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メリトアリスト

作者: 香枝ゆき

 「子供は帰んな」

  新入りが店に入って一番に投げかけられたのはこの言葉だった。言葉を発したのは、男が3人、女が1人という雀卓の誰かだ。愛想よく応対しようとしていた店員が凍り付いている。

  煙草の匂いが充満している大衆向けの賭博遊技場では、人がまばらに思い思いの賭博を行っていた。

  「ロン」

  女の発言でその雀卓は阿鼻叫喚図になる。リーチ、一発、ドラ。どうも特定の一人からかなりの点数をぶんどったらしい。この回で終わり、金を巻き上げた女は満足そうにその場を後にした。

  入り口近くに突っ立っている形になった私と、目が合う。

  「あんた、まだいたの?帰れって言ったじゃん」

  耳がぎりぎり隠れるショートカットに、意志の強そうな瞳。コットン生地のシャツとジーンズに、キャンパス地のスニーカー姿は、彼女を労働者階級であると認識させる。しかし、日焼けもせず、すらりとした腕に筋肉があまりついていない。ゆえに彼女は肉体労働ではなく、このような賭博場で生計をたてている賭博士だと想像できた。

  「ここはおまえみたいなやつの来るところじゃないよ」

  彼女は私のつま先から頭のてっぺんまで品定めをするように視線を動かした。

  3万円はくだらない有名ブランドのストラップパンプス。ストッキングは有名メーカー製のはきやすさに比例し、お値段のそこそこするもの。裾に刺繍がほどこされたフェミニンなスカートに、シンプルだが肌触りと仕立てのいいブラウス。ハーフアップにした髪の毛はバラの形に精緻に彫りこまれたバレッタでとめていた。

  動きやすさを重視した彼女とは雲泥の差で、それは他の賭博者とも変わらない。私だけが異質な存在だった。

 この賭博場は、労働者階級向けだ。労働者階級、中産階級、経営者階級、貴族階級と、階級がはっきりと分けれらた格差社会で、身分不相応な場所に赴けばそれだけで騒ぎになる。自分より上の階級に行けばすぐにつまみ出される。けれど下の階級に行けば物珍しがられるだけでつまみ出されることはないと踏んだ。結果は予想以上。存在しているだけで、びりびりとプレッシャーに潰されそうになる。

  「葛飾のやつきっついなー」

  「そのへんにしといてやれよ」

 しかし私が彼らの世界を脅かしたことに変わりはない。

 周りの仲間達が集まってくる。どうやらこの女性は葛飾というらしい。一目置かれているようだ。

  「大体お前、16か17?うまく化けたけど、ここは18歳未満お断り。賭けられねえよ」

 うまく騙せたと思ったが、やはり同性の目をごまかすことは難しいらしい。

  「おまえ、何歳?」

  「13です」

  正直に伝えると、ひょえ、という音が目の前の人物から漏れた。少なくとも実年齢よりは上に見せられたので上々とする。

 「何しに来たよ、上流階級のお嬢様」

  「私はただ、麻雀や花札がしたくて・・・」

 その言葉を発した途端、目の色が変わった。

  「俺と打とう」

  「いいや俺だ」

  狩られるような視線がびしばしと集まってくるにつれて、私は恐怖を感じ始めた。ここは学校のテーブルゲームクラブや、チェスのサロンではないのだ。すると目の前の人物がまとう空気が変わった。

  「へえ、酔狂じゃねえか。あたしとやろう。ただし花札、こいこいだ。それが嫌ならさっさと帰んな」

  葛飾さんは私にそのように提案してきた。実力者なのか、周囲は腹に一物ありそうだが面と向かって不平を言う者はいない。

  「わかりました。ぜひお願いします」

  私たちは、雀卓のあるスペースから畳のスペースへ移動した。低いテーブルとぺたんこになった座布団が置かれている。ここで花札やトランプ賭博を行うらしい。

  「あたしが親だ。親は交互にやろう」

  「わかりました」

  何人かがギャラリーとして周りを取り囲み、私たちの成り行きを見守った。

  「はじめまして、あたしは葛飾。おまえは?」

  私は反射的に本名を告げようとして口を閉じる。変に家へ連絡されるなど、悪用されれば困る。

  「森園すずとです」

  私の偽名に、葛飾さんはにやりと笑った。

  「ふーん。どっかの画家みたいな名前」

 その反応を追いかけてみたいと思ったが、やめた。

  「未成年だし、初めてだろうから金はとらない。でもあたしが勝ったら、おまえのつけてるバレッタもらうぞ」

 さきほど私のいでたちをみて、金になりそうなものを物色したらしい。今つけている髪飾りは確かに今日おろしたばかりの桃色珊瑚製のものだ。私はよく知らないが、赤色珊瑚の次に人気が集中し、希少な物となってしまったと聞く。闇ルートに流せばそれなりの金にはなるだろう。

