22 ネコ様のお願い
「一つだけお願いしても大丈夫ですか?」
ましろは、あれだけ遠慮した様子から打って変わって、機嫌の良さそうな顔で聞いてくる。
「ああ、なんでも言ってくれ」
これでも社会人になってからは特に無駄遣いをらすることもなく貯金しているため、お金だけはある程度の額を保有している。
ネコの姿の時から変わらないように、彼女のためなら何も惜しくは無い。さあ、なんでもかかって──
「それでは、キッチンと冷蔵庫を使ってもいいですか?」
「……え?」
「今日は何も言わずに使ってしまったので、正式に佐藤さんの許可を頂けると嬉しいのですが」
彼女の口から直接してほしいことを聞くのは初めてだったが、正直拍子抜けしてしまう。
もっと何か、具体的な物を欲しているかと思っていたのだが、キッチンの使用権とは全くの予想外だった。
「いや、そんなことなら、別にお願いじゃなくても自由にしてくれて大丈夫だが……」
「本当ですか? ありがとうございます」
礼儀正しくぺこりとお礼を述べるましろ。
ましろがネコの姿だったときは、もちろんキッチンには危険が多いため意識的に近づくのを避けるようにしていたが、今となっては別に特に問題はない。
キッチン……。俺が仕事に行っている間、自分のご飯を用意するため……とかだろうか。そんなこと、本当に許可なんて取らなくとも何も言わないのだが。
まあ、ましろの性格らしいと言えばそうかもしれないが……。
「お仕事の時間、そろそろじゃないですか?」
「ん? あっ、本当だ」
ましろが朝ごはんを用意してくれていたことで油断していたが、彼女との会話に夢中になっていてすっかり時間を忘れていた。
俺は残りの朝食を平らげて、きちんとましろにお礼を伝えてから服を着替える。
……ちなみに、さすがに今のましろの目の前で着替える訳にも行かないので、洗面所に服を持ち込んで着替えた。
「私のことは気にしなくても大丈夫ですよ? 慣れてますし」
「いや、さすがに気にします……」
いくらこれまで、ましろがいるいないに関わらず部屋の中で着替えていたとして、女の子がいる空間で堂々と着替えられるほどのメンタルは持ち合わせていない。
というか、慣れてるからとか言わないで欲しい。あらためて考えれば、ましろを拾ってからずっと、毎日のように半裸を見られてたということだ。
恥ずかしさで軽く死にそうである。
「じ、じゃあ、行ってきます」
その恥ずかしさから逃げるように玄関へ向かい、ましろにそう伝える。
今更だが、家から出かける際にこうして誰かに見送られるというのも、かなり久しぶりな感覚だ。
これまでも、ましろにはずっと行ってきますを伝えて仕事に向かっていたが、やはりこうして女の子が目の前に立っていると違った感覚がした。
「はい、行ってらっしゃい。佐藤さん」
初めて、ましろの口からその言葉を掛けてもらい、俺は心の隅で小さくその喜びを噛み締めながら玄関を出た。
会社に着いて仕事を進めながら、俺は今朝のことを思い返していた。
俺よりも早く起きたましろが、自分のと合わせて朝ごはんを作ってくれているという、夢にも見ないようなことがあった。
朝起きたら、朝ごはんが用意されているなんて、実家にいたとき以来ではないだろうか。
それにプラスして、朝ごはんのメニューは俺が毎朝食べているものと全く同じ内容。
もっと言うなら、ココアの濃さやパンの焼き加減まで完全再現されていたというのだから驚きである。
もちろん、彼女が俺のためにしてくれたことはとても嬉しいし、その気持ちは素直に受け取りたい。
しかし、つい昨晩に、お互いへの関わり方を今まで通りにしようと決めたばかりなのに、彼女の方からこんなアプローチを受けるとは思いもよらなかった。
「今日、なにかいい事でもあった?」
「まあな」
隣のデスクに座る榊原が俺の顔を見て聞いてくるので、朝の光景を浮かべながら返事を返す。
「佐藤のことだし、どうせましろちゃんのことでしょ?」
「どうせってなんだよ。まあ合ってるけど」
さすがに毎日ましろの話をし続けていれば、簡単に検討が付くのも当然か。
とはいえ、親友の榊原相手と言えど、ましろが人の姿になったことを簡単に言いふらすのも良くないだろう。
榊原を信用していないという意味ではなく、ましろがどう思っているかという問題だ。
ましろには申し訳ないのだが、この部署の中で彼女はかなり有名になってしまっている。
そしてその原因は、他でもない、ましろの可愛さを周りに自慢しまくっていた俺のせいだ。
「また新しい写真があったら見せてね」
「あ、ああ。分かった」
軽いノリでそう言ってくる榊原に、俺は少しだけぎこちない笑顔で返事する。
これまでは、いつも隙があればましろの写真を撮りまくっていたのだが、これからはそうはいかないだろう。
もちろん人の姿の時に撮るわけにもいかないし、昨晩のようにネコの姿を撮ることも出来るだろうが、今となっては完全に盗撮である。
というか、これまでましろの写真を撮っていたことは当然彼女は知っているわけで、それについてどう思っていたのだろうか……。
「あんまりサボってないで、しっかり仕事しないとダメだよ?」
「さ、サボってないから」
小声で釘を刺してくる榊原。
別にこれは、断じてサボっている訳では無い。
ましろの写真があるカメラロールを眺めることによって仕事への集中力を高めるという大切な業務の一部だ。
俺はその写真たちを眺めながら、人の姿となったましろも写真として収めておきたいな、とそんなことを考えながら仕事を続けるのだった。




