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夜の帳が下りれば、本格的な活動時間だ。朝も昼も苦手ではないが、夜ほど身体が軽くはない。闇に紛れようとするから、人間は実態を把握することなく、空想化していったのだろうか。
そんなくだらないことを考えながらエルトバイアスが主寝室の扉を開けると、昼寝から目覚めたらしい砂雨がベッドの上で目を擦っていた。お気に入りの毛布を、もうひとつの小さな拳が、きゅうっと握っている。
――――まだまだ子供だなぁ……。
微笑ましい光景に、笑みがこぼれる。
「おはよう、砂雨ちゃん」
声をかければ、くるんと丸い黒がエルトバイアスを捉えた。
「ん、エル……朝なの?」
「午後八時を過ぎたところだよ」
起きたときの挨拶は、おはよう、だ。何も可笑しくなどない。時間は関係ないのだとエルトバイアスは思っているのだが、砂雨はそうではないらしく神妙な面持ちでいる。
誰だろう、彼女に要らない知識を植えつけたのは。
人間の習性を知り尽くした夽あたりかもしれないな、と検討付けたエルトバイアスは後で彼に何かしらペナルティを与えようと決めた。
「砂雨ちゃん、ジュース飲もうか」
首を横に振った彼女に気付かれないよう笑顔のまま、エルトバイアスは内心溜息を落とす。
レストランでの一件以来、砂雨は食欲をみせていない。それは、人間と同じ雑食のほうにしても、血の一族としてのほうにしても同じで、恐らくは精神的なものだろう。
力を使った直後に奏歌が血を飲ませたらしいが、それが十日前ということもあり、エルトバイアスはそろそろ若い人間の調達を考えていた。
「そうだ。砂雨ちゃん、本屋さんにでも行ってみない?」
「ほん、本? おそと……?」
「うん、外だよー。偶には、自分で選んでみたいでしょ。気に入った本があれば買ってあげるよ」
そうすれば、少しは気分も晴れることだろう。その帰りに優しく説き伏せて、食事をさせれば一石二鳥だ。狩り自体は自分がすればいいのだから、何の問題はないはず。
優先すべきは、心身を健やかに保たせること。
そう、あれから十日も経っている。
砂雨は無力で無知だ。それなのに、よりによって初めての場所で目を離すなど言語道断。砂雨をひとりにさせた蓮には、現在接触禁止令が発生している。
そのくらいで済んだのは王の恩情──ではなく、自身も長い時間ついていてやれないという負い目だろうか。
里では四六時中、王自らが世話を焼き、片時も離そうとはしなかった。
何処へ向かうにも腕へ抱いて行くのだから、砂雨が自分の足で歩いたことなど数えるほどしかないだろう。
その奏歌は、今夜も出掛けている。王である彼にしか出来ないことも多く、まだ暫くは慌ただしい日が続きそうだった。
砂雨の世話に長けた肖もまた、いつまでもホテル暮らしでは不便で仕方ないといって、蓮を連れて物件探しに精を出しているようだ。他の奴らも、似たような理由で出払っていた。地盤を固めることが先決だと、それぞれの遣り方で王の役にたとうとしている。
「ね、砂雨ちゃん。お出かけ、しようね」
「……かなか、は?」
やはり、この間のこともあり不安なのか、黒い瞳が怯えを滲ませている。
あれほど奏歌と一緒だったのだ。ひとり取り残されている現状を、彼女が不安に感じるのも無理ないだろう。
普段はどうも奏歌に対し素っ気ない態度をとりがちだったが、本質は臆病で甘えたがりだ。そのうえ気難しいところがあるので、こちらが気にかけてやらないと直ぐに弱ってしまう。
手がかる子供。
けれど、決して喪うことのできない存在。
「奏歌なら朝には戻って来ると思うよー。だからさ、その間に、お出かけしよう、ね?」
甘く誘うエルトバイアスに、難しい顔をして何か考え込んでいる。
しかし元々、彼女は押しに弱い。外への好奇心も少なからずあるのだろう、小さくだがしっかりと頷いた。
「よし、決まり! お着替えしようね」
砂雨が疎いのをいいことに、エルトバイアスは自身が選んだ服を着せていった。肌触りや重量にさえ気をつければ、なんだって着てくれるので実に選び甲斐があるというものだ。
「砂雨ちゃん、寒くない? カーディガン羽織る?」
「ううん、いらない。……飛ぶの?」
「ごめんね。本屋さんは、ちょっと遠いんだ」
里では、王の腕に抱かれて移動していた貧弱な身体だ。大した距離は歩かせられない。
「じゃあ、抱っこするからね」
嫌がるかと思ったが、おとなしく身を委ねてくれて助かった。