  「わかりました。葛飾さんが勝てばこのバレッタを差し上げます。ではこちらが勝てば、私の言うことを聞いてください」

  私の発言にまわりは笑った。世間知らずの小娘の戯言ととられたらしい。

  「へえ、上等じゃねえか」

  葛飾さんが手札を切った。



  「猪鹿蝶」

  「赤短、青短、たん」

  「月見で一杯、たね」

  「月札」

  周囲が見守る中で、葛飾が押される様子があらわになっていった。間違いなく少女はルールを熟知し、なおかつゲームを楽しんでいる。

  「……負けた」

  葛飾の敗北宣言が出るまでは、花札のスペースだけが静寂だった。ほどなくして、周囲がざわざわと動き始めた。

  「嘘、だろ」

  「あの葛飾が、負け・・・?」

  「やったぜお嬢ちゃん、お前が勝って大穴だ!」

  周囲に頓着せず、森園すずとはにこやかに笑う。

  「ありがとうございました、葛飾さん」

 どちらかが笑えばどちらかは泣く。面白くなくて、葛飾は鼻で笑った。

  「で、あたしに何しろってお嬢さん。人でも殺しに行けってか?」

  小金を稼ぎたいがために、闇深い仕事に手を染める下層階級の人間は多い。特に賭博場に集まってくる人間は、身元も怪しく人間関係も希薄なため、汚れ仕事にはうってつけだ。

  捨て鉢になったものの、当の少女はきょとんとしている。

  「いえ、違います。葛飾さんの時間を私にください」

  言うが早いか、森園は葛飾の手を引き、賭博場から去った。


  「おい、お前なんのつもりだ!」

  線路下のアンダーグラウンド然とした通りを抜け、百貨店の方面へと引っ張られる。少女は足取りも軽やかに、百貨店前を通り過ぎた。

  「私は葛飾さんとお茶をしたいです」

  「はあ?」

  初対面のやつと、花札を一度行った仲とはいえ茶を飲みに行きたいなんてどうかしている。しかも相手は得体の知れない下級階級の人間だ。もちろん葛飾なんて偽名である。自分がもう少し裏社会や闇の社会に足を突っ込んでいれば、このお嬢さんを利用して金を巻き上げるくらいのことは平気で行うだろう。

  「お前は自分の身分の自覚と危機管理能力がなさすぎだ。お嬢さんはおとなしくそれに見合ったところに行ってろ」

  景色はすでに中産階級向けの商店街に移っている。

  私の問いにはややあって返答があった。

  「でも、葛飾さんが悪い人ではないですよね。賭博場では私のことをかばってくれました」

  「……」

  「あなたは一目置かれているみたいで、先手を打って花札にすることで、私を他の人に干渉させなかった」

 そういえば思い出した。上流階級は幼少期から名門私立学校に放り込まれるという慣習が昔からあったのだ。今ではそれに加えて、身分にふさわしい趣味と勉学、ならびに階級に合った振舞いの英才教育を施されるらしい。人にもよるが、彼女は教育の成果が形になったタイプだろう。彼女が蝶よ花よと育てられた、世間知らずのお嬢様という認識は改めなければいけない。この少女は下層の賭博場に単身入ってきたのだ。純粋培養の無垢ではない。

  「今だって、私に注意を促してくれる。葛飾さんはいい人です」

  振り払うことはできた。しかし、私は手をひかれるままになっていた。

  「お茶することはわかった。けれど、外でピクニックでもする気か?こんなに階級が違うのに」

 いつかの西洋社会みたいに、身分によってあらゆるものは徹底的に分けられた。外食先も例外ではなく、喫茶店一つとっても、労働者が集まる場所とお嬢様が集まる場所は違う。金さえ持っていればいいという世の中でもなくなったのだ。身分が違えば、入ることさえ許されない場所はいくらでもある。死にもの狂いで努力したとしても、拒絶される壁で階層移動は阻まれる。

