70 ネコ様と胸の鼓動
「ま、ましろ?」
突然距離を縮めてきた彼女に俺の声は届いておらず、ぐっと体を近づけてくる。そして、片手を伸ばして俺の胸に軽く触れてきた。
続けるようにもう片方の手もあてて、そのあとはゆっくりと体重をあずけるように頭を置いてぴとっとくっついてきた。
いきなりのことに俺は反応することができずに、彼女を振りほどくことはかなわずそのまま流されてしまう。
最近彼女との距離感が縮まったことは自負しているが、身体的な接触は手を繋ぐ程度のことでこれほどの接触は全く慣れていない。
胸の中にいるましろから、ふわりとさわやかな香りが漂ってくる。それはきつい香水のようなものではなく、彼女の使うやさしいシャンプーの匂い。
すっかり慣れた匂いだと思っていたのに、彼女が至近距離にいるというだけで俺の鼓動はさらに加速していた。
「本当みたいです」
「え?」
俺の特に鍛えているわけでもない胸板にくっついたまま、静かに聞き耳を立てるように制止していたましろ。
動揺して何もしゃべれない俺とは裏腹に、不意に彼女は冷静な口ぶりでそう言葉を落とした。
「本当に佐藤さんのここ、すごくドキドキしてます」
「っ……!」
ましろが発したその言葉に、心臓が口から飛び出そうなほどの勢いで飛び跳ねた。
たしか、少し前にも似たようなことがあった。あれはテレビ番組の特集で心拍数に関しての話題が出た時だっただろうか。
あの時も今と同じように、ましろは俺の胸に耳をあてて心音を聞いていた。だから、この状況になったことは初めての経験ではない。
しかしながら、その時とは比べ物にならないほどに心臓はバクバクと音を立てていた。
自分でも分かるほどの心臓の鼓動は、当然ましろにも伝わってしまっているわけで、彼女はそのことを実況してくる。
「ふふ。佐藤さん、今日のデート緊張してますか?」
「い、いや。そりゃ緊張するだろう。ましろはしないのか」
「もちろんしないこともないですが……なんというか、自分より緊張している人が近くにいますので」
「………」
その考え方については確かに理解できるが、自分がその対象にされてしまっていることについては理解したくない。
ましろと過ごす時間が増えれば増えるほど、どんどん彼女のほうが俺よりも余裕が出てきたように感じる。
……いや、少し違うかもしれない。
彼女は多分、俺が思っているほど変わってはいない。単純にこの新しい生活に慣れてきた、副産物のようなものだろう。
そう。変わってしまったのは、俺のほうだ。
最近になってましろへの接し方が、曖昧になってきてしまっている……平たく言ってしまえば彼女を変に意識してしまっているのだ。
だからと言って、異性に対しての意識という意味ではない。……まあ、全くないかと言われれば、否定はできないが……。
「朝にも言いましたが、私はもう覚悟を決めています。だから、佐藤さんもそんなに思い込まないでください」
ましろは、いまだに鳴り続ける俺の心臓をあやすように、優しい言葉で俺に伝えてくる。
彼女は俺が緊張しているのが不安からくるものだと思っているのだろう。
いや、もちろん間違いではないが、今の緊張の要因は違うものが大多数を占めている。
「(こんなにかわいい姿を見せられて、緊張しないほうがおかしいよな)」
まだ20代だとしても、ましろからすればおっさんと言われても仕方ない年齢。いや、実際言われたらかなり傷つきそうだが……。
そんなにも年の差があるというのに、たかがデートでこんなにも緊張しているのが情けない。
そんな自分の気持ちに言い訳をするように、心の中でそう呟いた。
「そ、そろそろ行こうか。ましろ」
「はい、そうですね」
まだ少しだけ予定よりも早い時間だったが、この状況からいち早く抜け出すためにそう提案すると、ましろは素直に離れてくれる。
今一度鼓動を落ち着けてから、俺はましろと一緒に玄関を出た。
今日の集合場所は俺の家の最寄り駅。いつも通勤に使っている駅だ。
職場の市内に住んでいる榊原達からすると、少し遠い場所になってしまうがこれもあちらからの提案だ。
誘ったのは自分たちだというのもあり、気を遣ってくれたらしい。
ましろと外に出かけることはかなり増えてきて彼女自身もかなり慣れてきたようにも感じる。
とはいえ、その活動範囲も徒歩圏内での話。バスや電車を使うような外出はまだしたことはない。
そういった意味でも向こうからそう提案してくれたのはありがたかった。
いつも通り慣れた道を歩いて駅へ向かう。
駅の周辺とはいえ所詮は田舎の道路。それほど幅員はなく、その割には駅の利用者で交通量は多い。
安全を考え俺が道路側を歩いていたのだが、隣を歩く彼女は不安そうな目でこちらを見ていた。
「佐藤さん、もう少しこちらに寄ってください」
「俺は大丈夫だ。これ以上寄ったら、逆にましろが歩きにくくなるだろう」
「……そんなこと、ありませんからっ」
車道と同じく、歩道もあまり幅があるわけではない。すぐに家の塀や垣根があるため、あまり俺が詰めすぎるとましろの歩くスペースがなくなってしまう。
そう思ってましろの申し出を断ったのだが、彼女は納得いかなかったらしい。
ましろは意地を張ったような声をあげて、突然俺の腕を掴む。そしてその腕を自分に引き付けるように俺に抱きついてきた。
「ま、ましろっ?」
「なんでしょうか?」
「い、いや、なんでも何も……」
いつもしているような、手を繋ぐなんてレベルではない。
ましろの腕は俺の腕に絡みついて、離さないと言わんばかりに体を密着させている。
普段は触れないようなあちこちの部位がこれでもかと押し付けられており、自分の置かれた状況に言葉も出ない。
ようやく家を出る前の緊張も解けてきたところだったというのに、思い出したかのように鼓動が再加速し始めた。
「い、いささか、距離が近うございませんか。ましろさん」
「……よ、よいではないか?」
あ~れ~……って、そうではなくて!
「いや、別に嫌なわけではないんだが……いきなりで驚いたというか」
「佐藤さんがこちらに寄ってくれないのが悪いんですよ」
「そ、そう言われてもな……」
現状俺の心臓はかなり限界ではあるため何か言い返そうともしたが、彼女の意志でしていることならば何も言えない。
最近ましろとの距離が縮まってきたことはいいのだが、さすがにこれは近づきすぎではないだろうか……。はたまた俺がチキンなだけなのか。
「それに、今日は“デート”なんですよね?」
「一応、そういうことらしいが……」
「でしたら、こうして歩くのも不自然ではないんですよね?」
ゼロ距離で横に並んで歩く彼女は、いたずらな笑みをしながら俺にそう投げかけてくる。
正論と同時にそんな顔を見せられては、俺もいよいよ反論の余地はなくなる。心の中で大きくため息をついてから俺は口を開く。
「……分かったよ。今日は恋人、なんだもんな」
「はいっ」
俺が渋々といった様子で答えると、彼女は思わず見とれてしまうような笑顔を咲かせる。
どうせ今日の内に、榊原と綾乃さんには真実を話すつもりではある。無理して演技をするようなことでもない。
……でも、その機会が訪れるまでの少しの間だけ。いつもとは違う関係のふりをするのも悪くない。
そう、思ってしまう自分がいたのだった。




