2-1 あなたは気づかない
生存の危機に瀕すると、脳は高速で過去の経験から生存手段を検索する。知覚時間精度の向上と言うものだ。これは、医学的にも証明されている。事故等の時に、自分の周りだけがスローモーションの世界になるあれだ。
しかしだ、高速検索が実行されたからといって、どうにかなる場合と、どうにもならない場合がある。それがこの世の理。
そして、人は大量に失血すると死ぬ。2割も失血すれば出血性ショックを起こし、3割も失血すれば意識は朦朧とし始め幻覚だって浮かぶ。そして、5割も失えば失血死。
藪から棒に何を言い出すのだって?いやなに、私は今、絶賛大出血中なんだ。それはもうドクドクと、これは助からないなぁ……と自覚できるレベルで。
「ははぁっ!ざまぁっ見ろ!」
刺してくれたのは、離婚した元配偶者。馬鹿かもしれないとは思っていたけれど、本当にここまで度し難い程に馬鹿だったとは。
「これで、自由だぁっ!自由だぁっ!」
いや……さぁ、あんたと私は離婚しているんだから、あんた自由でしょうが?何を言っているわけ?
「死ねぇっ!早く死ねぇっ!死んだらお前の財産は私のものだぁっ!あーっはっはっは!」
あのさぁ……。あんた離婚しているんだから、私が死んでも、私の財産はあなた相続できないけれど?そもそも、私を刺した瞬間にあんた逮捕だけど?
不幸中の幸いは、私には子供が居ない。離婚したとは言え、元親が殺人犯というのは辛いものがある。正直、子供は欲しかったけれど、あいつとの間に子供は出来なかった。心残りが無いというのは、良い事だ。
存命の直系親族は年の離れた兄達とその家族だけ。そう、私は所謂恥かきっ子というものでして、いやぁ、父ちゃんと母ちゃんに生活力・資金力があってよかったよ、本当に。
虫の知らせか何かはしらないけれど、少し前に何となく急に私にもしも何かあった場合、この遺産はどうなるのかと思い立った。思い立ったら吉日とばかりに、遺産を兄達に均等に按分するように公正証書遺言を作成した。これぞ出血大サービスじゃなくて、天の采配と言うべきかな。
まぁ、これを受け取った兄達は「俺達より早く死にやがって!聞いてるんか!こらぁっ!」と怒鳴り散らすだろう。まぁ、うん、甥っ子、姪っ子達の学費の足しでもしてやって下さいな。
嗚呼……。出血量が多くなると、貧血みたいになるのか。段々と周囲の音が消えてきた。世界の色も白と灰色だけになってきた。そろそろ私も終わりかぁ……。
まぁ、これも人生だよね。ふぅ……。
「すまぬ、間に合わずに済まぬ」
嗚呼……。ついに幻覚かぁ。あと少しなんだなぁ……。
「幻覚ではない!いや、それに近いが幻覚ではないぞ?我が空蝉よ。気づいてやれずに済まなかった。奴等がこんな方法で邪魔をするとは想像しておらんかった。我が落ち度だ。ほんに済まなかった」
……何だろうね?この目の前に居る、やたらと時代がかった幼女様は?