  「いえ、ちゃんと中で飲みますよ?」

  笑顔の少女に連れられて、葛飾は商店街の裏通りに構えている喫茶店へと足を踏み入れた。


  店内は木目のテーブルが美しく、必要以上の機械が存在しない空間だった。タブレットどころか、呼び出しボタンも存在しない。電波時計と空調がせいぜいの店内には、上から下までさまざまな階級のものが談笑していた。多くは年若のカップルである。

  「探せばあるんです、階級不問のお店。ここは裏通りにあって人目につきにくいので、逢引で使われているみたいですね」

  席をすすめられ、葛飾はソファ席に腰を下ろす。当然のように値段が書かれていないメニューを渡され、むっとしながらも紅茶を注文した。

  「それで、どうしたの、いきなり見ず知らずの人間誘って」

 ティーカップに口をつけながら問うと、少女は曖昧に微笑む。

  「お話が、したくて」

  「なんの?」

  「美術です。ほかにもできたら進路選択を」

  思いもよらなかった単語に、葛飾は言葉を失った。

  葛飾がまだ子供だった頃の話だ。国立大学の人文学部縮小が叫ばれ、私立大学もそれに追随した。理文高低の傾向は高まり、法学、語学、経済学以外はほとんど募集定員がない状態となった。

  美術はその教育改革のなかで、最も悲惨な目に遭った。旧来の美大と芸大を片手で数えるほどお目こぼしされ、そこにわずかな学科を残すのみとなった。他は伝統工芸を学ぶ専門大学、あるいは専門学校、職業訓練校へと姿を変えた。さらに受難は続く。一握りの芸術家、職人。加えて芸能人。これらの職業以外、芸術関係の学卒者は就職がほぼ不可能となった。それ以外の文系も、就職に直結する、社会が必要とする学問以外を選んだ結果、研究者となれなかったり、公務員になれなかったものは正規職員として働くことがコネ以外では難しい。中高年の転職希望者は就職の枠組みから弾かれる。

 すべて自己責任として一蹴され、高すぎる出国税に外へ逃亡することもできない。

  専門職に就こうにも、技術面で敗れることはざらにある。セーフティーネットだったルーティンワークや簡単な業務は機械に仕事を奪われて久しい。頭脳職もAIが進出しつつあり、給料も満足にもらえない人間が多い。こんな余裕がない社会で、グラフィティを除くと美術に触れる人間はほとんどいない。

  「……そんな、金持ちの特権の話されても、ついていけないよ」

  断ち切るように返すと、またにこやかな笑顔が自身をみつめていた。

  「賭博場で、私のことを画家みたいな名前っておっしゃってましたよね?実際、19世紀の女性画家、ベルト・モリゾにヒントを得た偽名です。特に『マンドリンを弾くジュリー』が一番好きです」

  黙っていると、さらに彼女は嬉しそうにしている。

  「葛飾さんも、その名前が仮の名前であるなら、葛飾北斎からですか」

  「違う」

  気づいたときには言葉が口をついて出ていた。

  「あたしの本名、下の名前は栄子。葛飾北斎の娘の、応為の絵が好きでね。応為は号で、名前が栄だったみたいだから、偽名はそこから拝借したの。一番すきなのは『夜桜美人図』で――」

 きらきらとした目に見つめられて、葛飾ははっとした。もう何年も口を開いていない分野の話を向けられ、おしゃべりが過ぎたのだ。

  「すごい!葛飾さんの時代って、本当に自由に学べたんですね!」

  13歳にて歪みを認識している少女の言葉に、ずきりとした。

  「……あー、まあね。大学は美術史専攻。院にも進学したよ。一応学芸員と美術の教員免許もある。ぎりぎりあたしの世代が最後なんじゃないかな、格差はまだゆるくて、どんな分野を選んでもそんなに文句いわれなかったの」

 すでに遠くなった日々。美術や文芸、音楽に哲学。将来どうなるかわからないという理由で、積極的にすすめられることのない進路はあった。それでも、自分で責任が持てるのならそれ以外にうるさいことは言われなかった。

