僕が恋した「完璧」な男の子
自分は数多いる翔の恋人のうちの、一人だ。
「……ねえ、いつまでスマホ見てんの」
「あ?」
翔は一言で言うとチャラい。もっと正確に言うと「ヤリチン」だ。二股三股なんて日常茶飯事、五股六股、それ以上の時だってあった。本当、どんだけの股とヤりまくれば気が済むんだって呆れるくらい、物凄い。
放課後、ファミレスに入ってからずっとスマホを手放そうとしない翔に痺れを切らして尋ねると、だらしなく背凭れに身を預けて足を組んでいた翔は、鼻を鳴らした。
「別に俺が何しようが勝手だろ」
それから、此方にぐっと顔を近付ける。
「お前、俺のこと好きなんだろうが」
こういう発言を真顔でするような男なのだ、翔は。でも翔はモテまくる。付き合ったってどうせ浮気されることも、すぐに捨てられることも、振り回されて疲れるだけだとも分かっているだろうにそれでも寄ってくる女子が一向に減らないのは、それは翔の顔面が信じられないほど綺麗だからだ。「イケメン」じゃなくて「綺麗」。色素の薄い切れ長の目とか高い鼻筋とか透き通った茶髪とか、翔はそれこそ童話の王子様みたいな綺麗さで、一見しただけでは女子を千切っては捨てる超どクズ男だなんてとても見抜けない。そこに、文武両道で実家が金持ちというオマケまでついている。漫画でだってこんなキャラ、企画段階でボツにされるだろうってくらいテンプレな完璧人間。
「――好きだけど、さ」
此方がそう言うと、翔は馬鹿にしたようにふんと笑った。そしてまたスマホに目を落とす。
本当にクズだ。どクズ。超どクズ。でも翔はこれからも女子にモテ続けるだろう。翔が禿げない限り、太らない限り、脂ギッシュにならない限り(そうなったって顔の完成度が全てをカバーしてしまうかもしれないけど)。翔は女子を惹きつける、そういう力がある。
……まあ僕は、男なんだけど。
初めて翔を目にした瞬間のことは今でも覚えている。高校の入学式、新入生代表として壇上に上がった翔を見て、それまで緊張感に縛られていた体育館がざわめきに揺れた。窓から射し込む春の光を一身に浴びた翔は、この世のものと思えないほど綺麗だったのだ。でも、そんな風にうろたえる下々の人間のことなど全く意に介さなかった翔は堂々と自信に満ち溢れていて、ああこの人は僕と正反対の世界に生きているんだな、とそう思った。それが第一の感想。翔の恋人になった今も、その印象は変わらない。
僕は陰キャラだ。自分で言うのもあれだけど、でもそうとしか言いようがない。学力は中の下、運動神経はどうにか他人の足を引っ張らずに済む程度だけど、とにかく人と上手くコミュニケーションが取れない。取れないから人を避けるために前髪を伸ばす、分厚い眼鏡をかける。それがますます陰キャラを加速させ、コミュ障にも拍車をかける。悪循環だ。
ファミレスを出て駅までの道を辿りながら、翔は僕の一歩先を歩いていた。僕より少し高い位置にある脳天の奥から、沈みかけた太陽が顔を覗かせている。僕は目を細めた、夕日が眩しいからじゃなくて翔の後ろ姿を焼きつけるために。
「なんだよ」
ふっと翔の上腕を掴むと、彼は振り返って目をすがめた。僕は翔の隣に並んでからその腕を放す。
「なんでもない」
「んだよ、キメぇな」
再び歩き出した翔に遅れないように、僕は若干早足になって彼の左隣を守り続けた。そうして翔を盗み見る、今度は横顔を焼きつけるために。アスファルトに落ちた僕らの影は、重ならない。
「――翔」
「お前さっきからうっせえよ」
「好きだ」
翔は少しも動揺しない。だるそうに首の裏を掻いてから、平然と言い放つ。
「当たり前だろ」
