38 とある残業の日
「ごめんね佐藤、付き合ってもらって」
人気のなくなったオフィスの中、俺は隣に座る榊原と共にパソコンのディスプレイとにらめっこをしていた。
季節が移り変わり始め、少しずつ日が長くなってきたにも関わらずすっかり窓の外は暗くなっていて、時計を見なくとも夜がふけていることを理解出来る。
「気にするな。困った時はお互い様だ」
いつもよりも腰の低い態度の榊原に、元気づけるように声を返す。
今日は珍しく、俺と榊原で二人揃って残業しているのだが、今やっている仕事は本来俺たちの業務ではない。
別にブラックな理由で押し付けられた訳ではない。
いろいろな事情が重なり、結果として榊原の仕事が膨大な量になってしまい、現在俺がそれを手伝っているというわけだ。
「でも、良かったの? 家でましろちゃん待ってるんじゃ……」
「それこそお互い様だろ」
真剣にパソコンに向かったまま、不安そうに聞いてくる榊原。
榊原こそ、家には愛しの彼女が待っているだろうに、本当にお人好しなやつだ。
ましろのことが心配なのは確かだが、少し前……彼女がまだネコの姿をしていたときに比べれば、大したことはない。
ましてや、あの落ち着いた性格と圧倒的な生活力。外的要因を考えなければ、彼女に対して心配することは何もない。
「それじゃ、ましろちゃんのためにも早く終わらせないとね」
「誰かの彼女さんのためにもな」
そう笑いあってから、お互いに自分の大切なものために気合いを入れ直して仕事を再開するのだった。
「結構遅くなっちゃったな……」
二人がかりでやっていたとは言え、その圧倒的な仕事量にかなりの時間がかかってしまった。
とはいうものの、あの量を榊原一人に任せていたとと思うと、背筋がゾッとする。
ましろが家に来てからこんなにも帰りが遅くなるのは初めてだ。
申し訳ない気持ちと、少しの不安を感じながら、俺は玄関の扉を開けた。
「ただいま〜」
電気のついた部屋の中へそう声をかける。しかし、いつものような返事は返ってこなかった。
不思議に思いながらもリビングへ向かうと、そこにはご飯の用意されたテーブルで、すやすやと寝息を立てるましろの姿があった。
作られたご飯にはラップがかけられており、俺の帰りが遅くなることに気づいて、待っているうちに眠ってしまったのだろう。
そんな彼女を起こすのは少しだけ気が引けたが、このままにしておくわけにもいかず軽く肩を揺すりながら名前を呼ぶ。
すると、寝ぼけたようなとろんとした瞳を見せたあと、俺の存在に気づくとすぐに体を起こした。
「さ、佐藤さんっ。すみません、私……」
「いや、こっちこそ起こしちゃってごめんな」
予想通りというか、ましろは慌てた様子で飛び起きるのでなんとも申し訳ない気持ちになる。
いつもましろは心底幸せそうなかわいい寝顔で寝ているので、余計にそんな気持ちが強くなる。
「晩ごはん、まだ食べてないのか?」
「あ、はい。佐藤さんと食べようと思っていたので」
「そ、そうか……」
テーブルの上には二人分のご飯が用意されており、ましろがご飯をまだ食べていないことにはすぐに気づいた。
ましろは、俺が帰るまでご飯を食べておらず、そのことを当然のことのように伝えてきた。
てっきりご飯やお風呂などは済ませてしまっていると思っていたので、その分余計に申し訳なさが大きくなる。
「今日は珍しく残業があったんだ。待たせてごめんな、ましろ」
「いえ、お仕事なら仕方ありませんから。少し温めなおしてきますね」
そう言ってましろはラップをかけたお皿をキッチンのほうへ持っていく。
その背中を見ながら、俺はただひたすらに罪悪感にかられていた。
ましろ本人は特に気にしていない様子だったが、あらためて自分のしてしまったことがどれだけの迷惑をかけてしまったかを理解した。
確かにましろが言う通り、残業で帰りが遅くなったこと自体は仕方の無いことかもしれない。
しかし、だからといってましろの都合も考えずに大した心配もしていなかったのは、一緒に暮らしていく上で絶対にしてはいけない事だ。
なんやかんやと、ましろとは二ヶ月近くも一緒に過ごしてきた仲だ。
信頼し合えるところも増えた分、普通では当たり前であるはずの気遣いをいつの間にか見落としてしまっていた。
「用意出来ました。どうぞ」
「あ、ああ。ありがとう……いただきます」
「いただきます」
仕事上の時間の都合を言い訳にして、家事の都合を連絡なしに振り回すなんて自分勝手もいいところだ。
何か相手の予定を狂わしてしまう可能性があるのであれば、それ相応の対応を取る事がせめてもの……いや、人として当然の礼儀だろう。
俺は、いつもと変わらない美味しいご飯を一口噛み締めてから、一度箸を置いてもう一度彼女に頭を下げる。
「ましろ、今日は本当にごめん。もう、こんなことは二度としない。悪かった」
「そ、そんなに謝らなくても大丈夫ですからっ。急なお仕事なんて、事前に連絡出来る事でもないですし。も、もう、頭を上げてくださいっ」
ましろが慌てた様子で俺の肩を揺すってくる中、俺は彼女から発せられた単語を聞いて、思わずバッと顔を上げる。
俺が頭を上げたことに安心するましろをよそに、思いついたそれについてぐるぐると頭を回していた。
簡単な話だった。
もしものときのために、彼女に何かしらの形で連絡が取れれば、今回のようなことは未然に防げるのだ。
そして、彼女に何かあったときにもすぐにこちらに連絡が出来る。そんな、すべてを解決出来るもの。
俺は、手に握られた「それ」を見つめて、週末の予定を決めるのだった。