  「――失礼ですが、そちらのお仕事には」

  「あーだめだめ。あたしが学生のときから、美術教師は県で1人の募集がかかればいいほうだった。倍率はウン十倍。学芸員は任期制がほとんどで、全国行脚してもあんまり求人はなかったな。金持ち以外くるんじゃねえっていう空気はあったと思うよ。実際問題売れない画家をするよりは収入はあるけど、食っていくにはしんどいし。でもまさか、貴族階級・経営者階級以外お断りの学問になるとは思わなかったけど。確かもうちょっとで、小学校からのカリキュラムからも消えるんだっけ」

  「はい。なにかをかくのは理科のスケッチくらいになります」

  「ついにボタニカルアートしかなくなるか」

  冷めた紅茶を飲む。彼女はこんな暗い話をするためにお茶に誘ったわけではないだろう。

  「それで、進路の相談?役に立つかはわからないけどのろうか。お茶代分くらいは働くよ」

  紅茶なんて嗜好品、飲んだのは久しぶりだったのだ。

  明るめの調子で言うと、彼女は1冊の本を取り出した。

  紙の本。電子書籍が一般化したなか、どれだけ人気がなかったタイトルでも、定価の10倍程度で取引されていることがざらである。やはり金持ちの子供だと、葛飾は嘆息した。

  「私は、この道に進みたいんです」

 ブックカバーという遺物を外された表紙に、葛飾は冗談抜きで紅茶を吹き出した。

  「も、申し訳ありません、冷めた紅茶に気づかず……風味が落ちますものね?替わりの紅茶を注文します」

  私が味のひどさに驚いて吐き出したとでも思ったか。問題はそこじゃない。突っ込む前に二杯目のお茶を注文されたので、ひとまずは布巾で溢したものを片付ける。

  「いや、違う。紅茶は普通に冷めてもおいしい。思ってもみなかった分野の本出されたから、驚いただけ」

  「そう、ですか?」

  「そうですか、じゃないよ。社会学の文献だよ?」

 まわりには、誰がいるかわからない。だから葛飾は少女のほうに顔を近づける。

  「それ、早くしまいな。階級社会に関する文献、社会学の研究者でさえ所持は国家転覆狙いでしょっぴかれる危険もあるのに」

  小声で脅すと、残念そうに本をしまいこんだ。

  「そんなの、どこで手にいれた」

  電子版化もなく、古書でも販売はない。目をつけられることを恐れ、再版の目処すらたたない社会学の文献は山ほどある。苦難に耐えながら研究を続ける学者にとって、喉から手が出るほど欲しい代物。

  「……実家が商売をしておりまして」

  「なるほど、生活に困ったパンピーから本や音楽ソフトみたいな形あるものを買い叩いて、寝かして売ったりする商売か。在庫保存のところに出入りできるなら持ってこれるな」

  社長令嬢であれば、売り物の場所に出入りしても咎められはしまい。オーナー企業が大半になった世の中、年の差より生まれの差はより露骨になった。

  「はい。倉庫で本を読むうちに、私はこの学問に興味を持ったのです。今の時代、ハイパーメリトクラシーが究極的に具現化したとは言えませんか?」

  懐かしい響きだ。

  「ハイパーメリトクラシー、日本語に訳すと超業績主義。森園すずと、つまり君は、能力を身につけた人間が必要とされ、そうでない人間が切り捨てられ、餓死者も珍しくないこの国が、能力で人を過度にはかる社会となっている、そう言いたい?」

  「はい、そうです」

  「それだったらハイパーメリトクラシーじゃなくメリトクラシーが進んだっていうべきかな。メリトクラシーは学歴や能力を重視して人を採用する。ハイパーメリトクラシーは、コミュニケーション能力や、問題解決能力みたいに、旧来の学歴にあらわれない部分で人をはかる。よって、この国はメリトクラシーに回帰したと言える」

  「でしたら、能力はあるのに教育の機会を与えられない、もしくは独学で同じかそれ以上の能力を持っても階級で判断されるというものは、能力で人をはかるメリトクラシーになっていると、いえますか?」

  葛飾の答えは、否、だ。

  能力主義をうたっておきながら、能力獲得の手段は制限されている。

 いわば格差の再生産。上流階級や、半ば世襲と化した専門職にとっては出来レースなのだ。

  「私はこんなの、おかしいと思う。私は、みんながまんべんなく学んで、将来的に役立つものもそうでないものも身分や貧富に関係なく学んで。そこから好きとか嫌いとか言って、選ぶ社会が健全だと思います」