エルトバイアスが選んだ先は、都内の大型書店。
見た目は、どちらかといえば外国の図書館に近い。一階から二階までアンティークな家具とともに楽しめる、いわば大人向けの空間となっている。
すでに話はつけて休業日にさせていた。戸はすべて閉め、誰も入って来ないように。そうしっかりと言いつけていた甲斐があり、店内に人間の気配はない。
――――――――そう、これは人間の匂いではなかった。
店内の至るところに飾られたランプには、優しい橙が灯っている。
ゆらゆらと微かに揺らぐその下で、革張りのソファに身を預けるひとりの男の姿。
どうやら異物を招き入れてしまったようだ。
力の弱い者ではない。同等か、もしくは上回るほどの。
エルトバイアスは己の失態を悟った。
「……や、エル」
浴びせられる熱視線は、臆病な心を突く。エルトバイアスの肩へと顔を伏せ、拒絶を表す砂雨を、彼はしっかりとした力で抱き締め返した。
細い背は、震えている。
現状に表情を失せたエルトバイアスが、先程からこちらを熱心に観察している男へと顔を向けた。
「こういうの、やめてもらえるかな」
自身もあまり出し馴れていない単調な声色に、腕のなかの身体がぴくりと跳ねる。それを宥めるエルトバイアスと、向かい合うかたちで立ち上がった男は困ったふうに眉尻を下げた。
「すまない。怖がらせるつもりは、なかったんだ」
その返答を、エルトバイアスが嗤う。
張っていた結界を破り、待ち伏せていた男がよく言うものだ。
「先日、この子に接近したのはキミかい? それだけじゃなく、他の奴の周りにも足跡を残していったりしてさ」
「それも重ねて謝ろう。知りたかったんだ、私ははぐれだから……しかし、驚いたよ。結構大人数な群れをつくっているんだな」
彼の言いたいことは、分かる。その次に続くだろう言葉も、エルトバイアスには予測がついた。
「複数で行動しているところを見ると、きみたちには王がいるはずだ。きみたちの王に挨拶がしたい」
神経質そうな窪みがちな目は、不安と期待。それから、希望の光を宿している。
恐らく、この男は、孤独に耐えられなくなったのだ。
エルトバイアスとて、この群れに加わった遥か昔の日、同じことを思い、同じように懇願した。だから、彼の考えていることが手に取るようにわかり、永らく忘れていた過去の記憶が蘇っては胸を掻き乱す。
血の一族を、人間が知る生物で例えるなら、それは吸血鬼と呼ばれるものが最も近しいだろう。
人間が描く吸血鬼という生き物は、同族とも馴れ合わない孤独主義、冷徹な血縁狂い。そのように描かれがちだが、現実は違う。
実際は、とても情に脆い。
多くの者が、主と認めた王に仕えることで幸福を感じ、群れの仲間は大事にする。
そして何よりも子を慈しむ。それが、王の伴侶なら尚更。
「逢わせても構わないけど、受け入れては貰えないかもしれないよ。なんせキミは王の許可なく、彼の伴侶に触れたのだから」
腕に抱く少女は、まだ警戒心を解いていない。
エルトバイアスとの会話で、この男が同族だと理解出来たとは思うが。
男もまた、砂雨の旋毛に唇を落とすエルトバイアスの意味を察したようだった。
戸惑った表情で、小さく息を吐く。
「今、王の伴侶といったか、彼は、その……若いのか?」
「キミよりも歳上だと思うよ」
「では、こんな幼い子にきみたちの王は」
「この子も、こう見えて成体なんだ。ただ身体が丈夫でなくてね、色々と遅れてる」
狭い世界で育てられた彼女が、人見知りするのは当然にも思えた。
王が、群れの仲間が、大事に育てた。笑うことも、泣くことも忘れようとしていた可哀想な子供を。心から慈しんで。
漸く、こうやって甘えてくれるようになったのだ。
「砂雨ちゃん、本を選ぼうか?」
返事はない。異論はなさそうだ。
くるりと踵を返して、目星をつけていた棚へと向かう。その後ろを、男は黙ってついてきていた。
絵が大半のものばかりが並ぶスペースへと来ると、エルトバイアスは砂雨の身体を回転させて地へと下ろした。目の前に並んだ絵本の山に、途端、きらきらとした瞳になった彼女は、エルトバイアスが勧めるまま触れていく。
砂雨は字が読めない。彼女の両親は必要な教育を受けさせておらず、奏歌も特に不便はないだろうと教えようとしなかった。
誰かが、読んであげればいいのだ。
少ない文字の内容を、彼女は理解しようとする。
「肖が買ってきてくれたのは、これだよね。同じシリーズにする?」
それとも、もう少し上の年齢向けの本がいいだろうか。
