。
「今日はご飯より先にお風呂に入ってもいいですか?」
「もちろん構わないが、何か理由があるのか」
「……そのほうが、ご飯の後に佐藤さんとゆっくりできるかな……と思ったので」
ちょっとだけ恥ずかしそうにしながらそんなことを口にするましろ。それを直視して思わずきゅっと胸が締め付けられる。
彼女は素でこういったことを口にするので、いつも不意打ちをされる。思わず彼女の頭をくしゃくしゃに撫でてやろうかという右手を理性で抑えて踏みとどまった。
「そ、そうだな。それなら俺もそのあとにすぐ入ることにするよ」
「はい。では、先にお風呂掃除だけしてきますね」
ましろはそう言うと、少しだけ名残惜しそうにしながら立ち上がってお風呂場へ入っていった。
脱衣所の扉が閉まった瞬間、一気に肩の力が抜けてソファに寄りかかる。
「はあぁ……」
溜まりに溜まった緊張が二酸化炭素と一緒に口からこぼれていく。
……なんでましろはあんなに魅力的なんだろう。年甲斐もなく、思わずそんなことを考えてしまう。
俺は保護者という立場で彼女を守っていかなければならないというのに、そんな意志を簡単に忘れさせてしまうくらい惹きつけられてしまっている。
こんなにも誰かのことを意識してしまうのは多分これまでになかった感覚だ。
もしこの気持ちを持った自分がまだ子供だったのなら、溢れるままにこの気持ちを本人にぶつけてしまっていたかもしれない。
逆に言えば、そうなっていないのは俺が大人になれている証拠なのかもしれない。
「ましろはどう思ってるんだろうな……」
言うまでもなく、俺が彼女を大切に思う気持ちと同じくらいの気持ちを彼女は俺に向けてくれている。
これだけ聞くとただのうぬぼれのようだが、これに関してはましろの口から直接聞いたことであるので間違いはない。
だが、それ以上の感情があるのではとまで考えるのは、それこそうぬぼれというもの。
信じたくはないが、ましろからすれば俺はもうおじさんといっても差し支えない年齢差なのだ。
なのにあんな思わせぶりな言い方と甘え方をされると、こちらとしてもどうしていいのかわからなくなってしまう。
もう一つため息をついたあと、ましろが入っていた脱衣所の扉を見つめる。
今朝の一件で、ましろが人間と何も変わらない、傷つきやすくて繊細なただの女の子なのだと再認識した。
そして、こんなに優しくてかわいい一人の女の子が、どうして吹雪の中で一人ぼっちで捨てられていたのか。これまで少し考えないようにしていたことを、あらためて考えた。
ましろがあそこまで不安になってしまったのには、俺の知らない彼女の過去が影響しているのだと思う。
あんなにやさしい女の子なんだ。少なくとも、そこまでひどい環境では育っていないはず。それなのに、あんな形で俺と出会うことになってしまった。
……もし、ましろがその気になってくれるのであれば、彼女のことをもう少し深く知りたい。
どんな人と出会って、どんな生活を送って、どんなことを感じていたのか。それを知りたい、聞きたい。
自分でもよくわからないが、漠然とそう思う気持ちが強くなった。




