2.空蝉(仁村1)
幸運の女神に後ろ髪は無く、前髪しかない。
後頭部は刈り上げ?!前髪だけだなんて何ともパンクな女神様だなと常々思っていたが、今はその前髪をガッシリと掴んだ自分を褒めてやりたい。
「おはようございます。本日の経営会議を開始いた……え?」
人にも依るだろうが、余りに現実からかけ離れた予想外の事象に陥ると行動が止まる。
所謂、固まるとか、開いた口が塞がらないとか言う上体になる。良く聞く話だが、実体験することも、それを目の当たりにすることも、その可能性は限りなくゼロに近い。
何しろ、私を見られる者は殆ど居らず、私が姿を自ずから現すことは早々無い。驚き、固まるのも無理はない。こやつにとっては不幸なのかもしれないがな。
目の前に見える光景が信じられなかった。奇妙な静寂の中、会議室の中央に少女が立っていた。より正確に言うなら、少女が空中に浮かんでいた。
「己が前に現れる我の空蝉と富を分かち合え。
分かち合わぬなら、空蝉は富と共に去る。
己が家に、二度と空蝉は現れぬ。
おぬしら。この約定を破りよったな?空蝉への、これ以上の不義理は許せぬ。空蝉の、これ以上の哀しみは看過できぬ」
何を言っているんだ?この少女は?
「何だ?君は?此処を何処だと……」
「発端の貴様が我を知らぬとはな……。まぁ、無知だからといって許す気はないがの。貴様も、貴様の仲間もこの10年の行い覚悟せいよ?」
何なのだ、この少女は?覚悟?何を言っているんだ。あれ?何故、役員連中が皆、強張った顔をしているんだ?
10年の行い?空蝉?まさか!まさか、10年前からのアレ?
何を考えているんだ、俺は、あんなのオカルトだろう。在り得ないだろうが!
「吉川君、この空蝉だっけ?この人への優遇は止めて良いから、というより出世も止めてしまいなさい」
空蝉だか、何だか知らないが、この空蝉に渡す分の富を渡さなければ、会社の利益も増える。それ以前に空蝉だなんだと、オカルトじゃあるまいし、在り得ないだろうに。
で、この人が空蝉ねぇ?はっ!馬鹿馬鹿しい。何でこんな人事畑でもない人間を優遇しないといけないんだ?
「え?!でも空蝉ですよね、そんなことをしたら!」
「貴方ねぇ?この現代に空蝉も何もないでしょう?仮にそうであっても、この空蝉という人間も十分、富を貰ったでしょう?今後は不要です」
「で・ですが!福本部長、申し送り事項に!」
「吉川君。これは業務命令ですよ?ところで広島支店の欠員はどうしましょうか?」
「わ・分かりました!仰せの通りに」
「ああ、吉川君。この事は役員たちにも内緒だ。分かったね?」
「は・はいっ!」
ふん。これで奴に周っていたものが此方の物に出来る。碌に会社に貢献していない奴より、これだけ会社に貢献している私が貰って当然。良い裏金が出来る。約定さまさまだな、笑いが止まらない。
これから10年、20年、私が出世階段を上るための良い裏金が出来て大変嬉しいよ、仁村君。まぁ、君がこのことを知るのは一生ないだろうけどね。
おっと、その前に吉川を何処かに動かさないと。証拠を握っている奴を残すなんてことは、出来ないからな。南関東営業所に、業務研修名目で、2・3年掘り込むかな。あそこは、パワハラの集合体、メンタル理由の離職率が高いからな。
「仁村さん、さっきの会議の事、聞いてないんですけど?」
「は?この前、報告しましたし、メールでも連絡していますよね?」
「聞いてないですし、メールも見てないです」
来たよ、いつもの「聞いてません」攻撃が。まぁ、彼も私は使い難いだろうからね、何しろ年上の部下だ使い難かろう。とは言え、ここまで他人のせいばかりにする人間が、よくもまあ管理職に昇進出来たものだ。
「そうですか……。でどのように?」
「私が言うようにしてください」
はぁ……。また残業が増える。こいつの言う様にやると無駄作業に、他部署との軋轢が増加して、碌な事がないんだが。何しろ承認印はこいつが押さないとどうにもならない。
うだつが上がらない中高年の身方をする馬鹿が居る訳でもなし、我慢だなぁ……、我慢。
本当に、腹が立つ。何故いつも私をのけ者にして、勝手に根回しをしているんだ、こいつは。何で、私の言う通りにしないんだ、こいつは。
こいつも、こいつだけど、こいつの指示に従う技術部も技術部だ。いつも私の指示には文句を言って、従わないのに、こいつの指示には従うんだ?
