獣耳橋
私の母方の祖父は、狐に化かされたことがあるらしい。
狐や狸に化かされる。日本映画『ALWAYS三丁目の夕日』でもそんなシーンがあった。ひと昔まえまでは、よくある話として受け入れられていたようだ。
祖父の場合、どれだけ夜道を歩いても、家にたどり着けなかった。
ホラー映画にありそうな現象だが、大正生まれの日本男子は、恐ろしくもなんともなかったらしい。狐の仕業とかんがえて、手にしていた「寿司詰め」をぽいと道草に放り投げた。すると、こともなく家にたどり着けたという。
そのとき狐を目撃したのかどうか、話の細かいところまでは覚えていない。手にしていたのが「にぎり寿司」なのか「いなり寿司」なのか「ちらし寿司」なのかも定かではない。
わかっているのは、私がいま、令和の時代を生きていること。
寿司詰めなどもってはいないこと。
夜道を歩いていること。
歩きつづけていること。
仕事の鞄とコンビニスイーツしか持っていないのに、家に帰れないでいること。
「……おかしくない?」
都会とはいわないが、そこそこの地域を歩いている。人の気配はないが、街灯もあり、闇に包まれているわけではない。立派な川はあるものの、狐や狸が縄張りを争うような土地でもない。そこまで自然に満たされてはいない。
「……やはり、この橋が原因なのか?」
仕事の行き帰りに、かならず通る橋がある。
幅は五メートルほど、長さは三十メートルほどの、立派な橋だ。
欄干の造形にも匠の技が惜しげもなく披露されており、両端には獣の耳が、左右に片耳ずつ、かたどられている。
東側の欄干上部には猫耳。
西側の欄干上部には狐耳という、統一性のなさも特徴のひとつ。
無駄に立派な芸術性が恥ずかしい、「獣橋」と名付けられた橋を渡る。仕事にゆくとき、猫の両耳のあいだから橋に足を踏み入れ、狐の両耳のあいだを抜けて橋を渡り終える。帰りは当然、狐耳→猫耳の順になるわけだが──。
「……狐耳のあいだを通り、橋を渡れば……」
近隣住民の交通の要ともいえる橋。
建設費用はすべて、とある資産家が負担した。
老朽化した橋は、どうしても改修する必要があった。市の財政は厳しく、資産家による費用負担は歓迎された。賛同がえられた段階で、資産家は告げた。
「我に二心あり」
世のため人のためになにかを為したいという想い、まったく役に立たないなにかを為したいという想い、これらの想いに揺さぶられた結果、「こっちが金を出すんだから自分好みの橋をつくってもいいよね?」という結論に至ったという。
「狐耳のあいだを通り抜ける……あきらかにループしている」
この橋を渡ればいかなるものか……という一文からはじまる特に意味のない偽由来まで用意された頑丈な橋は、獣耳橋という名でマニア層に広まってしまった。調子にのった資産家が物書きに依頼して、「獣橋」がつくられた歴史を創作しているという。100年後、壮大な勘違いをした若者が「獣橋」の歴史を調べ、真実を知って愕然とし、怒りで資料を散乱させる姿を想像すると、生きる気力があふれてくると語り、壮大な偽歴史物語を出版する算段であると。
「ついに呪力を帯びはじめたのか、この橋は?」
歪んだ念波を送られつづけ、怪奇現象をおこすまでになったらしい「獣橋」の、狐の右耳のまえに立ち、ループ脱出策をかんがえた。
「……とりあえず、祖父の例にならおうか」
寿司とコンビニスイーツの違いはひどいが、いまは非常事態。
非常時に平常時の論理を持ち出すべきではない。
コンビニの袋を欄干の端、狐の右耳に引っかけた。
仕事の鞄だけもって橋を渡る。
まさか本当に狐がでるとは想像していない。
狐がコンビニスイーツを狙うなど、だれが想像できるというのか。
「!?」
真ん中まで進んだとき、プラスチック袋のこすれる音が背後から聞こえた。
思考がうまれる余地はなく、恐怖が湧きでる暇もない。
聞こえたと同時に振りかえっていた。
なにかいる?
小さい、女の子だ。
15メートルほど先の薄闇に、10歳くらいの女の子がいた。
コンビニの袋を手にしている。顔はよく見えないが、獣耳がないのはわかる。動きを止めて、こちらを見ているのもわかる。警戒しているのだろう。獣耳がなくてもそれくらいはわかる。
「あっ」
逃げられた。
コンビニスイーツとともに、走ってどこかへ。
追いかけることはできたのかもしれない。いくら運動不足とはいえ、相手は幼い女の子だ。追いつけたとはおもう。転倒の恐れや肉離れの危険性があるとはいえ、なんとかなったと信じている。
追いかける気になれなかったのは、なんとなくだ。
なんとなく、少女の身なりが良くなかった。
そんなふうに見えた。
窃盗行為を許容するつもりはないが、今回の場合、祖父の例にならって、捧げたわけだ。つまりはギフトであり、プレゼントになる。なんの問題もないだろう。あれで正解だ。その証拠に、少女と反対方向に橋を渡れば、欄干に猫耳がみえる。
「結局なんだったのか……まあ、これで家に帰れるなら──」
橋を渡りきるとき、猫の鳴き声がきこえた気がした。




