30 猫舌ネコ様
目が覚めて起き上がると、そこにはいつも通りましろの姿があった。
「おはよう、ましろ」
「はい、おはようございます」
今日も、トーストが焼ける匂い以外に、美味しそうな匂いが漂ってきていた。
そして、ましろはさっそく昨日プレゼントしたエプロンを使ってくれている。
それだけで一気に主婦感が増し、思わず寝起きのぼーっとした思考のまま見とれてしまっていた。
キッチンで料理をしながら、もふもふかつすらっと伸びた尻尾がテンポ良く揺れる。
その様子はとても可愛らしいが、そのたびにワイシャツの裾がめくれ絶対領域が見え隠れする。
そのせいで、せっかくのエプロン姿が直視できない。
ましろは普段、昼間はつい先日買ってきた洋服を着てくれているのだが、朝やお風呂上がりは未だにワイシャツ一枚スタイルになってしまう。
おそらくはパジャマのような感覚で着ているのだろうし、やはりそのほうが過ごしやすいのだろう。
しかし俺からしてみれば、年頃の女の子がワイシャツ一枚で無防備に過ごしている状況は当然落ち着かない。
それにプラスして、エプロンをつけた姿は余計に彼女を扇情的に見せていた。
「エプロン、似合ってるぞ」
俺は、考えないようにすればするほど湧いてくる不埒な心を振り払い、それを誤魔化すように彼女にそう伝える。
「ありがとうございます。……佐藤さんも、寝癖が似合ってますよ」
「うるさい」
ましろは俺の頭を見て微笑みながらからかってくる。
もともと少しだけくせ毛体質なので仕方の無いことだが、今は少しだけその体質を恨みながら洗面台に向かうのだった。
トーストを一口かじり少し咀嚼してココアを飲む。いつもと何も変わらない朝。
向かいに座るましろも、いつものようにココアを念入りに冷ましながら慎重に飲んでいた。
「……? 私の顔に何かついてますか?」
「ああ、いや。ましろって、やっぱり猫舌なんだなと」
「なんですか、やっぱりって」
「いや、だってネコだし」
詳しいことは知らないが、猫舌というくらいなのだから、ネコがあまり熱いものを食べないみたいな意味合いがあるのだろう。
それこそネコである彼女が、熱いものを必死に冷まそうとフーフーしている姿は素直に解釈一致だ。
「ネコだから、というわけでもないと思いますが……佐藤さんは大丈夫なんですね、熱いもの」
「まあ、普通だな。少しズレるが、辛いものとかも割と平気かもな」
「では、今日の晩ごはんは激辛カレーで決まりですね」
「え、いやさすがにそれは……というかましろは大丈夫なのか」
「私は別のものを食べるので、ご心配なく」
ましろに食事を全ておまかせしている手前、食事に関して逆らうことはできない訳だが、さすがに激辛カレーはやばいかもしれない。
というか、ましろがこんなことを言うことの方が珍しくて驚いているのだが。
「ましろ、もしかして怒ってる?」
「……私が猫舌なのを笑う人が目の前にいらっしゃるので」
やはりましろ様は怒っているらしい。
野生のネコのようなレベルで怒っているわけではなさそうだが、頬をふくらませてつーんと目を合わせてくれない。
「悪い、別にからかうつもりは無かったんだ。単純にかわいいなと思っただけで」
「か、かわいいって……やっぱりからかってるじゃないですか」
「いや、本当に純粋にそう思っただけだから」
「も、もういいですからっ」
本当に、ましろをからかうようなつもりは断じてなかったのだが、彼女はへそを曲げてしまう。
猫舌がコンプレックスだったのだろうか。そうだとしたら、たしかに俺の配慮が掛けていたかもしれない。
「佐藤さんは、そういうところがありますよね」
「わ、悪かった。コンプレックスをからかわれるのは嫌だったよな」
「そ、そうではなくて。気軽にあんなことを言うところが……」
「あんなこと?」
「な、なんでもありませんっ」
あまりに怒っているのか、彼女の頬は少しだけ赤くなっているように見えた。
その後ましろには、無理して俺と同じ朝ごはんを食べなくてもいいと伝えたのだが、聞いてもらえなかった。
基本は賢くてこちらの意図を察してくれるましろだが、どこか譲れないプライドを持っている節がある。
俺からのプレゼントはなかなか素直に受け取ってくれないというのに、彼女が俺に対して何かするとなれば何から何までやってしまう。
男としてはやはり、自分で自分のことをしっかりとやり、それに加えて家族や家庭を守っていくというのが理想系だと俺は思っている。
ましろを拾ってからは特にその気持ちは大きくなり、自分の仕事はもちろんのこと彼女のことに関してはどんなことでもしようと思っていた。
だが、蓋を開けてみれば、そんな理想はいつの間にか彼女によって吹き飛ばされていた。
「(ほんとにダメ人間になりそうだな……)」
自分で用意した訳ではないそのトーストとココアを見て、あらためてその事を思う。
正直なところ、ここ最近は完全にましろのペースに乗せられてしまっている。
それ自体がすべて彼女自らの意思で俺を甘やかしに来ているのだから、余計にタチが悪い。
「今日の晩ごはんは覚悟しておいて下さいね」
「出来れば中辛くらいがいいんだが……」
「安心してください。私は本場のカレーをマスターしてますので」
「それ一番ダメなやつ……」
故意ではないとしても、ましろの機嫌を損ねてしまったのは事実なわけで、彼女の言う通り晩ごはんは覚悟しておいてほうがいいかもしれない。
昨日の話によれば、今日のお弁当はかなり甘い味付けらしいので、それとのギャップもあってかなりのダメージを喰らいそうである。
「はい、今日のお弁当です」
「ありがとな。助かる」
朝ごはんを食べて後お弁当箱を貰い、いつも通り彼女の見送りを受ける。
先程まであんなことがあったが、ましろは変わらずにあたたかい言葉をかけてくれた。
ダメ人間になりそうという気持ちは湧いてくるのは、おそらく食事や家事だけではなく、こういった彼女のあたたかさがあるからなのかもしれない。
たとえそれが、ただの恩返しとしてのましろの気持ちだったとしても、俺は彼女の存在に救われている。
最初からそうだった。家に帰ると誰かがいて、一緒にごはんを食べる。
たったそれだけのことで、心のどこかにあった孤独感が満たされていく感じがしたのだ。
「じゃあ、行ってきます」
「はい。お仕事、頑張ってください」
彼女の他でもない俺自身に向けられたあたたかさを噛み締めて、職場へと向かった。
そして、単純なことに、その一日俺はいつもに増して俄然やる気を出して仕事に取り組むことが出来たのだった。
……ちなみに、例のタコさんウインナーとミートボールを詰め合わせたかわいいお弁当は、見た目とは裏腹にしっかりと俺好みのパンチのある味付けになっていた。
そして、覚悟していた晩ごはんのカレーも、辛さはもちろんあるがそれ以上の旨みが口の中を彩り、終始をおいしく食べ進めることが出来た。
俺がばくばくとカレーを平らげていくのを、ましろはどこか勝ち誇ったようなかわいいドヤ顔で見守っていたのだった。




