65 甘やかしネコ様
ましろ過ごし始めてから数か月。季節は移り変わり、すっかり梅雨の季節となった。
そんな、いつもと何も変わらないとある平日。
一日の始まりは、耳元に置かれた電子機器から鳴り響く端的な電子音……ではなく──
「佐藤さん、朝ですよ」
朦朧とした意識の中、自分の体が控えめに揺らされる感覚とともに、聞きなれた優しい声が耳に入ってくる。
「ん、んん……」
「朝ごはん、もう出来てますよ」
抗い難い睡魔になかなか目を開けることができず言葉にはできないうなり声だけを返すが、外の世界からはいまだに声がかけられ続ける。
彼女は早くこちらの世界を来てほしいと訴えているようだが、俺はその声を聞くとますますまどろみの中から出ようという意志が薄れてしまう。
「ん。あと、5分……」
「その言葉は5分前にも聞きました。起きてください」
「記憶が改ざんされている……」
「されていません。5分前の発言も、遅刻してしまいそうなのも事実です」
先ほどよりも激しく体がゆすられて、だんだんと意識が覚醒し始めて微かに目を開いて外の世界をのぞいてみる。
そこにはすっかり見慣れたエプロンと眼鏡をかけた姿の銀髪のネコ耳少女。
本当に記憶が改ざんされていたのならば、まだ夢の中の世界だと勘違いするんじゃないかというほど現実離れした光景。
改めて考えても本当に奇妙な関係だと思う。そして、それがもう日常になっている。
しがない一般会社員の家に突然ネコ耳少女があらわれ、今では毎日のようにモーニングコールをしてくれる。
こんなことになるなんていったい誰が予想しただろうか。それどころか、言われても信じないレベルだろう。
そんな奇跡のような生活が送れているというのに、俺は恥ずかしながら日々彼女に甘やかされ続けたおかげで完全にダメ人間になっている。
そもそも、成人した男が年下の女の子に毎朝起こしてくれているのに甘えてしまっていること自体とんでもなくやばい気がする。
こんなことが家族や同僚に知られた時には、もう正気ではいられない。外では絶対に見せない一面をましろだけに見せてしまっている。
「ほら、今日はご要望通りフレンチトーストにしたんですから。お寝坊な人には食べさせてあげんませんよ」
「おはよう、ましろ。いい朝だな」
「……本当に現金な人ですね。今日は1日雨の予報ですよ、傘を忘れないでくださいね」
俺がぱっちりと目を覚まして体を起こしたのを確認すると、ましろはまたキッチンへ戻っていった。
朝からこんなにも楽しい会話ができることだって、あたりまえのことではない。
一人暮らしにはなかったこと……ということももちろんあるが、そもそも初めのころはこんなにもましろとのコミュニケーションは多くなかった。
会話が少なくても関係がぎこちないなんてことは不思議と無かったが、ちょっとだけ寂しいと思うことが無かったわけではない。
しかしそんなのは杞憂だったらしく、彼女と過ごす時間が増えれば増えるほどに比例して彼女とのコミュニケーションも増えていった。
お互いに遠慮して踏み込めなかった部分も理解し合えるようになり、ちょっとした冗談だって言い合える仲にまでなれている。
「いい匂いがする」
「おそらく味のほうも上手に……ふふ、なんですか。それっ」
顔を洗いに行こうとキッチンを通り過ぎるついでにましろに声をかけると、振り返った彼女が俺を見ていきなり笑い出す。
「いきなり人の顔を見て笑うとは何事か」
「だ、だって……ふふっ。何かに警戒して逆立てているんですか?」
「何の話だよ」
「その縦横無尽な髪の毛さんの話です」
「髪?」
彼女がしきりに笑いをこらえた様子で俺の頭部を指さしてるので、それに従うように俺は自分の髪に触れてみる。
そして、とてつもない違和感を覚えた。
「寝ぐせ直しは、昨日詰め替えておきましたので」
「……それはどうも」
寝ぐせがついていたことよりも、彼女に笑われているのに気づけなかった自分が恥ずかしくなった。
その羞恥から逃げるように、彼女にお礼を伝えてから直るはずもないのにしきり自分の髪を撫でながら洗面所に向かった。
「ほんとにひどい髪だな……」
ましろの言葉の意味が今になってしっかりと理解できた。
鏡の中には、彼女の言う通り思わず「フシャー」という声が聞こえてきそうなほど厳重警戒のネコ。
比喩表現を無しにいうのであれば、これ以上ないほどに爆発した俺の髪の毛があった。
普段から結構寝ぐせには困らされる髪質をしているほうであるが、今日は特にひどい惨状だ。
軽く洗顔を済ませたあと、ましろが言っていた寝ぐせ直しで暴れる髪の毛をしずめていく。
さすがに、今日はなかなか手ごわい相手だったが、やけくそになりつつも無事に勝利。気を取り直してリビングへ戻る。
「おかえりなさい。警戒は解けたようですね?」
「うるさいぞ」
「ふふっ。ごめんなさい、つい。朝ごはんにしましょうか」
いまだに寝ぐせのことを引きずるましろを恨めし気に見ると、また楽しそうに頬を緩めながら謝ってくる。
もちろん本気で怒っているわけではないが、あんな笑顔を見せられたら怒るものも怒れない気がする。
「ったく……いただきます」
「いただきます」
ため息をつきながらも、食欲に勝ることなどないわけで、手を合わせてから出来立てのフレンチトーストをいただく。
いつもは何も味をつけないトースト1枚で済ませるのだが、今日はいつもと路線を変えてしっとりフレンチトースト。
「ん、うまいな。これ」
「良かったです。研究した甲斐がありました」
何か大きな理由があったわけでもなく、たまたまテレビ番組のなかで特集されているのを見て食べたくなっただけ。
ちょうどそのときにましろも一緒に見ていたので作れたりするのかと聞いてみた結果、今日の朝ごはんに登場することになった。
「研究なんてしてたのか?」
「大それたことではありませんが、少しだけです」
話を聞いてみれば、俺から聞かれるまで作った経験はなかったらしく、昨日の昼間の間に試作品を作っていたのだとか。
そこまでしてくれなくてもいいのだが、彼女はいつだって全力だ。何に関しても全力で取り組んでくれる。
たまにはゆっくりしてほしいものだが、彼女が言うには俺の役に立てること以上に幸せなことはないとのこと。
……本当に、どこまでましろは俺を甘やかせば気が済むのだろうか。
現時点で、朝のモーニングコールに三食のご飯、洗濯や掃除……これでもかと甘やかされているのに、これ以上に甘やかされたら本格的にダメ人間になってしまう。
「はぁ……」
フレンチトースト自体は甘さ控えめであっさりとしていたのだが、考え事のせいで胸やけのような感覚がしてため息が出た。
「佐藤さん……? やっぱりお口に合いませんでした?」
「そんなことない。おいしいよ」
「でも、ため息なんて……」
「おいしすぎて、ため息が出ただけだ」
「ど、どういうことですか?」
おいしすぎてというよりかは、幸せすぎてという意味でのため息だがあえてそこまでは言葉にしない。
これ以上彼女に思いを伝えたら、今よりも甘やかされそうで。そして、俺も甘んじてそれを受け入れてしまいそうで。
そんな、悶々とした思いを抱えながら、俺はもう一度ため息をつくのだった。