僕なら絶対恋人に「キモい」なんて言わない。僕なら絶対、恋人に告白されたらドギマギして照れてしまうだろう。でも僕は翔が好きだ。僕と全然似てない翔が好きだ。ずっと見ていたい、と思うくらいに。
翔が僕の告白を受け入れてくれた理由を、付き合い始めてから三ヶ月経った未だに訊けないでいる。まあ翔の性質を考慮すれば、ある程度の想像はできるんだけど。
僕が告白したのは本当にダメ元だった、というかダメになる未来しか予想していなかった。だって僕は男で、それ以上に僕みたいな人種、きっと翔にとっては一番嫌いな部類に入るだろうと思っていたからだ。僕は自分と何もかも違う翔を好きになったけど、翔が自分と何もかも違う僕のことを好きになるとは思えなかった。だからもし僕が失える「何か」を持っていたとしたら絶対告白なんて馬鹿な真似しなかった、でも幸か不幸か、僕はそんなもの何一つだって持っていなかったのだ。
「勝手にすれば」
高校生活初めての夏休みが明けてすぐ、男子トイレでたまたま翔と二人きりになった時勢いで「好きだ」と伝えたら、そう返答された。それからは翔に呼び出された時呼び出された場所に駆けつける、そんなデートをたぶん七回くらい繰り返してきている(僕から呼び出すことはない、だって翔は他の恋人と遊ぶのに忙しいから)。
「お前なんか面白いこと言えよ」
日曜日、翔の家に呼び出されてお互いだらだら過ごしていたら、翔が突然そう言った。青いシーツにくるまれたベッドの上で片肘をついている翔の顔に、生気はない。心底退屈なんだろう、恋人と二人きりだからって僕みたいにやたらそわそわしたりはしないんだ。
「なにその無茶振り……」
「口答えすんな。いいからやれよ」
翔が、ベッドの下で体育座りしていた僕の額を人差し指で飛ばした。別に痛くなんかないのになんとなくそこを押さえながら、僕は翔を見上げる。
「できないってば」
「じゃあ脱げ」
楽しくも面白くもなさそうに吐き捨てるから、一瞬何を言われてるのか分からなくて頭が働かなかった。発言の意味を理解すると、ますます分からなくなる。翔とはキスやその先は勿論、手を繋いだことだってない。
「……なんで?」
鼻先にある毛布から翔の匂いがする。声は震えていなかったろうか、背中がじわりと熱くなった気がした。体を起こした翔が胡座をかいて僕を見下ろす。部屋の中では、空調のごうごうという音だけが鳴っていた。
「立てよ」
台詞とともに顎をくいっと上向けた翔の、その仕草があまりにも自然というか絵になってたから、僕は意思とは無関係に立ち上がってしまった。翔はそこで初めて口角を釣り上げて、僕のワイシャツの裾を引っ張る。
「ほら。脱げって」
翔の頭の後ろにある窓に、児童公園が映っていた。快晴の昼下がり、公園では小さな子どもたちがばたばた走り回っていて、今から僕――僕らがしようとしていることが、ひどくいけないことのような気がした。「気がした」じゃなくて確かにいけないことなんだよな、と思ったら、第一ボタンを外そうとする指先がもつれる。視界がぼやけて、暑くて、ちょっと泣きそうで、それでもやっと一つ目のボタンを外せたことで思わず零れ出た溜息は途中で喉奥に詰まった。翔が僕の襟元を強引に、自分の方へ引き寄せたからだ。
翔の唇と僕の唇、くっつき合うすれすれまで顔が接近する。翔の呼吸の感覚が、僕の呼吸みたいに感じるほどリアルに、立体的に、そこにあった。
翔が僕を見ている。僕に触っている。僕の目の前に、いる。
「なに本気にしてんの?」
首元から侵入してきた暖房の風が、ぶわりと僕の腹を撫でる。翔は突き飛ばすように僕を解放して、だから僕はそのまま思い切り尻餅をついてしまった。衝撃でズレた眼鏡を直す頃には、翔はもう僕に背を向けて横になっていた。