技術部の役員も、役員だ。何が「仁村ちゃんの言うことなら仕方ない」だ!課長は俺だぞ!仁村なんて、年喰っただけで、昇進もできない屑じゃないか!
何でこんな奴を優遇していたんだろう?でも、今はいい気味だ。本店の役員に呼ばれた時は、血の気が引いたけど、こいつの出世を妨害するだけで、小遣い稼ぎができて、将来の本店の席まで予約してくれるっていうんだ。仁村さまさまだな。
「お先に~、お疲れ~」
やっと、今日も終わった。定年退職まであと5年かぁ……。たった5年、されど5年、長いなぁ……。
安月給の私を支える様に妻と必死になって働いて、気付いてみれば、子供達も大学院を卒業して、就職。奨学金も前倒しでやっと返せた。そう思って自分を見つめてみれば、今の暮らしが辛くて仕方がない。
誰かは必ず見てくれている、誰かに必ず見られている、だから真面目に生きろ。新人の頃の先輩の言葉を胸に刻んで働いてきたけれど、流石に辛いなぁ。
出世できなかった自分が悪いのだから、自業自得とは言え、年下の上司にいびられるのは、なかなかにハードな会社生活だ。
皆には冗談で言っているけど、本当に宝くじ当たらないかなぁ?まぁ、当たらないから宝くじなんだけどさ。当たったら、即日退職届だしてやりたい。ま、世の中そんなに、甘くない。そんな薔薇色の未来なんてものは、私には訪れないだろうけどね。
「仁村さん、この前も言った通り……」
「ああ、井上課長、ちょっと仁村さんと今お話ししたいんですが?」
「あれ?佐川部長、今日はこちらに?え?仁村ですか?今?」
「ええ、今です」
「分かりました。じゃぁ、あちらで」
「ああ、井上課長、貴方は同席されないで結構です」
「え?!でも?」
「私と仁村さんふたりだけでの話になりますので」
何だよ!俺はのけ者かよ!まぁでも……本社の人事部長が直々にお話かぁ。
ふっふっふ、仁村も年貢の納時かぁ?かぁ~っ!どんな顔で席に戻ってくるのか、楽しみだなぁ。
「仁村。お前も苦労してるなぁ。でな、少し話があるんだけど、いいか?」
「おう、久しぶりだなぁ。今日は本社からわざわざ出張してきて、どうした?」
何を泣きそうな顔をしてやがるんだ、佐川。同期最速の出世頭、本社人事部長のお前がそんな引きつった顔で現れるってことは、碌でもないことだって、白状している様なもんだ。
この年で上級職じゃない俺も、そろそろ子会へ社片道出向ってところか……。嫌な役目は、部下にやらせりゃ良いものを、こいつは……。
義理堅いというのか、友人を見捨てられない馬鹿というのか、そんなんじゃ、これから登っていく、本社の出世競争レースから、脱落するぞ?
「あ……、ああ、少し話がある。ちょっといいか?」
私に偉そうな事を言う資格なんてない。私は、あの屑と同類だ。真面目にコツコツ、それだけじゃ出世できないのが世の常とは言え、あんな屑に目を付けられたこいつは不運だった。あの屑が居なければ、今の私の立場に居るのは、こいつだったかもしれない。
決して、あいつ等の為じゃない。自己満足、自己欺瞞、単なるごまかし、自分のため。少しでも救いの手を差し伸べれば、自分だけでも助かるかも、そう思っているだけの単なる自己保身の行動。
「なんだよ、改まって、気持ち悪いやっちゃな」