54 ネコ様と食後の時間
「ただいま~」
そう言いながら玄関の扉を開ければ、中にいた彼女が駆け寄ってきて俺を出迎えてくれる。
「おかえりなさい、佐藤さん」
その言葉一つで今日の仕事の疲れはすべて無くなる……というわけではないのだが、少なくとも些細な事を忘れられるくらいには落ち着く感覚がした。
自分がこんなにも他人からの言葉で気持ちを左右されるようになっていることに内心驚いていたりもする。
社会人として働き始めて一人で暮らすことに寂しさを感じていたのはほんの初めの数か月程度なもので、一年が経つ頃にはすっかりそんな感情は無くなっていた。
同僚の惚気話……主に榊原の話を聞かされても、うんざりすることこそあれどどこか雲の上の存在を見ているようだった。
……だが、今では自分にとって大切な存在ができ、すっかり無くなったと思っていた一人でいるときの寂しさも感じるようになった。
なるべく早く家に帰りたいという思いから多少の残業も気になるようになり、そのためにこれまで以上に真面目に仕事に取り組んだ。
結果として、同僚からは飼いネコのために定時退社するやつという何とも言えない肩書をつけられるようになったりもしたのだが……。
「今日もお疲れ様です。ご飯も出来てますし、お風呂も沸いてますが、どうしますか?」
そんな俺の生活を一変させた張本人であるましろは、前にプレゼントしたエプロンを身に着けおたまを片手に持ちながら帰宅した俺をねぎらってくれる。
「ご飯にしようかな。なんだかいい匂いもするし」
「ふふっ、今日は餃子を焼いてみましたので、その匂いでしょうか」
そう言われてみれば、確かにこの匂い餃子の匂いだ。思い返すと、この間ましろと買い物に行った際ましろが餃子の皮を買っていたような気がする。
彼女の料理のすごいところは味だけではない。見た目の良さ、栄養バランス、そしてなんといっても献立のレパートリーの多さだ。
そんな贅沢すぎるメニューをなんの対価もなく毎日頂いているといのは、本当にありがたく、まったくもって尋常ではないことだろう。
上着を脱いでハンガーにかけたあと、手洗いうがいを済ませてから料理の並べられた食卓に座る。
いつもながらに彼女と食材に感謝を述べてから、今日のメインディッシュである餃子を一つ頬張る。
「うまい……」
「良かったです。かなり久しぶりに作ったので」
久しぶりでここまでの味が出せるというのか……。料理に関してはあまり明るくはないのだが、これが一般的なものより段違いにおいしいことは理解できる。
俺もここ最近は餃子なんて食べていなかったが、前に外食で食べたものと比べてもこちらに軍配があがるだろう。
あらためて彼女の存在のありがたみを噛みしめながら俺はご飯を食べ進めた。
食後のルーティンとして、皿洗いをしたあとはましろと二人でテレビをみるのが常だ。見る番組はもちろん日によって違うのだが、やっぱり動物や自然のものの特集を見ることが多い。
必ずもましろに合わせてというのがすべてではなく、俺自身としても見たい番組はそれくらいしかないのである。
バライティに関してはあまり詳しくはないし、ニュースも現状スマホで事足りている。そうなると、行きつく先はそういった番組になるというだけ。
二人でソファに座って特にこれと言って会話をするわけでもなく画面に映る愛くるしい動物を眺める。
会話がなくとも不思議と気まずさはなく、このまったりとした時間はかなり気に入っている。
今見ていたのは毎週放送の動物特集番組。今日はネコの話題らしく色々な豆知識などが多く紹介されていた。
ネコである存在が真横にいる状況でそんな番組を見るのはなんだか変な感覚だが、実際の感想や真実が聞けたりして意外と面白い。
余談ではあるが、例えばましろの場合、あまり市販のキャットフードは口に合わないのだとか。人間の舌を持ち合わせているからなのでは、というのは言わないでおいたが……。
今日のテーマはネコの体についてだったが、そんな中でなんとなく目にとまったものがあった。
動物の心拍数を比べたもので、人間が毎分60回ほどなのに選べて、犬やネコは100回以上にもなるのだとか。
「ネコの心拍数は人の二倍以上……。そうなのか? ましろ」
「ど、どうなんでしょう。気にしたこともありませんでしたね……」
確かに普段生活をしていて心拍数を気にすることはあまりないかもしれない。普段ネコとして生活をしていればなおさらだろう。
ましろは首を傾げたあと自分の胸に手をあててしばらく脈を測っていたが、少ししても同じように首を傾げるだけだった。
まあ、比較するものがなければ分からないのは当たり前か。人の姿のでは勝手が違うなんてこともあるだろう。
別に対して気になったことでもなく、俺もましろもまたすぐにテレビに視線を戻した。
晩御飯で幸せに満たされた胃袋が消化されきるくらいで俺はお風呂をいただき、そのあとに交代でましろがお風呂に入った。
ましろのいないリビング。先程の番組もすでに終わっており、俺は何をするでもなくスマホを見て時間をつぶす。
しばらくすれば、寝間着に着替えて頬を朱色に染めた彼女がお風呂場から出てきた。
寝間着といっても、その正体は俺のワイシャツ。初めてましろの人の姿をみたときに彼女が着ていたものだ。
さすがに女の子素肌の上から着たものを俺が使う勇気はなく、ましろもなぜか気に入っているようなので寝間着としてだけ許可して貸している。
「すみません。お水いただきますね」
「ああ。あ、じゃあ俺も貰っていいか?」
「わかりました。お持ちしますね」
お風呂上がりで妙に色っぽく感じるほほえみ。そのまま水を取りに行く後ろ姿を見つつ……すぐに視線を逸らす。
毎日のこととはいえ、同じ部屋の中でワイシャツ一枚の姿の女の子が無防備に歩いているのはいまだに慣れない。……いや、今後慣れることもないだろう。
俺は心の中でため息をついた後、俺は気を紛らわすために、スマホで『異性 緊張しない』などと思春期の中学生のような検索を走らせる。
しょうもない検索ワードながら、一度調べるとしっかりと読んでしまうのが性というもので。
夢中になってスマホを見ていると、突然視界の横からサラサラと揺れる銀髪が映り込んできた。
「そんな真剣に何を調べているんですか?」
「ま、ましろっ! い、いやこれは……!」
「え、にゃっ?!」
とんでもないタイミングで来てしまったましろに、俺は大げさなリアクションをしてしまう。
彼女は俺が急に動いたことに驚き、覗き込む姿勢をしていたせいかバランスを崩す。
小さな悲鳴と共に彼女の体はなすすべなくこちらに倒れこみ、俺はとっさにその体を抱きとめるように腕を伸ばした。
結果として、勢いこそ軽減されたもののましろは俺の胸の上にもたれて、俺が彼女の体抱きしめるような状況になってしまった。