「翔?」
返事はない。たぶん、というか絶対狸寝入りだけど、僕は翔を起こそうとはしなかった。それはこの隙に翔の部屋を引っ掻き回してやろうって嫌らしい魂胆があるわけじゃなくて、ただじっと、翔の背中を見つめるためだ。ベッドに凭れかかって、マットレスに顔をうずめる。
本気にするに決まってるじゃん、と思った。だって僕は、翔とそういうことがしたい。僕の言葉と体じゃ翔を動かせないから、翔の言葉と体で僕を動かして先導してくれなきゃ困る。いつだって僕の先を行く翔に、僕は恋している。
「――触ってよ、翔」
翔に触れようと手を伸ばしかけて、ハッとしてやめた。
こんな風に、普段コミュ障のくせに翔相手には極端なほど大胆になってしまう自分が、少し空恐ろしい。欲望が先行して、手に入れたいという感情が言葉や行動になってぼたぼた溢れてくるのを抑えられないんだから。でも結局僕には、翔を構成する要素の、どこかの一欠片すら掴めない、爪の先にかすりもしない。だから僕は翔の真横じゃなくて後ろで、翔を見つめている。翔が僕に飽きるまで。
「なんか、変な噂があるんだけど」
昼休み、南校舎の屋上(本当は入っちゃいけないんだけど、翔の辞書にルールを守るという文字はない)で昼食を摂っている時、僕は切り出した。錆だらけのフェンスに凭れてジャムパンを貪っていた翔が、寒風に髪を流されながら僕に視線を投げた。
「翔に、本命ができたって」
僕は翔から目を背けたまま、母の手作り唐揚げをぐさぐさと箸で刺す。
翔に本命ができた。それは確かに変な噂なのだ。だって、あの翔だ。タラシの翔だ。学校公認のヤリチン野郎の翔だ。翔に本命なんかできない、誰しも、僕だってそう思っていた。
「気になんの?」
問いかけてくる翔の声音は少し楽しそうだ。僕は箸を止めて、ぐちゃぐちゃになった唐揚げを口に放り込んで頷いた。腹の底がぐるぐるして唾液が大量に溢れ出してくる。時折、強い風が頰を切っていく。それはとても冷たくて、もうじき翔もこうして屋上に来たがらなくなるかもしれない。僕らが学校で落ち合う場所は大体ここだから、もしそうなったら、僕とはもうお昼を食べてくれなくなるんだろうか。
翔はしばらく無言だった。たぶん、どんな言い方をしたら僕が一番ショックを受けるか、考えていたんだろう。
「いるぞ、本命」
翔が、僕の玉子焼きを横から手掴みで奪っていった。その行方を追いかけるように視線で辿った僕は、黄色い物体が翔の小さな口の中へ吸い込まれていくのを見る。
「それって蛯原絢季?」
「なんだ、よく知ってんな」
流石の僕だって知ってるに決まっている。隣のクラスだし、可愛いって有名だし。何より、翔を狙ってるって噂があったし。
「なんであの子なの?」
「めんどくさくねえから」
ジャムパンの袋を縛りながら翔は断言する。
蛯原絢季は他の女子と違う。会ってほしいとか連絡がほしいとか、そういう催促を決してしない。他の女子を出し抜いてやろうっていう闘争心をあからさまに見せつけない。翔の言うことを全部従順に受け入れる……のだという。
「――そんなの」
ただの都合のいい女じゃん。
ほとんど手をつけていない弁当のふたを閉じながら、僕は呟いた。翔の顔は直視できない。それは今自分が抱いている感情は「嫉妬」なんじゃないかという疑いがあるからで、もしそうなのだとしたら翔の言う「めんどくさい」にもろ当てはまるからだ。
「計算ずくでやってんだよ」
かさっ、と僕の頰に何かが当たって膝に落ちた。それを――がちがちに縛られたパン袋を摘まみ上げ、前髪の間から翔を覗く。
