01 ダンボール箱のネコ様
「じゃあ、お先に失礼します」
自分のデスクから立ち上がり、ぺこりと頭を下げオフィスの扉を出る。
エレベーターのボタンを押し、扉の上の数字が増えていくのをぼんやり眺めていると、トントンと肩をノックされる。
力なく振り向けば、自分の頬に何かが刺ささった。
「お疲れ様、佐藤」
「ああ、そっちこそ」
振り向いた先で俺の頬に指を刺してにかっと笑う彼は、俺の同僚の榊原。
この会社に入社した時の同期で、かれこれ三年間ずっとつるんでいる。
頬に刺さったままの指を退かし視線を戻すと、榊原が横から顔を覗き込んでくる。
「佐藤、もしかして疲れてる?」
「そりゃあ、朝から働けば疲れもするだろう」
「いやそうじゃなくて。まだ水曜日なのに、もう死んだ目になってるなって」
「余計なお世話だ」
扉の空いたエレベーターにいち早く乗り、腹いせに「閉」のボタンを連打すると、榊原が慌てた様子で乗り込んでくる。
「ごめんごめん、単純に心配になっただけだよ。なんでもないなら、それでいいんだ」
「ご心配どうも。もしほんとにダメな時は相談するさ」
「うん、その時は例のレモンサワーでも奢ってあげるから」
「あの店、グレフルが好きなんだけどなあ」
エレベーター特有の浮遊感にまかせて、中身のない話で盛り上がる。
普段は温厚でのほほんとしてるやつだが、なんやかんやと気の利くところがあいつのいい所だ。この三年の間に、何度かそれに助けられてきた。
浮遊感が止まりエレベーターの扉が開く。建物の外に出ると、凍りつくような風が服に入り込んできた。
「うぉぁ、さむっ」
思わず声が盛れて、ネックウォーマーで口をふさぐ。
特別寒い地域なわけでもないのだが、冬ともなれば風は冷たくなるし雪も降る。
昨日まではそこまで厳しくなかったのだが、夜中にぐっと冷え込んだらしく、今朝の窓の外は銀世界になっていた。
今日の天気は一日中曇り。太陽が出ないおかげで、今朝に積もっていた雪が溶けることはなく依然としてコンクリートに蓋をしていた。
「それじゃ佐藤、風邪ひかないようにね」
榊原も寒いのは苦手なようで、これ以上冷え込む前にと、いそいそと帰って行った。
榊原は車で通勤しているが、俺は電車通勤。必然的に車より徒歩の距離は長くなるので、この季節は少しだけあいつが羨ましい。
電車は、朝の段階では少しダイアが乱れていたのだが、夕方ともなれば回復しており、いつも通りの時間に乗り込めた。
電車に乗って数十分。あまり人の乗り降りしない最寄り駅で電車を降り改札をくぐる。
会社では降っていなかったが、こっちではちらちらと少しだけ白い結晶が舞い落ちてきていた。
もう一度ネックウォーマーを口元に寄せ、その雪の中へ足を進めた。
自宅への帰り道は、街灯の少ない田舎道。建物こそあるものの、木造の静かな家ばかり。先の交差点に見えるコンビニはいつも浮いて見える。
いつものようにそのコンビニで夕飯を買い、レジ袋を片手に再び歩き始める。
今日購入したのは、売れ残っていたパスタと菓子パンを二つ。それと、缶詰を切らしていたのを思い出し、何個か適当に買っておいた。
信号を渡り、その先の細い道の曲がり角を抜けた時、ふと何か聞こえた気がした。
気のせいと言ってしまえばそれまでだし、どこかの家の騒音の一つである可能性だって充分にある。
それなのに、何故か俺の足は立ち止まってしまった。
遠くを走る車の音が通り過ぎるのを待ち、それから耳を澄ます。
すると、それほど待つことなくその音は再び聞こえてきた。
「(鳴き声……?)」
雪のカーペットに吸われてしまうのか、その音は小さなものだったが、なんとなく動物の鳴き声のように感じた。
勘を頼りに場所を移動し、何度も耳を澄ませる。
「……ミィ」
先程よりもしっかりと鳴き声が聞こえた。そして、その源はおそらくこの路地裏。
俺の前にあるのは、大きめの倉庫と民家の塀の隙間。人ひとり通るのがやっとな隙間に、ゆっくりと体を入れていく。
なぜ、そんな行動をしてしまったのかは分からない。何かの衝動にかられるままに身体が動いていた。
何度か服やズボンを塀に擦ったり引っ掛けながらも、奥に進んでいく。
たどり着いたそこにあったのは、小さなダンボール箱。
中を覗き、俺の視界に入ってきたのは──
「ネコ……」
ダンボール箱の底には小さい毛布のような物が申し訳程度に敷いてあり、その上で小さくて白いネコが丸まっていた。
か細いその体はひどく震えていて、何かにすがるようにもう一度鳴き声をあげる。
少し躊躇しつつ、手袋を外しそのネコに触れる。体は冷えきっており、体の震えが直接手に伝わってきた。