  「……それ、実現したらあんたの地位は地に落ちるよ」

  「私の地位がなんだというのですか。天は人のうえに人をつくらず、です」

  苦笑するしかない。若さとは恐ろしい。夢を見て、なにかを変えられると本気で思って、しかるべき手順をとれば本当に実現させてしまう。

  「その熱意が続けば末は学者か」

  「それも心が揺れますが、社会科の教員も捨てがたいですね」

 まったく、身分にふさわしくない言動ばかり見せてくれる10代もいたものだ。

  「――あんたはなにを好き好んで茨の道を行きたがるかね。指導方法やら教材に口出しされたり、いろんなとこから突き上げ食らった受難の教科なのに」

  葛飾は教育改革の真っ只中を生きてきた。死屍累々となった現場も目の当たりにし、病んだ研究者や憤りから退職した教育関係者を何人も知っている。

  「……だって、伝えないとなかったことにされるから」

 かちゃりと置かれた新しい紅茶。運んできた店員に、少女は礼を言わなかった。

  「私は、昔の本を自由に読めました。だから、変だなって思います。時代によって書いていることが違うし、あるとき格差を肯定する本が増えたりしています。今の社会になって30年も経ってません。なのに。まわりのお友だちの間では、それが当たり前で、今が正義なんです…!おかしいです。なんで今を肯定するのって。あなたたちは他の人のことを見下すのって。生まれてきたところがついていただけで、違いはないのに……」

  葛飾は自分のところに運ばれてきた紅茶を、少女の前に置いた。

  「それで、社会学、か」

  「………はい」

  「飲みなよ。あったかいものいれたら落ち着く」

  「ありがとう、ございます」

  目元をハンカチで拭うと、少女は素直にカップに口をつけた。

  「……葛飾さん、お願いがあります」

  「なに」

  「受験指導をしていただけませんか?私は、人文系に進みます」

  募集定員がほとんどない今、人文系の学部は難関となっている。卒業後の就職状況が絶望的な今、教育機関は貴族階級向けのサロン的な場所か、研究者や教員養成を行う国際教育機関立学院の二択となり、合格者数も絞っている。あしきりは当たり前。多浪も多い。それでも受験者数が減らないのは、社会学はその特性から階級に関係なく受験が可能だからだ。親族が犯罪者となって詰みかけた若者や、下層階級からの脱出を目論む子供が多く受験する。世界の先進国がこの国を非難し、合同で出資、設立した学校に行き世界を見たいの願う若者も多い。しかし理系や職能に特化する歪んだ教育改革のため、義務教育のみでは口頭試問がまず突破できないのが現状だ。

  「私の家庭教師として、指導をしていただきたいのです。社会学を修了したとお見受けします」

  「……確かに副専攻で修了したよ。でもあたしは最新の社会学畑から離れてる。今の学者に指導を仰ぐべきだ」

  「主専攻が美術で、副専攻が社会学。4年で学位を取得し卒業されていたら、優秀者の証です。申し分ありません」

 いちいち教育制度に詳しいことに軽く腹が立つ。推測された通り、葛飾は学位を4年で2つ取得した。週に25コマ履修し、それが将来どうなったかといえば、主に賭博で食っているという現実にぶち当たるが。

  「以前大学を訪問したら、試験問題を作る人間が指導はできないとお断りされまして」

  「なるほど把握」

 ただでさえ少ない学者なのだ。ともすれば試験問題の漏洩になりかねない。

  「それに、複数の研究者のかたから、葛飾さんと思わしき人を推薦されました」

  「………は?」

  「お名前は、栄子さん。賭博にめっぽう強く、賭け麻雀と花札ではコンピューターを含め負けなし。在野で論文も執筆し、賭博と論作文、そして任期制の博物館職員で生計をたてているはず、という情報をいただいています」