「都合のいい女を計算ずくで演じてんの。そういう馬鹿じゃねえところ、気に入ってる」
「……へえ」
気に入ってる、なんてそんな言葉、翔には似合わないのに。
パン袋を弄んでいたら、唇の隙間に何か細いものをぐっと挿し込まれた。翔がパックのカフェオレを僕に差し出している。押し込まれたのはストローだった。
「ムカついてんの?」
にやにや、笑いながら翔は僕を煽る。僕は目をそらして、一口だけカフェオレを吸い上げた。普段はこんなに笑わないし僕にも構わないのに、今日の翔は機嫌がいいらしい。
「僕だって従順じゃん」
ムカついてる。それは確かなんだけど、でもその理由は「蛯原絢季に嫉妬してるから」ではない、気がしてきた。感情の根源が迷子だからこそ、余計に苛立たしくてムカついてしまう。
チャイムが、冬の空に溶けるようにしてぼんやりと響いてきた。翔は軽やかに立ち上がって、ストローを咥えながら鉄扉に向かっていく。僕は弁当箱を巾着に押し込んで、ワイシャツの袖口で下唇を拭った。
「お前はさあ」
立ち止まり振り返った翔の髪が微風に舞い上がる、その様は一瞬太陽を反射して、美しかった。アイドルよりも落ち着いて、俳優よりもあどけない。翔にしか出せないその空気感を、僕は深く吸い込んで体内に取り入れる。
「素直すぎんだよ」
開いた距離をお互いに詰めないままで僕たちは対峙した。翔は相変わらず口元を嫌らしく緩めたままだ。
「どういう意味?」
「だから、好きだとか簡単に言いすぎだっつってんの」
翔がストローを齧る。僕はそれを、凝視している。
「惚れた方の負けなんだよ、こういうのは」
自分の感情全てを見透かされた気がして、僕の顔面は急速に熱を持った。このままじゃ完全に負ける、と思って、一か八かの反撃に出る。
「あのさっ。……キモいと、思わないの」
「は、」
「ストロー」
翔は怪訝な顔をしてカフェオレのパックを眺めた。
「僕が舐めたやつじゃん、それ」
翔が目を丸くした。あ、レアだ、と思った時にはもうそれは跡形もなくて、いつもの余裕たっぷりどっしりの表情に戻っている。
「俺にも選ぶ権利くらいあんだろうが」
翔の手を離れたパックが、宙で弧を描いて僕の胸に激突した。真ん中がひしゃげたパックは、無惨にも僕の足元に落ちる。
「キモいなんて思うやつと付き合うかっての」
じゃ、放課後な。そう言い残して翔が鉄扉の奥に消えてから、僕はパックを拾い上げた。噛み潰されたストローがわずかにてらてらと光っている。翔の唾液だ。それに口づけてしまう勇気はないけど、僕はやっぱり、翔が好きだと思った。恋人関係になった人は翔が初めてで、だから自分のやり方が間違ってるのかどうかも判断がつかないけど、僕はどうしても「好きだ」と伝えたい。そう思ったタイミングで思ったそのままを、何度だって。そうすることしか、僕が翔に返せるものはないんだから。
「――っ、ごめん」
「いいって、わたしがスマホ見てたのが悪いし」
放課後、生徒玄関に向かう途中、廊下の曲がり角で女子にぶつかった。その女子が床にばらまいたプリントを一緒になってかき集めながら、漫画みたいだなあ、と考えていたけど、女子の顔を確認してますます漫画みたいだと思った。蛯原絢季だった。
蛯原絢季はふわふわしたボブヘアを揺らして、なんかよく分からない甘い香りを振り撒いていた。プリントを集める指が細くて白い。顔のパーツも一々小さくて、ライバルだと分かっていつつも「可愛いなあ」と感慨に浸ってしまった。負けた気分だ。そもそも最初っから勝てるところなんてないんだけど。
「ごめんありがと」