「と言うことじゃ、わかったか?」
「分かったような、分からないような……」
「お主という奴は……。馬鹿なのか?馬鹿なのだな?!」
し・失礼な!いや、否定はしないけどさぁ……。
時代がかった幼女曰く、私は彼女の憑代である空蝉で、周囲にその幸せと富を分け与えるのが仕事。もちろん分け与えるだけじゃなくて、自分自身もそこそこの幸せと富が約束された人だったらしい。
彼女が言う、奴等の邪魔が入らなければだが。
なにやら、大昔に彼女を利用しようとして自業自得で死んだ奴が悪霊になり、そして別の悪霊を吸収して悪の妖となり、彼女に復讐しようと日々直接的に、または間接的に挑んでくるそうな。
いつものバターンなら憑代たる空蝉の私に直接ちょっかいをかけるところを、今回は間接的に私の元配偶者を操り、嗾け、私の幸運と富を奪い取ろうとした。
その結果、色々あって、私は現在出血多量で死にかけている訳でして。なんちゅう迷惑な。
私を刺して哄笑しているあいつは、国内では知らぬ者の居ない若手俳優。だけど、元から売れっ子だったわけじゃない。私と付き合っている頃に少し売れ出し、結婚してから急速に売れ出した。
少し前には、ちょい役に近い脇役とは言え、世界的にヒットしたハリウッド映画にも出演したため、国外でも全くの無名という訳じゃない存在にまでなった。
あいつは、本来、私が他の者達に少し分け与える富と幸運を独り占めして、成功の階段を駆け上がっていった。
此処までは奴等の思惑通り。馬鹿が調子に乗るまでは。
あいつが成功しても、私は普段通りだった。子供が未だ居ない私達は、元々共働きだった。あいつはあいつ、私は私だった。
あいつが稼いだ金は基本的にあいつのものだし、私のものではない。俳優業なんて浮き沈みの激しい世界だから、あいつが稼いだ金は貯蓄しておいて、身分相応が一番。普通に目立たず、あいつと人生を歩んでいくでけで満足していた。
哀しいけれど、泡銭を手に入れて我慢出来る人も居れば、我慢できない人も居る。見栄っ張りなら尚更我慢なんて出来やしない。そう、あいつは我慢できるタイプじゃなかった。
あいつが売れ出したあと、見栄っ張りのあいつに合わせるのは、正直、若干しんどかった。
例えば高級店の外食。「うん、肉の味からして全然違う。美味しいよね、やっぱり。それにこのワインも合うよね」なんて言われたって、骨の髄から庶民の私には、違いなんてわからない。
ベテラン俳優顔負けの微笑みを浮かべ「そうだね、本当に別世界だね」と、あいつが喜ぶ様に相槌を打っていた。
あなただって本当は味なんか分かってないでしょうと思いつつも、あいつの上機嫌を壊さないことが私が出来る精一杯の協力と思っていた。
豪勢な外食以外にも外車や、ブランド物に、あいつは嵌っていったけど、元から余り興味がない私は変わらなかった。
そんな変わらぬ私が貧乏臭く映ったのだろう、月100万、時には200万と小遣を渡してくると、ブランド物や、装飾品を買う様に要求してきた。
イメージ商売の俳優業、これもあいつのイメージを維持するための仕事の一環と頑張って買ってはみたものの、馴染めはしなかった。
「良いよなぁ、売れっ子俳優が配偶者だとブランド物をホイホイ買えて」
「良い店とか何度も行っているんでしょ?連れてってよ」
目立たない物でも、目ざとい人間はそれを見つける。何気ない会話から金の匂いを嗅ぎ付け、絡んでくる。
さもしい人間の妬み僻みに集りにはうんざりしていたけれど、これも家族としての協力と割り切って我慢していた。
「本当に申し訳ありません。いま台本に感情移入が出来なくて、イラついていて。だからと言って罵って言い訳じゃないんですが、本当に申し訳ありません」
あいつは、売れ始めてから挫折知らずの登り調子。ちやほやされて、スタッフが傅かれるのは当たり前。上手くいかない時に癇癪を起して罵詈雑言も当たり前。
私も社会人の端くれ、下げたくない頭を若造に下げているスタッフの気持ちは少しは分かる。だからそれをフォローするのは私だと思っていた。
今、思い返せば、何て馬鹿らしい事をしていたのか、なぜ我慢し続けていたのか理解に苦しむけど、それが当然と思っていた。
ある日、その様にして知り合った年配の報道関係者から分厚い封筒を渡された。
「これ、後で見て。どう使うかはそちらに任せる。そちらが良いというまで、私は上に報告しないし、報道しない。けれど、冷静にな」
煽てられた豚が木に登るどころか、空を飛ぶくらいに調子に乗っていた馬鹿は、前と変わらぬ私が貧乏くさく見えて嫌だったのかもしれない。
幸せそうに手を繋ぎ歩く姿、夜の街路でディープキスに、あらまぁ、此方の写真はお尻を鷲掴み。なんともまぁ1年近く深いお付き合いをしているのか……。
あいつは、若手の同業者と不倫をしていた。しかし容姿端麗の男女は絵になるねぇ。私とは大違い。
そう言えば、いつからあいつと手を繋がなくなっていっけ?
