78 ネコ様の不安
「……佐藤さんは、どこにも……。どこにも、いきませんよね……?」
彼女から発せられたその言葉に思わず息を飲んだ。
その姿があまりにも儚げで、あまりにも寂し気で。
なんでいきなりそんな言葉を口にしたのか。そんな、抽象的で答えが決まっているようなことを聞いたのか。
そんな思考が頭をめぐる中、俺の視線は彼女のその今にも泣きそうな瞳に引き付けられた。
その瞳を見ると、それまで考えていたことすべてがどうでもよくなるほどに彼女の存在を強く意識した。
言葉通り、理由が何かなんて関係はないのだと思う。今俺に出来ることはただ一つだけ、彼女を心の底から安心させてあげること。
そう確信して、俺はましろに握られた手をそっと引き寄せる。
少しバランスを崩した彼女を支えるように受け止めて、ぎゅっと背中に手をまわして抱きしめる。
「さ、佐藤さんっ」
俺のいきなりの行動に思わずましろは声を上げるが、俺は気にせずにただ強く彼女を抱きしめる。
言葉にするまでもなく、彼女が杞憂するまでもなく、俺の気持ちが伝わるように。
最初こそ戸惑いを隠せず体をこわばらせていたましろだったが、抵抗することはなく少ししてからゆっくりと体の力を抜いて俺に体重をあずけてくれる。
それだけで彼女の不安がすべて取り払われたわけではないが、少しは落ち着いてくれたはず。
それを確認してからゆっくりと彼女に声をかける。
「俺はどこにもいかない。ずっとここにいる」
「……はい」
「どこかにいくことになっても、ましろを置いていったりしない」
「…………はいっ」
「だから、そんな不安な顔をしないでくれ」
ましろの返事は相変わらずか細くて、この距離でなければ聞き取れないほどに小さな声だったが、俺の気持ちにはっきりと答えてくれた。
そして、その気持ちを俺に伝えてくれるように、彼女も背中に手をまわして抱きしめてくれる。
こんな風に抱きしめ合うのは、少し前にショッピングモールへ出かけたとき以来二回目。
不思議と恥ずかしさはなくて、ただ彼女を大切だという気持ち、彼女を守ってあげなければという気持ちだけだった。
しばらくその姿勢のまま抱きしめあい、どちらからということもなく手を離し、ましろは俺の横に腰を下ろした。
体に残った彼女の体温を少しだけ意識しながらも、俺は彼女に問いかける。
「何か、あったのか」
俺がそう言うと、ましろはまた少しだけ悲し気な表情をする。
しかし、先程のように感情があふれるようなことはなく、自嘲気味に小さく笑いをこぼした。
「大したことでないんです。だから、できれば笑い流してください」
「善処する」
俺はあらためて彼女を安心させるように微笑みかけて、ついでに頭を優しくなでる。
彼女のことだ。たぶん、そんなことを言いながらも何か思うところがあったのだろう。善処するとはいいつつ、きっと軽く笑い流せそうにない。
「昨晩、夢を見たんです。私と佐藤さんだけが登場する夢でした」
「ましろの夢に出演してたのか。光栄なことだ」
「ふふ、なんですか、それ。……でもあんまりいい夢ではなかったんです。その、なんというか……佐藤さんが遠くへいってしまう夢でした」
ましろは再び悲しい表情を見せる。思わずもう一度抱きしめたくなるが、話の腰を折ることはせず、もう少しだけ詳しい夢の内容を聞く。
夢の中の話なだけあって、抽象的でところどころ支離滅裂だったりしたのだが、少なくとも目覚めが良いとは言えない内容だった。
たぶん俺が立場を逆の夢を見たとしたら、一日気分が落ち込むことは必至なはず。
そして、それが彼女の立場からすると、俺とは比べ物にならないくらい心にきてしまうものだったのだろう。
俺は彼女の過去を知らない。もしかしたら、俺が聞けば彼女は教えてくれるかもしれない。
でも、もし彼女がその過去の記憶に対して少しでも負の感情があるのであれば、無理やりに思い出させてしまうようなことにはなりたくない。
たぶん、ましろが見た夢がこれほどまでに彼女を不安にさせてしまったのは、俺の知らない彼女の記憶にも少なからず要因があるのだと思う。
「……それで、どうしようもなく苦しくなってしまって」
「俺だってもし同じ夢を見てたら同じ気持ちになってたさ」
できるだけましろを傷つけないように言葉をかけたが、あまり彼女の表情はよくならなかった。
「……私は、佐藤さんがそう言ってくれることも分かってたんです。それなのに、不安になる気持ちが抑えられなくて……」
「ましろ……」
「佐藤さんのことは信頼しているはずなのに……それなのに」
そこまでましろの言葉を聞いてから、ようやくなぜ彼女がここまで悲しい顔をしていたのかを理解した。
おそらく、その夢の内容だけが直接彼女を追い詰めていたのではなく、それで不安になってしまった自分自身の心が彼女を傷つけていたのだろう。
俺がましろのことを信頼しているように、ましろもまた俺のことを信頼してくれている。
それなのに、たった一つの夢だけで不安になった自分が、俺への信頼を裏切ってしまった──そんな風に彼女は感じてしまったのだろう。
そして、あらためてましろという存在が、本当の意味で一人の女の子なのだと気づかされる。
繊細で傷つきやすいただの女の子。いつも俺自身が甘やかされている立場だったからこそ、そのことを俺は理解できていなかった。
「でも、俺は嬉しかったけどな」
「……え?」
俺の言葉に彼女がきょとんとした顔を浮かべてこちらに振り向く。俺は正面から視線を逸らすことはなく言葉を続ける。
「ましろは俺にとって大切な存在なんだ。まだ出会ってから日は浅いかもしれないが、この世界のだれよりも大切なんだ」
ちょっとましろからすると大げさだと思われてしまうかもしれないが、俺は嘘偽りなくそう感じている。
実の家族だって大切だし、榊原のような友人だってもちろん大切な存在だ。だが、今の俺の生活の中で一番関わりの深い存在はましろになっている。
「そのましろから、離れてほしくないと思われてるんだ。嬉しくないわけないだろ?」
「佐藤さん……」
ここまで言っておきながら少し照れ臭くなって、彼女のほうへ振り向いてはにかむ。
彼女はまだ申し訳なさを払拭しきれていないのか暗い表情のままだったが、先程に比べると少しだけ光が戻り始めていた。
「だから、そんな顔をしないでくれ。ましろが笑ってくれてないほうがよっぽど心配だ」
俺はそう言ってからましろの頭を優しくなでてやる。彼女は何も言わずに俺に身を任せてくれる。
いつも彼女に甘えさせてもらってばかりなのだ。彼女にも年相応に誰かに甘えてほしい。
そして、その相手が俺であるなら。彼女がそう望んでくれているのならば、それ以上に嬉しいことはない。
「……佐藤さん、今日お昼ご飯は少し遅めでもいいですか?」
「問題ない」
「じゃあ、もう少しこうしててもいいですか……?」
「ああ、喜んで」