僕のような明らかな底辺男子に対しても邪険にするわけでもなく、でもわざわざ愛想を振りまくでもなく、いたって普通の対応だった。これが作為的なものでないのだとしたら、蛯原絢季は凄い。
拾い損ねたプリントがないかと辺りを見回したら、しゃがみ込んだ僕のすぐ脇にスマホが落ちているのに気付いた。画面が点いている。メールアプリが起動されていた。
あ、と思った次の瞬間に、蛯原絢季はバッとそのスマホを取り上げた。スマホは蛯原絢季のものだった。走り去っていく彼女の背中を、僕は淡く見つめる。
――会いたい。
画面にはそんな文字が綴られていた。受信画面ではなく送信画面の、下書きの文字。送信しようとする相手の名前まで、僕はしっかりと見てしまった。スラックスから自分のスマホを出して、メールアプリを起動する。会いたい。全く同じ文字が、僕の下書きの中にも、ある。
翔はやっぱり、なんにも分かってない。蛯原絢季にだって利口になりきれない時があるんだ。それを必死に抑えて抑えて、そういう努力をしていること、翔は一生気付かないだろう。
でも、それでいい。僕はそんな翔に惹かれているから。たぶん、蛯原絢季も。翔の本当の価値はそういうところにあるんだ、きっと。
――惚れた方の負けなんだよ、こういうのは。
心底その通りだと思うよ、翔。
「蛯原絢季って可愛いね」
翔の部屋。ベッドに寝転がっている翔にそう言ったら、翔は音楽雑誌から顔を上げた。
「惚れたか?」
狼狽も動揺もせずに、むしろ楽しそうに翔は僕を探る。
僕はローテーブルの上のポテチをつまみ、バリバリとわざとらしい音を立てて食べた。翔の発言なんかで簡単に感情を揺り動かされたりしないんだぞ、というアピールだ。
「かなり好きかも」
「奪ってみろよ」
開いた雑誌を僕の頭に乗せた翔は、僕が指先に挟んでいたポテチを盗み取っていった。その後で今度はテーブルのチョコボールを獲物にした翔の手を、僕は掴む。
「ほんとにするよ」
「できるもんならやってみろって」
僕に捉われていない方の手で、翔は僕の額をでこぴんで飛ばした。そのまま平然と僕を振り放そうとするから、僕は思い切り引き寄せて翔の、塩と油で汚れた指先を口に含んだ。このしょっぱさはポテチのせいだけじゃなくて、きっと翔の汗も混じっている。それを意識したら、歯を立てて翔の中から溢れるもっと違う味を知りたい、という欲が出た。でも、僕なんかが完璧な翔を傷つけちゃいけない、と思って寸手のところで踏みとどまる。
唇の間から指を引き抜いて、翔の様子を窺った。ぼさぼさの前髪が視界のほとんどを塞いでいるけど、翔が笑っていないことだけはしっかりと見えた。怒ってもいない、無表情だ。
「――ねえ翔」
ベッドの下から翔を見上げて、問う。
「本命って、嘘だよね?」
翔の右手をぎゅっと握る。翔はなんの感情もこもっていない双眸で僕を見下ろしている。
「本命なんか作んないでよ。翔にはそんなの似合わないよ。本命が欲しいなら僕がいくらでもそれらしくするから、だから」
僕がさっき蛯原絢季について触れても、翔は全然焦った様子もなかった。だから蛯原絢季が本命だっていうのは、嘘だろう。でももしいつか、翔が誰かを心から好きだと思う瞬間が来てしまったら。
嫌だ。そんなの、翔じゃない。完璧な翔が「負け」になる瞬間なんて、想像したくもない。
「お前の言う本命らしいってなんだよ」
翔は普段より低く無機質な声音でそう言って、僕の腕を引っ張って体ごとベッドに引きずり上げた。両手首を固定して、僕に馬乗りになる。夕日が翔の髪の毛に落ちて、柔らかな茶色を温かく照らしていた。その光景は瞳の冷たさとはあまりにもミスマッチで、でもそんな対照を、僕は凄く、翔だと思った。