天気予報では、今夜もかなり冷え込むとの予報だった。この様子だと、朝が来るまでにネコは確実に衰弱しきってしまうだろう。
そこまで思考と想像をめぐらせた時には、既に俺の体は動いていた。
「よし……」
俺は手袋をつけ直し、やさしくネコを抱き上げる。
ネックウォーマーとカバンの中の膝掛け用の毛布でネコの体を包み、なるべく体に寄せて温めるように抱える。
ネックウォーマーがなくなったことで、首筋から冷気が入り込んできて思わず身震いするが今はそれどころではない。いち早く家に帰らなければ。
「ミィ……」
「心配するな。すぐに温かい所に連れてってやるからな」
俺は、伝わるはずもない言葉をネコにかけて、雪の積もった道路へ駆け出した。
自宅の扉を開け、中に入る。
自宅、と言っても賃貸のアパートの一部屋だが、幸いにもたしかこのアパートはペット可だったはずだ。
明日の朝にでも大家さんに申請に関して話をしておかないと。
部屋の電気を付け、暖房を惜しげも無く高温度設定で付ける。
普段はあまり使わない電気ストーブも電源を入れ、ソファに置いてあったネコの見た目をしたクッションを下に敷いて、その上にネコをゆっくりと下ろす。ネコonネコである。
「温かいか?」
ひとまずはこれで一安心だろうかと、そう聞きながら手袋を外してネコの頭を撫でると「ミィ」と返事が返ってきた。
まだ目は閉じたままで体も丸めた状態から変わっていないが、心無しか外にいた時よりも鳴き声に元気が出てきたように感じる。
この間に自分のことをやってしまおうと、食事やお風呂など、いつもより急ぎめに済ませる。
いつもなら、その後寝るまではスマホで動画を見て時間を潰すのだが、ネコがゆっくり寝ている横で電子音を鳴らすというのも気が引ける。
仕方がないので、丸くなっているネコの隣でニュースサイトを眺める。
そんな中に若い女性の誘拐事件が流れて来て、思わず目が止まる。
もちろん、俺が拾ったのは紛れもないネコなわけで、誘拐なんて物騒なこととは関係ない。
ただ思ったのは、この子にも飼い主がいたのだろうか、ということだ。
首輪がないことは、飼いネコでも珍しいことではないが、ダンボール箱に入れられて放置されていたところを見ると、捨てられたという説が濃厚だろう。
この凍える季節にあんな風に捨てた元の飼い主に憤りを覚えるが、それよりも考えなければいけないのはこれからのことだ。
勢いに任せてここまでしてしまったが、これが本当にいい事なのかは分からない。
捨てネコを拾うなんて話自体珍しいことではないかもしれないが、俺自身ペットなんて飼ったことはないわけで、上手くやっていける自信なんてどこにもない。
だからといって気軽に預ける先もないし、自分で拾った矢先、人に頼るというのも情けない。
しかし、本当にネコのことを考えるのであればそんな自分の惨めさなんてどうでもいいことだ。
ただ、他の人に預けることが必ずしもいい結果に繋がるとも限らない。
あれやこれやと考えれば考えるほど、その全ての結論がこのネコの確実な幸せに繋がるかどうかに確信が持てず、どんどん否定が重なって終わらない。
あと考えられるといえば、動物を保護してくれるような施設だろうか。
詳しく調べたことなんてないが、しっかりしたところに引き渡せば少なくとも悪いようにはされないはずだ。
……それなのに、どうしてかその気にはなれなかった。
自分で育てる自信が無いくせに、なぜかこのネコを手放すことに強く抵抗を感じた。
「……お前は、どうしたい?」
迷いに迷った挙句、気づけば俺はネコにそう問いかけていた。
やさしく頭を撫でながら、そう聞いた俺の言葉にネコはぴくんと耳を動かした。
「にゃぁ」
そして、閉じた目はそのままに、可愛く鳴き声をあげたあと俺の指先をペロリと舌で舐めてきた。
まるで、俺の問いに答えるように返ってきたその声に思わず笑ってしまう。
「なんて言ってるんだよ」
自分でも分かるほどに口元をにやけさせながら、もう一度ネコの頭を撫でる。
まだしっかりと考えはまとまっていないが、多分俺はもう少しだけこのネコと一緒に居たい、そう思っている。
未来の保証は何もないが、それが俺の意思なのであればそれが最適解のような気もした。
だから……少しだけ。あと少しだけ、俺のわがままに付き合ってもらおう。
「これからよろしくな」
こうして、俺と一匹のネコの共同生活が始まった。
*素敵なイラストは、ネコばか様(Twitter:@nekobaka )に書いて頂きました。ありがとうございます。圧倒的感謝……!
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