  「………誰がそんなこと言った」

  「ええと、確か………」

  出るわ出るわ、学生時代に関わりのあった奴らの名前。かつての研究仲間ども、個人情報保護法違反で訴えてやろうか。

  「ぜひ、お願い申し上げます」

  「嫌だと言ったら?」

  「葛飾さんが望む本を無料で差し上げるほか、お給料は言い値で結構です」

  持つものが持っている資産を振りかざしている。それも適切に。

  損得勘定をすれば誰でも美味しい案件だとわかる。

  「……あんたには負ける」

  「ありがとうございます!」

  「条件も魅力的だけど、それだけじゃない。金持ちは大体嫌いだけど、あんたは例外だわ」

  「嬉しい、です」

  思いがけず漏れた本心に、相手はかけねなしに喜んだ。

  「それで、あんたの名前は?あたしの本名は栄子であってるけど」

  「そうでした、まだ名乗っていませんでした」

 居ずまいをただし、少女は笑顔を浮かべる。

  「森園すずと、改めて柊美鈴と申します」

  告げられた名前は、鉛玉のような威力があった。

  「……美鈴ちゃん、ベルト・モリゾの『マンドリンを弾くジュリー』が好きって言ってたけど、覚え違いじゃなかったら、あれは個人蔵なんだよね。どこでみたの?」

  画集かウェブのライブラリー。どちらかだろう、どちらかであってくれ。

  「他言しないでくださいね……」

 それだけで、わかった。

  彼女の家にそれがある。そして、それを新しく所有した人間を、葛飾はよく知っている。

  「ごめん、やっぱりあんたの家庭教師、なるのやめるわ」

  代金として紙幣をテーブルに置いて立ち上がる。柊美鈴は驚きを隠せないようだ。

  「そんな、どうして」

  「………あんたの母親、柊絵里子?あたしはそいつと、そいつが関わるなにもかもが大っ嫌いなんだわ」

  吐き捨てるように突き放す。視線には気づかないふりをして、葛飾は店を出た。

  「待って、待ってください!」

  外に出ても、憎い女の子供は追いかけてくる。

  「うるさいな、あんたに用はないよ」

  「私は、私は松井栄子さんに用があります!」

  下の名前だけでなく、かつての本名をフルネームで言われてしまうと、足を止めてしまうしかない。

  「…………なんで、それを知ってる」

  一度は捨てた名前だ。博士論文を剽窃したとして研究者失格の烙印をおされた、学会の恥さらしと言われた人物。

  「……母と同じ美学研究室でしたよね。アルバムで拝見したことがあります。そして、母が唯一各種パーティーに招いていない研究室メンバーです」

  「だからそれがなんだって」

  「私は、松井さんの修士論文、それと天野栄子名義の論文も、母の論文も読んだことがあります。そして私は一つの仮説をたてています!」

  葛飾が名前を変え、発表した論文を彼女は読んでいるという。権力を利用して破棄された紀要をどこから見つけてきたのやら。

  「私の母は、学生時代に葛飾さんの論文を盗んだのでは?そして、母の階級から葛飾さんの訴えは無視されて汚名をきせられ、学会に居場所がなくなり、表で研究職や資格を活かした職に就くことが」

  「ああそうだよ!おまえの母親には恨みしかないよ!だから早くあたしの目の前から消えろ」

  「嫌です!」

  怒鳴り声に震えながらも、少女はその場に踏みとどまった。

  「私は間違いなく、柊絵里子の子供です。それをなくすことはできません。だから、私は母のしたことの責任をとります。葛飾さんが、生きている間に名誉を回復して、社会も変えたい。だから、お願いです」

 ぼろぼろと涙を流す姿に、やっと年相応の片鱗がみえる。

  「私に、力を貸してください………」

  反則だ。涙を流すのは。

  「……ずるいわ。子供が親の責任をとる必要はないよ。それにあたしは、あんたに恨みがあるわけじゃない」

  「でも……」

  「あんたの母親は間違いなく好きになれない。だから、雇用主はあんたにしといて。あたしはあたしで戦うけど、母親とのやりとりは基本的に任せる」

  「では、家庭教師を……」

  顔を上げた女の子に、ハンカチを貸してやる。

  「20年以内に社会をかえてくれるなら、引き受けてもいいよ。スパルタだけど、覚悟はある?」

  「もちろんです」

  「おっけー。じゃあ、これからよろしく」

  出された手を握ると、高い温度を感じた。

 いつからか諦めた自分を叩き直してくれるなら、昔を思い出させてくれるなら。家庭教師も悪くないだろう。

 この子に賭けてみることも。

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