「触られてえの?」
翔が、僕の内腿を撫でた。制服のスラックスに守られているはずなのに直接触れられたみたいに生々しくて、ぴく、と思わず体が反応してしまう。翔はそれを見逃さずに、勝ち誇ったように笑んだ。
「――違う」
いつもの僕だったら翔の挑戦的な笑みに思考の全部を溶かされて、腰砕けになっていただろう。でも今の僕には、翔に触れられることよりもっと強く、望んでいることがある。
「僕が触る」
は、と珍しくびっくりしたような声を漏らした翔を、今度は僕が押し倒した。おい、と僕を引き剥がそうとする翔の手を押さえつけてから、灰色のパーカーの裾を捲り上げる。ジャージのズボンからはみ出していた下着がちょっと顔を出した。
「んっ」
下腹に手を置いた瞬間、翔の口からとろけた、女子みたいな喘ぎ声が零れ落ちた。これには僕がびっくりする番だったけど、ここでやめられない、と思い至って翔の顔を見る。口元を手の甲で押さえた翔が、僕を睨んでいた。
「可愛い声だね、翔」
「うっせえっ」
腰から起き上がった翔が僕の肩を掴んで押し込んだ。僕は翔の太腿の上に尻を落としてしまう。
「お前の手が冷たすぎるだけだっつの」
別に僕の愛撫に感じたわけじゃないんだ、とわざわざ言い訳する翔が、「百戦錬磨のヤリチン」感ゼロで可愛かった。たぶん翔は攻めるばっかりで、攻められ慣れてないんだろう。でも翔の頰が上気していることについては、どんな言い訳をするんだろうか。暑い?
「ったく、急にサカってんじゃねえよ」
ぶつぶつ文句をたれながら翔がベッドを下りてチョコボールを口に放り込む、その指先はさっき僕が舐めたものだ。あひる座りをして、僕は翔の後頭部を見つめた。いつもの後ろ姿なんだけど、いつもより近い位置にある。ふっと目を向けた先の翔の脳天は、根元のところが微かに黒ずんでいた。染料が落ちたんだろう、所謂プリンというやつだ。別にこんな程度で興醒めなんかしないけど、「完璧」な翔がちょっと損なわれた気がしてしまう。
あ、見たくなかったかも、と感じつつ、でもやっぱり一番見たくないのは嫉妬する翔だよなあと思った。例えば翔が僕だけを特別に、つまり本命として扱ってくれるとして、「お前は俺のものだ」とか「俺だけを見ろ」とかそんなことを囁かれたら――想像して、僕は心の中でぶんぶん首を振る。キモい。キモすぎてそんなの翔じゃない。「完璧」が一気に「俗物」に堕ちている。翔にはずっと、お前のことなんかいつだって捨てられるんだっていう、余裕綽々の翔でいてほしい。
「翔さ、僕に性病うつさないでよね」
僕が言うと、翔はベッドに片膝をついて僕の両頰を、片手でわしっと挟み込んだ。唇が縦に変形した今の僕は、たぶん世界一ブサイクだろうと思う。
「生意気な口叩くやつとはヤッてやんねー」
つまり翔には僕とそういうことをする気が少しでもあったんだな、と思うとにやにやしたくなってしまう。でも翔のせいで口元を上手く動かせないから、ちょっと苦しい。
……ああ、そっか。
翔が僕のそばにいてくれるのも、触ってくれようとするのも、それは全部嫉妬という感情を持たないからだ。誰のことも特別じゃないから、誰のことも平等に扱ってくれる。もし翔が「特別」という感情を持ってしまったら僕は捨てられる。万が一翔の「特別」が僕に向けられたとしても、それはもう僕が好きな「完璧」な翔じゃない。汚い、僕と同じ、ただの人間。
だったら、僕は「数多いる恋人のうちの一人」でいい。今のままの翔が僕をそばに置いてくれる限り、僕は今のままの地位で、僕で、翔のそばにいる。僕の惚れた、「どクズ」で「完璧」な翔のそばに。