同情だったのか、更なる炎上を目論んだのか、それは分からない。有名俳優の不倫ネタなどという極上のネタを先ず私にくれた理由は知らない。
「資料ありがとうございました。離婚の準備をするので、少し待ってもらえるとあり難いです。あぁ、でも、他社さんに抜かれそうだったら、そっちが早く発表して良いです」
「わかりました。ところで大丈夫ですか?」
「大丈夫、大丈夫です」
「本当……に?あの人切れると暴れるので有名だから、危なくなったら逃げて下さいね?場合によっては、うちの編集室に逃げ込んできても良いですから」
「ありがとう。でも……それは流石に情けないから避けたいかなぁ。あははは」
電話の後、哀しさや、怒りよりも、ほっとした気持ちに包まれていた。
独り立ちの用意が準備万端整った頃、珍しく早く帰宅したあいつは、私に爆弾をなげつけた。
「子供が出来た」
「はぁ?子供?」
「うん。子供が出来た」
流石に子供は予想外だった。けれど、その瞬間に私の心は激高して燃え上がる、何てことは無く。
浮気というものは、後先見えなくなるものなんだなぁと、妙に冷めた目であいつを見ていた。
「そっか……」
「誰のとは聞かないんだね」
「まぁ……ね。あなたと私は、ここ1年以上セックスレスだから、何処で性欲を満たしているのかと思っていたし、それに知っていたから」
責め立ててこない私は、あいつにとっては不気味だったろう。私は、只々あいつに書類に署名させること、あいつが冷静さを欠いているだろう今この時こそ、あいつに署名させるチャンスだと、タイミングを計るので忙しかっただけなのだ。
「じゃぁ、この紙にサインと印鑑をお願い」
「はぁ?!何言ってるわけ?」
「これ、証拠書類ね。出るところにでれば、あなたが全負けする書類」
「……これで良いわけ?じゃぁ!早くでてけばっ?!」
「言われなくても、出ていくよ。じゃぁ」
緑色の紙を持って、あの野郎は出て行った。何が「じゃぁ」だっ!ふざけんな!誰がこの贅沢な生活させてやったと思ってるわけ?!
ふん!どうせ着の身着のままだから、泣きついて戻ってくるに決まっている!馬鹿だろあいつは!だから貧乏性はやなんだ!
ま、土下座したら、家に入れてやるけど、離婚は確定させてやろう。だいたい私と結婚できていたのが間違いなんだから。嗚呼!離婚が確定して、この家から追い出される時にどんな顔をするか楽しみだなぁ。
「こんなことを言うのは何ですが、本当に提出されるのですね?」
「ええ、大丈夫です。熟慮の結果ですから」
今頃、あいつは私が泣きついて戻ってくると思っているんだろう。何しろ着のみ着のままで出てきたからね。でもねぇ、違うんだ。あの家に私の物は一切ない。
あいつは、帰ってきても直ぐに自分の部屋に籠ってしまうので、この1年近く、まともな会話をしたことは無い。私のやっていることなど気にもしない。
私の部屋が空っぽなのを、いつ気づくだろうか?バスルームに私の物が一切ない事に、いつ気づくのだろう?金庫の中には自分の通帳だけ、私の通帳が無いことに、いつ気づくだろう?
私が結婚前から乗っている中型2輪が車庫に無いことに、いつ気づくだろう?そもそも家を出た後にバイクの音がしたことに気づいていたのだろうか?
さて資料をくれた彼にもう報道しても大丈夫だと連絡しないと。ああ、不倫の子供が出来たことを追加情報で教えておかないといけないね。それぐらいのボーナスはありでしょう。
ギブアンドテイク、これ物凄く大事。