暇を感じないように、多めに見繕っていったほうがいいだろう。ホテルに置いてある絵本の続編らしきものを幾つかと、それから。
「これは?」
「ん? どれかな」
砂雨が手にとった本の表紙を見たエルトバイアスは一瞬、表情を失くした。が、直ぐにニコリと笑い、その場で膝を折る。
「これはダーメ」
きょとん、とする砂雨の手から奪い取るエルトバイアスに、背後に控えていたはずの男には思うところがあったらしい。口を挟んできた。
「いいじゃないか、それくらい」
その声にビクリと震えあがった砂雨は、恐る恐るといったふうに振り返る。その先に立つ男の姿に大きく目を見開く彼女を、エルトバイアスは背を撫でることで宥めた。
「あーあ、砂雨ちゃん、せっかく忘れてたのにね」
「うん……」
「大丈夫、怖くないよー。何かしようものなら、俺がやっつけてあげるから安心して」
エルトバイアスの言葉に男が、酷いな、と苦笑を漏らす。
「砂雨ちゃん、ほら気にせず本を選んで。あ、さっきのはダメ。ここらへんの、ね。――――で、こっちは取り敢えず、名前でも聞こうかな」
「ラドゥだ」
砂雨を目の前のものに集中させることにして、立ち上がったエルトバイアスに男は食い込み気味で名乗った。
生まれはルーマニアだ、と続けるラドゥに驚きは抱かない。彼の顔立ちから違和感はなく、ルーマニアは元々大規模な群れがあったと記憶している。
そして、その群れはとうに消滅し、遺された子孫が世界各地に散らばっていることも。
「私のことは、ラドゥと呼んでくれ。ああ、戸籍上のものをフルネームで?」
「いや、それは後で専門の奴に教えといてくれればいいよ」
「了解した。……そちらは?」
「俺はエルトバイアス。出身は……まあ、ヨーロッパのどこか、とだけ。で、こっちが砂雨。日本生まれ」
「そうか。よろしく、砂雨。この間は吃驚させて、すまなかったね。私が礼儀を欠いていた」
これ以上、怯えられないようにだろう。ゆっくりと慎重な動きで歩み寄ったラドゥが、先程エルトバイアスがしていたように、砂雨の前で腰を落とす。
絵本を捲りながらも、こちらの話を聞いていただろう彼女は、戸惑いを残したままの表情で視線を合わせた。
「うん……。エル、このひとも、一緒にいるの?」
「奏歌が良いって言えばだけどね」
「……ふうん」
あ、これは、大丈夫かもしれないな。
恐怖心がかなり薄れたらしき砂雨に安堵する反面、まだまだ檻が甘かったかなとも思う。この調子でもしも、人間に懐いてしまったらと想像するだけで、エルトバイアスの胸がぐるぐると黒いもので混ぜられていく。
もっと、他の者を受け入れられなくなるといい。彼女には群れの仲間以外、必要ない。身も心を預けるのは自分たちにだけで、砂雨は彼らの王のことだけを想っていればいいとエルトバイアスは常々思っているのだ。
柔らかな笑みの下に歪んだ愛情を抱く男など知りもしないで、当の本人は無邪気な素振りでエルトバイアスの手をひく。
「これがいい。これ……これも、だめ?」
受け取った絵本をぱらぱらと捲って確認する。流し読みしたことによって得た情報では、一羽の兎と一頭の虎が美味しいパンケーキを食べるために色々と頑張る、といった自然の法則からして可笑しいものだった。
だが、害はない。人間同士の色恋も描かれておらず、偏った聖悪も無いとみていいだろう。
「いいよ、買ってあげるー。あと、ここらへんも買っておこうか」
砂雨は書物は高価な物だからそんなに要らないと言うが、いつの時代の話をしているのだろう。店内にある商品すべて合わせても、エルトバイアスが昨日得た収入の半分にも満たない。
次々と手にとったそれらを、持参してきた袋へと詰め込んでいく。代金は、後払いの予定だ。
ラドゥが当然のように手を差し出してきたので、エルトバイアスは遠慮なく重みの増した袋を手渡した。空いた腕で砂雨を抱き上げると、ラドゥを振り返ることなく問う。
「飛ぶけど、追跡は得意かい? 無理そうなら、肩を掴んでてあげるけど」
「問題ない。……痕跡を残してくれれば、の話だが」
「今更、そんな面倒なことはしないよ」
フッと笑って、腕のなかの尊い存在を見た。
予定外の邪魔が入ったせいか、少し疲れた顔をしている。食事は諦めて、このまま部屋に戻ったほうがよさそうだ。
エルトバイアスは凭れかかる身体をしっかりと抱き、その場からホテルへと転移する。その後を続くのは、もうひとりの男。
無人となった書店からは自動的に明かりが弱まり、一角の棚からはごっそりと本が消えていた。