しばらく僕の目をじっと見ていた翔が、不意に僕の前髪を持ち上げて額を露わにした。根元が悲鳴をあげるくらいぐいーっと引っ張るもんだから、僕は眉間に皺を寄せてしまう。
澄んだ瞳の翔はニッと笑っていて、ああこれから意地悪言われるんだなって僕には分かった。
「お前、将来ハゲそう」
……うん。僕が翔から欲しい甘い台詞って、きっとこういうのだ。その「将来」を、翔は見守ってはくれないだろうけど。
「翔はなんで僕と付き合ってくれたの?」
僕の首根っこに巻きついてるネクタイをちまちま折って遊んでいる翔に尋ねると、翔は即答した。
「初めて男に告白されたから」
ずっと訊いてみたかったことだけど、答えは僕の「想像」とそれほど変わりないものだった。面白そうだから。翔は、そういう好奇心だけで僕を受け入れてくれたんだろう、っていう。
「――あと、」
ネクタイを折り畳む翔の指の周りを、パーカーの紐がぐるぐる揺れている。頭をかがめている翔の鎖骨は僕に丸見えで、そこには玉の汗が一粒、浮いていた。そういえば、暖房が効きすぎてるような。
「俺と真逆の世界に生きてそうなお前がどんなこと考えてんのか、興味あったから」
ようやくネクタイをいじるのに飽きたらしい翔が、くるりと僕に背を向けてテーブルのポテチに手を伸ばした。僕は背後から翔を覗き込むようにして体を傾けて、翔の顎を掴む。それをぐいっと自分に引き寄せて翔に口づけた。初めてのキスは、ポテチののりしおとチョコボールのキャラメルが混じった、変な味がした。
確かめたかった。嬉しかった。僕と正反対の翔が、唯一持つ僕との接点。つまり翔も、僕が今のままの僕でいる限り、僕を知り尽くすまでは、飽きないでいてくれる。
「好き」
伝える。翔は何も言わず、喜びも怒りも戸惑いも何も見せず、静かに呟く。
「急にサカんなって、言ってんだろ」
僕を見つめる翔が、勢いよく僕の後頭部に腕を回して唇を奪った。ただ重ねるんじゃなく舌でねぶる感じで、僕の上唇を撫でる。
「――のり」
離れた翔の舌先には、青のりが付いていた。真っ赤な舌とのりの濃緑とのコントラストになぜか急に恥ずかしくなって、僕は目をそらした。
「え、蛯原絢季とも、ベロチューしたの」
「したけど?」
ためらいも後ろめたさも何もない翔の、そんなの常識だろとでも言いたげな声色。
「でもお前、俺のこと好きだろ」
自信たっぷりな翔の、当然だよなとでも言いたげな声色。でも僕は、ムカついたりすねたりしない。僕が好きな翔って、こういうのだから。
「好きだよ」
だからさ、名前で呼んで。そんなおねだりをしたら、翔は呆れたように、でもにやにやしながら僕の耳たぶに唇を寄せた。
「文宏。……だっけ」
最後のいらないし、と思ったけど、口には出さない。せっかく絶好調な翔の機嫌をぶっ壊しちゃうのは、もったいないんだ。今日のうちに色々おねだりしとかないと、次いつこんな風になってくれるか分からないし。
「翔、もう一回キスしたい」
コーラをラッパ飲みし始めた翔に更なる我儘をふっかけた。翔はボトルの飲み口を僕に差し向けて、言う。
「お前の眼鏡が邪魔だからヤダ」
翔が、飲み口を僕の唇にぐいぐい押しつけるのは「これを代用品にしろ」ってことなんだろうか。こんなの全然柔らかくないし熱くないし興奮しないけど、仕方ないからコーラを呷る。
翔に邪魔だと言われても僕はこのダサい眼鏡を取らないし、前髪も切らないし陰キャラも治さない(ていうか治らないが正しいんだけど)。翔がそれを望む限り、僕は翔と正反対の僕でい続けなきゃいけない。そうして僕は、僕が大好きな「完璧」な翔を、なるべく近くで見守っていくんだ。これからも、可能な限り長く。